64 / 66

第64話 エリペールの一年間③

 必死に自分を落ち着かせようとするが、呼吸が荒いのは自覚している。  走って来たからではない。オメガを取られまいとする、アルファの本能がそうさせているのだ。  ブランディーヌの顔を見て、マリユスを連れて行ったのが母であるのは確実だろうと思った。  リリアンも同時にいなくなったことから、付き添わせている可能性が高い。 「エリペール、貴方もマリユスも落ち着くまでは離れるべきよ」 「何故? 何故です、お母様。私はマリユスなしには……」 「じゃあ、今の状況で同じベッドで寝たとして、噛まずにいられるかしら? マリユスの養子先も決まっていないのに、貴方が本気でマリユスと結婚したいと思っているならば、勢いだけで行動してはいけないことくらい分かるでしょう」 「ですが……」  マリユスは一人で寂しがっているかもしれない。そう言おうとして口を閉じた。  ブランディーヌの言う通りである。  今の自分の発言は、幼児が地団駄を踏んで駄々を捏ねているのと同じだ。 「……今のままでは結婚は難しいと、さっきお父様と話してきました」  父であるゴーティエと、少し前からマリユスの養子先を探していた。しかしどの人も口を揃えて『奴隷はちょっと……』敏感なまでに奴隷という言葉に反応する。  事態は難航を極めていた。  こんな内容をマリユス本人には聞かせるものじゃない。何も知らなくていい。  ただ、広げた私の腕に飛び込んできてくれれば、それで良いのに……。  そんな絵空事を言っている場合ではないことくらい、私が一番よく分かっていなければならない。   「何か手立てを考えないと……。貴方はマリユスの主人でもあるのだから。貴方の一言にマリユスは従うの。頸を噛むと断言すればマリユスは逆らえない。結婚すると言えば断れない。今の状態では何を言っても命令にしかならない。オメガにとってアルファという存在がどういうものなのか、それは考えればわかることよ。それに……」  ブランディーヌが言葉を詰まらせた。 「何か、悪い知らせのようですね。お母様」 「えぇ。マリユスを別室に移したのだけれど、ヒートが相当酷くてね。医師についてもらっているのだけれど、どちらにせよ動ける状態ではないわ。発情期が明けたらまた部屋は戻せばいい。今はやるべきことに専念するべきよ。それがマリユスのためでもあるのだから」  なんとか屋敷を飛び出す前に踏み止まった。  このまま強制的に隔離している部屋を聞き出し、マリユスを迎えに行くこともできる。しかしそれが意味をなさないことも頭では理解している。  現実的な問題を解決しながらも、私自身がするべきことがあることも……。  自分自身の精神面をもっと強くしなければならない。マリユスを別室に移動させただけでこんなに狼狽えていては、彼を守り切るなどできっこない。  この離れた期間は、私の精神面の成長にも必要な時間だと、ようやく納得させられた。  そうとは言っても眠れなくなるのは当然の現象だ。 「マリユス……」  子供の頃から毎日この腕にマリユスを抱えていた。  温もり、匂い、存在そのものが私を安眠へと導く。  一人きりでこうしていると頭の中でマリユスしか考えられなくなり、不眠の症状は日を追うごとに悪化の一途を辿る。  公務の間は忙しくて気が紛れるが、一人の時間は苦痛でしかない。  こうして二十日ほど経った時、私は公務中に倒れてしまったのだった。  

ともだちにシェアしよう!