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第2話

 快斗からメールをもらった後、太賀は快斗から指定された駅で降りた。駅のロータリーには、駅に着いたら、快斗から乗るようにと言われていた黒塗りの車が一台止まっていた。太賀はその車に近づくと、車内にいた品の良い運転手に促され車に乗り込んだ。車内は、運転手との間に曇りガラスの仕切りがあり、さらに後部座席の窓は景色が見られない仕様になっている。それは、クラブの仕事が正式に決まらないと、クラブへの場所を教えられないという理由からだということは、既に快斗に聞かされている。そうは言っても不安になる。このまま知らない場所に連れて行かれ、拉致でもされたらと想像しない人間などいるのだろうか?  太賀はそれでも、『これも金のためだ!』と心に決めると、車はゆっくりと走り出した。  30分ぐらいして車が止まる気配を感じた。大雅と運転手は車から降りると、車は地下の駐車場に停められいた。  大雅は運転手に誘われながら、エレベーターを使って上の階へと上った。二人でエレベーターが止まった階で降りると、運転手とともにそこから数歩歩いた。運転手がクラブの入口だと思われる扉を開けると、太賀は運転手とともに室内に入る。その時、太賀は自分の目に飛び込んで来た光景に、思わずあんぐりと口を開けてしまった。  多分ここは、都会のど真ん中の高層ビルの中のはずだ。でも、今自分がいる場所は、まるで異国にでも迷い込んでしまったかのような空間を鮮明に作り上げている。一言で表すなら、中世のヨーロッパの貴族が、舞踏会でも行うような部屋だと言うと分かりやすいだろう。壁一面に格子の入った細長い半円形の窓のようなものが並び、その窓の縁がとても繊細な装飾で施されている。アーチ形の天井には、壁画が所狭しと描かれていて、その壁画はいささか現代風にアレンジされた中世の西洋絵画といった感じで、とても粋な感じがする。天井に取りけられたシャンデリアもこれでもかと豪華で、どうかお願いだから地震で落ちてこないで欲しいと願うばかりだ。  床には、色とりどりの花や植物が描かれた、落ち着いたモスグリーンを基調とした絨毯が前面に張り巡らされていて、その上にはアンティーク風なロココ調の茶色のソファーとテーブルが、区切られるようにワンセットずつ数か所に分かれて置かれている。  また、このクラブに入って真っ直ぐの一番奥に置かれた、高級感漂う木製の大きなバーカウンターの棚には、何種類あるのか数えきれないほどの酒瓶が、柔らかな明かりにライトアップされながら、品よく並んでいる。  とにかく、太賀はこんな世界に身を置くのは初めてで、見るものすべてが、触ってはいけないような高級感を漂わせているこの空間に、ひどく圧倒されてしまう。そのせいで、茫然と今いる場所に突っ立っているしかできなくて、太賀は完全に身動きが取れないでいた。  その時、ガチガチに固まっている太賀の肩を、背後から誰かが叩いた。 「やっと来たな。待ってたよ」  太賀は、聞き覚えのあるその声に安堵して振り返ると、そこにはこのクラブの雰囲気に相応しい格好をした快斗が立っていた。  快斗は、白いシャツに黒い蝶ネクタイを付けて、黒いベストを身に付けている。腰には長く黒いエプロンを巻き、その姿は、いかにも高級クラブのボーイという感じだ。 「快斗……ここって、本当に俺が働く場所なのか?」  太賀は僅かに声を震わせながらそう問いかけた。 「当たり前だろう。俺が今ここにいるんだから……まあ、太賀の気持ちは分かる。俺も最初はかなりビビったからな」  快斗は太賀をリラックスさせようと、努めて明るくそう言った。 「こっち来て、今支配人に紹介する」  快斗はそう言うと、太賀の腕を掴んで引っ張った。太賀はぎこちなく体を動かすと、快斗に引かれるがまま歩いた。  クラブの中に入って左側の方に進むと、『スタッフオンリー』と書かれたドアがあり、快斗は躊躇いなくそのドアを開けると、太賀を中に引き入れた。そして、目の前に現れた短い階段を下りると、その先には『スタッフルーム』と書かれたドアがあり、快斗は軽くドアをノックすると、中からの返事を待った。 「どうぞ」  部屋の奥から、落ち着いた男の声が聞こえると、快斗は『失礼します』と丁寧に言い、ドアを開けた。  部屋の中は、ありえないくらいラグジュアリーな店の雰囲気とは違い、会社のオフィスのような落ち着いた雰囲気を漂わせている。ただ、この部屋でさえも、置かれている家具や照明、簡易キッチンなどのすべてが、ひどく高級そうに見える。  部屋はそれほど広くはなく、このクラブの従業員は何人いるのかと、太賀はそれが気になった。 「支配人。この間話していたアルバイトを希望する者を連れてきました。名前は吉村太賀で、俺の友人です」  友人と言う言葉に少し違和感を覚えるが、これから先一緒に仕事をしていけば、良い友人になれる可能性は無きにしもあらずかもしれない。太賀はそう思いながら、支配人という人に体を向け、頭を深々と下げた。 「吉村太賀と申します。大学院生をしています。もしここでアルバイトをさせていただけるのであれば、一生懸命頑張ります」  太賀はそうはっきりと言った。仕事の内容も分からずまま、給料がとてもいいという理由だけでここまで来てしまった自分が、調子のいいことを言っていると、太賀は少し自嘲的な気持ちになる。 「話は快斗から聞いてるよ……今から、一通りこの店のルールと仕事の内容を説明するから、まずはそこに座って」  支配人はテキパキとそう言うと、自らソファーまで歩き、太賀に、自分が指し示した席に座るよう促した。 「快斗は席を外して、バーカウンターのグラスでも磨いといてくれ」  支配人はぴしゃりと一言そう言うと、快斗は素直に『はい』と一つ返事で部屋を出て行った。  太賀は目の前に座る支配人をそっと観察する。年齢は40代半ばぐらいだろうか。こめかみの生え際には白いものが目立つが、顔の肌艶は若々しく、顔立ちはすっきりとした塩顔だ。細身で長身。スタイルが良く、全身グレーのスーツに黒いネクタイを締め、胸元にはゴールドのネームプレートが付けられている。 『支配人 松下裕一郎(まつしたゆういちろう)』  その名前を確認した後、太賀は改めてぐるっと部屋の中をもう一度伺った。この部屋の奥にはもう一つ部屋があるようで、そのドアには『ロッカールーム』と書かれていた。 「太賀君」 「……へ? あ、はい」  いきなり名前を呼ばれて太賀は慌てて返事をした。 「このクラブについて、快斗からどこまで話を聞いてる?」 「え? ああ、そうですね、完全会員制って話しか特には聞いてません。あ、あとは採用されるのには結構条件が必要ってことも」  松下は長い脚を素早く組むと、手に持っている黒いファイルに目を落とした。 「そうだね。うちのクラブはかなり特殊だから……じゃあ、今から私が言う条件を君が守ってくれるか確認したい。まず、このクラブに来る客は皆、仮面を付けるのが条件だ。それは私たちスタッフも一緒で、君にも仮面を付けてもらう。そして、それを決して外してはならない。次に、君は客に対して一切感心を持ってはならず、接客以外の余計な会話は厳禁だ。君はフロア内で給仕だけをすればいい。そして、この店の存在も場所も、このクラブで見た光景、耳で聞いた内容全ても、決して口外してはならない。このクラブは完全会員制だ。信用がすべてだ。お客様の信用を裏切るような行為は断じて許されない。契約書に記してはいないが、過去に損害賠償金を支払わせた例もある。君に今から契約書の内容を良く読んでもらって、サインを書いてほしい」  大賀は松下の話を聞きピンときた。快斗が自分をアルバイトに誘った時、過去に、損害賠償金が支払われた事実があることを知っていながら、わざと誤魔化したということを。 「驚くのも無理はないよね。でも、そのくらいこのグラフは特別だということを理解して欲しい」  松下は太賀をまっすぐ見つめると、そう淀みなく言い放つ。 「な、なるほど。この店の高級な雰囲気と、仮面を付けて身バレを防ぐってことは、この店には、相当な立場にいる人が客として来るんですね……」  太賀は僅かに声を震わせながらそう言った。 「そうだね。だからこそプライバシーはこの上なく厳重にしないといけないんだよ。田嶋君は君のことをかなり信用しているみたいだから、私も田嶋君を信用して、君をここに来させた。まだ間に合うが、この場所を知ってしまったら、もう君は後戻りできないけど、構わないかな?」  有無を言わせぬような松下の圧に、太賀は思わず息を呑む。でも、この契約書に書かれた賃金の額はとても魅力的で、店と客のプライバシーさえ遵守すれば、こんな美味しい仕事はないのだと、太賀は改めて実感する。 「分かりました。やります……じゃあ、俺はいつからここで働けばいいですか?」  太賀は契約書にサインをしながらそう尋ねると、松下は黒いファイルから、もう一枚書類を太賀に渡した。 「君が店に来られる日を教えてくれ。シフト表ができたらメールする。従業員は私と田嶋と君。それ以外にもう2人いる。後で紹介するよ」  山下はにこやかな笑顔でそう言うが、まだ太賀を値踏みするような目で見つめてくる。 「分かりました。じゃあ、メール待ってます」  太賀はそう言って松下から目を反らすと、なんとなく僅かな不安とともに、少しだけ胸がざわめくのを感じた。

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