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第4話

 太賀は大学で、障がい者がより良い生活を送るためのメタバースの研究をしている。視覚や聴覚、手足が不自由な人たちが、社会ともっと密接に繋がれるような仮想空間を作る研究だ。亡くなった太賀の父親は、障がいのある人たちのために自分に何ができるかをいつも考えていた。父親はわざわざ借金をしてまで、障がい者支援に取り組む会社を起業するつもりでいたが、夢半ばで亡くなってしまった。太賀は、そんな父親の思いを継いで、今この研究に没頭している。しかし、研究室側は産学連携(企業と大学が連携して製品開発に取り組むこと)を望んでいるが、年々、この研究への支援金が減らされていて、ついに来年度で打ち切られてしまうという事実を、太賀は今日奈緒から聞かされた。彼女も太賀と同じ研究室所属だ。当事者である彼女の貴重な意見が、この研究にたくさんの影響を与えてきたというのに。太賀はその事実に、もの凄く悔しくてたまらない気持ちになる。 「奈緒は悔しくないの?」  太賀は手話を使って菜緒に話しかけると、菜緒は『そんなわけないじゃない』と怒りを露わにした顔と手振りで太賀に答えた。『そうだよね。ごめん』と、太賀はすかさず返事を返す。  奈緒は自分よりももっと悔しいだろう。当事者でありながら、こんな仕打ちを受けるなんて絶対間違っているのに。でも現実はこうも手厳しい。  少子化で大学の学生数も年々減っている。そのせいで大学の運営資金を賄うのが大変で、国から出る補助金の殆どを運営費に充ててしまい、研究費まで回らないというのが原因らしい。  すべてに置いて金がどれほど重要か。太賀はそれに今強く身につまされている。この仕事に就いたのも結局金のためだ。自分の人生のテーマは、こうやってずっと金に悩まされ続けることなのだろうか。それは嫌だと深い溜息を洩らす。太賀は今、ホールに立ち客を待ちながら、大学での奈緒との会話を反芻しているところだ。 「太賀、おい、またぼーっとして大丈夫か? あっちのお客さんよろしく」  快斗に肩を叩かれて、太賀はハッと我に返った。『ごめん』とすかさずそう言うと、太賀は二人組の客に気持ちを切り替えて近づいた。 「いらっしゃいませ。お客様。お席にご案内します」  太賀は丁寧にそう言うと、二人の客の前に立ち、空いている席に誘導する。しかし、その途中で快斗が近づき、太賀に素早く耳打ちをした。 「太賀、そのお客様はVIP席に案内しろ」  少し焦ったようにそう言われ、太賀に緊張が走る。どうやらこの客は他の客とは一線を画すらしい。 「解った」  太賀はそう返事をすると、VIP席に方向を変えた。VIP席は普通の席より一段高い床に設置されていて、ソファーも他の席よりも更に豪華な物が置かれている。尚且つ他の席から隠すように仕切られた壁は、これでもかというくらいの細かい透かし彫りが施されていて、その見えるようで見えない、壁の向こう側の想像を掻き立てる効果が、存分に発揮されている。  ここにいる客たちは、太賀のような一般人とは大きくかけ離れた人たちであるというのに、更にその上を行く人物がいるそのヒエラルキーに、太賀は今自分がいる世界はきっと夢の世界かもしれないと思わないと、やっていられないという気持ちになってしまう。 (格差ってこのクラブの世界にでもあるんだな……)  驚きを隠せぬまま、太賀は客の前に膝間着くと『ご注文はいかがなされましょうか?』と丁寧に問いかけた。  太賀は、二人がメニューを選んでいる間に、二人の客をさり気なく観察した。ひとりは太賀より少し上くらいの年齢に感じる。今時のきちんとした若いサラリーマン風な、茶髪のマッシュヘアをしている。でも、どこか落ち着きなくそわそわしているような印象を覚える。  もう一人の方を見た時、太賀はその衝撃に言葉を失った。多分自分が今まで出会ってきた人間の中に、こんな人間はいなかったと自信を持って言えるレベルだ。  その男は仮面越しでも分かるくらいの強いオーラを放っている。多分、仮面の奥にある顔は完璧に整っているに違いない。それ以外は考えられない。そうでなければおかしい。という絶対的な説得力が、その優美かつ静謐な雰囲気から強く放たれている。  髪型は、艶のある黒髪を両サイドで少し刈り上げていて、ゆるいパーマがかかった髪を、額を出すようにサイド分けしている。それが男の顔の輪郭を美しく際立たせている。明らかに仕立ての良い黒いスーツを身にまとった肢体は、一ミリの誤差もないくらいのバランスで存在している。手足の長さや顔の大きさなどは、普通の人間はどこかバランスが悪かったりする。でも、この男は違う。座っていても分かるくらいの均整美を、優雅に悠然に、まるで見せつけるように足を組み替えながら太賀に知らしめてくる。  太賀はその男の強烈な引力なようのものに心を奪われてしまい、二人からの注文を思わず聞き逃してしまう。 「あっ、えーと、た、大変失礼いたしました。もう一度ご注文をお聞かせくださいますか?」  太賀は上ずった声で二人に頭を下げながら、もう一度丁寧に注文を取り直した。  二人のうちのサラリーマン風の男が、少しイライラしたような態度でもう一度カクテル二つを注文すると、太賀は深々と頭を下げて、『承知いたしました』と言い、その場を離れた。  太賀はドキドキと鳴りやまない心臓に驚きながら、急いでバーテンダーに注文を告げた。自分でもこんな感情になったのは初めてで戸惑ってしまう。この胸の動悸は何なのか。確かに凄まじく魅力的な男だ。でも、だからと言って一目惚れしたとかそういうことではない。まるで自分の体が本能的にあの男に反応しているような、そんなおかしな感覚を覚え、太賀は胸の動悸を抑えようと大きく深呼吸をする。 「太賀さん。カクテル二つ用意できました」  バーテンダーがカウンターに奇麗な赤色と、琥珀色をしたカクテルを二つ置いた。太賀はバーテンダーに二つのカクテルの名前を確認すると、それを盆の上に置いた。  太賀は二人の席まで向かい、テーブルの上に二人が注文したカクテルをそれぞれの目の前に丁寧に置いた。琥珀色のカクテルをマッシュヘアのサラリーマン風の男の前に。赤色のカクテルを強いオーラを放つ浮世離れした男の前に。  太賀はまた床に膝間着くと、『ご注文は以上でしょうか? また御用がございましたら、こちらのベルをお鳴らし下さい』と言い、ベルをテーブルの上に置こうとした。  その時、突然、強いオーラを放つ方の男にすっと顎を掬われた。太賀は突然のことに驚き、ベルをテーブルの上にごとっと落としてしまう。 「新入りか?」  男は太賀に向かってそう言った。太賀は突然の男の行動に、聞いていた話とは違うと焦った。客たちはクラブの従業員などロボットのようにしか見ていないと言っていたのに。太賀はこの男に対しどんな反応をすれば良いか分からず、仮面越しに男を見つめたまま数秒間固まる。 「あ、はい……そうです」  太賀は、ここでこのVIPな客に対し失礼な態度を取る方がリスクが大きいと感じ、素 直にそう答えた。給仕以外の余計な会話は厳禁と言われていたが、寧ろ、無視をする方がまずいに決まっている。 「ふっ……なるほどな」  男はそう言うと、まだ太賀の顎を掬ったまま、太賀をまじまじと見つめてくる。仮面から見える男の黒目はまるで人工物のような輝きをしていて、太賀はその不気味さに寒気を覚えた。 「ちょ、ちょっと、九条(くじょう)さん。何してるんですか? 僕のこと忘れてませんか?」  サラリーマン風な男が拗ねたように、その九条という男の腕を揺さぶった。太賀はその隙に男からさっと離れると、もう一度テーブルに落としたベルを持ち上げ、丁寧にテーブルの上に置き直す。 「御用がありましたら、こちらのベルをお鳴らし下さい。では、失礼いたします」  太賀は早口でそう言うと、客に一礼し、その場から足早に立ち去った。 (どういうことだ? 何で俺が新入りだって分かったんだ? 従業員になんて興味ないはずだろう?)  太賀は動揺を抑え込みながら、バーカウンターまで歩く。まだあの男に触れられた顎が熱い。その熱はじわじわと太賀の体を侵食しようとしてきて、太賀はバーテンダーに慌てて冷たい水を頼んだ。 「どうしたんですか? 顔が赤いですよ? 体調悪いんですか?」  バーテンダーは太賀に水を渡すと、心配そうにそう言った。 「い、いや、何でもないです。大丈夫です」  太賀は取り繕うように笑顔を向けると、一気に水を飲み干した。  その時、艶やかなベルの音が鳴り響いた。ドキリと心臓を鳴らしながら、太賀は音のする方へ目をやった。視線の先にあったのは、九条という男が座っているVIP席で、太賀は驚いて目を見張った。 (うわっ、何だろう……また絡まれたらどうしたらいいんだよ)  太賀は自分の取るべき行動が定まっていないまま、周りを見てもフリーなのは自分だけだと確認すると、渋々重い足取りでVIP席に向かった。 「お客様、お待たせしました。ご用件は何でしょうか?」  太賀はわざと客と目を合わせず、片膝を付き、床を見つめながらそう言った。 「……失礼な奴だな。顔を上げろ」  九条という男はそう言うと、もう一度太賀の顎を掴もうとしてきたが、それをサラリーマン風の男にさっと止められる。 「九条さん。さっきから何なんですか? 何でその男がそんなに気になるんですか?」  サラリーマン風の男は明らかに不満を込めた言い方で、九条に詰め寄った。 「俺の勝手だろう? 気に入らないなら帰れ。俺はお前がいなくなっても一向に構わないんだ」  九条はきっぱりと冷酷なことを言うと、サラリーマン風の男はワナワナと震えながら拳を強く握り締める。 「なっ、あなたって人は……本当に酷い人ですねっ」   サラリーマン風の男は、声を震わせながらそう捨て台詞を吐くと、勢いを付けて立ちあがり、その場から走り去った。 「あっ、お客様!」  慌てて後を追おうとした太賀の手を、九条が掴んだ。 「おい、新入り、これを渡しておく」 「え?」  突然自分の手に掴まされたカードを、太賀は茫然と見つめた。 「これって……」 「このクラブの会員証だ。今週土曜日の二十時に、お前はその会員証でこのクラブに客として必ず来い。俺が支配人に話しておく」 「え? それって、どういうこと……」  突然のことで状況が飲み込めない太賀は、ただ九条とカードを交互に見つめることしかできなかった。

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