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第5話
あの日、あの男から突然誘われた日、太賀はスタッフルームで帰り支度をしている時に、支配人に声を掛けられた。支配人の松下は少し硬い表情を浮かべながら、太賀をソファーに座らせた。話の内容はこうだった。
太賀を誘ってきた男は、信じられないことにこのクラブのオーナーで、誰もが知っている大手電気通信会社の御曹司だということを教えられた。名は『九条 要(くじょうかなめ)』という。
このクラブはこの男の趣味で作られたもので、とにかく早い話、九条は相当な金と権力を持っているということらしい。だから、誰も彼には逆らえないというのがこのクラブの暗黙の了解で、それは太賀も例外なく同じだということだ。
松下はやや眉間に皺を寄せながら、『私にも何故君が彼に誘われたのか見当が付かない』と困惑を露わにした。それは太賀も同じで、否、それ以上に自分の方が全く意味が解らない。そんな日本の長者番付にランクインするくらいの企業の御曹司が、何故自分のようなアルバイト店員に目を付けるのか。
松下は覚悟をするように口元を引き締めると、太賀に、今度の土曜日必ず客として店に来るようにと念を押してきた。仕事は何とでもなるから心配するなと。太賀はあの男になるべく従順な態度で接しながら、その場を上手く乗り切ればいい。多分金持ちの単なる気まぐれに過ぎないから心配することはないと、松下は真剣な顔で太賀にそう言った。
太賀は『解りました』と伝えると、スタッフルームを後にした。
太賀はクラブを出ると、ちょうどエレベーターの前にいた快斗に声を掛けた。二人でエレベーターを待つ間、太賀は自分に起きた事情を快斗に話した。
「え? マジで? ヤバいじゃん。何で太賀がオーナーに目を付けられたんだ?」
快斗は露骨に驚いた表情を浮かべると、いきなり太賀の両肩を掴んで揺さぶった。
「あいつ、いつもとっかえひっかえ男を部屋に連れ込んでるような奴だぞ? 金持ちのクズボンボンが太賀に目を付けるなんて、俺許せないんだけど?」
快斗は興奮気味にそう言うと、太賀の肩を痛いほど掴んだ。
「ちょ、痛いよ。離して……」
太賀は快斗から離れると、『はぁ』と深い溜息を吐いた。
「落ちついてよ。快斗。支配人が失礼のない程度でその場を凌げばいいってさ。一回でも付き合えば、単なる気まぐれだろうからその内俺に興味無くすはずだって。だって、クラブのオーナーに逆らうわけにはいかないみたいだから」
「それはそうかもしれないけど、でも何で太賀なんだ? まったく意味分かんねぇよ」
快斗は怒りを込めながらそう吐き捨てるように言った。
二人は降りてきたエレベーターに乗ると、一階に着くまで何故か沈黙が続いた。
一階に着き、エレベーターから降りるタイミングで、太賀は沈黙を破るように快斗に言った。
「それでさ、快斗……俺、ちゃんとした服持ってないんだよ。もし良かったら、貸してくれないかな?」
太賀は恥ずかしさを堪えながら快斗にそう言った。貧乏な太賀は、あんな高級クラブに行っても見劣りしない服など持っているわけがない。
快斗は、呆れたように深い溜息を吐くと、
『じゃあ、今から俺の家に来いよ。俺が渋々見立ててやる』と偉そうに言ってきた。
そこで太賀は快斗の家に行き、今、こうやって快斗が見立てた着慣れないスーツを身に纏いながら、クラブの扉の前で、憂鬱な表情を浮かべている。
太賀は意を決し、扉を開き中に入った。この時間の今日もクラブ内は混んでいて、様々なカップルが談笑に勤しんでいる。ぎこちない雰囲気のカップルもいれば、今すぐにでもことに及びそうな淫猥な雰囲気を醸し出しているカップルもいて、太賀はそんな客から慌てて目を反らすと、ぐるっとクラブ内を見渡した。
快斗が忙しく働いているのが目に入った。快斗は太賀の存在に気づくと、さっと近寄り小声で耳打ちをした。
「あいつ来てるよ。VIP席にいる……俺が見張ってるから。もし、危険な目に遭ったらスマホで合図しろよ」
快斗はそう言うと、太賀に目配せをした。
「ありがとう。多分何もないよ。俺はつまらない男を通すまでだよ。まあ、元々つまらない奴だけど」
「何言ってんだよ。その通りだよ、あはは……でもさ、あいつのために見立てたみたいで悔しいけど、スーツ似合ってるな。あんま色気振りまくなよ……」
快斗は複雑な表情を浮かべながらそう言った。太賀はそんな太賀の言葉を軽く受け流すと、『行ってくる』と言いVIP席に向かった。
(さあ、一体俺はどうすればいいんだ?)
太賀は今すぐにでも引き返したい欲求と戦いながら、九条が待つ席に緊張とともに歩を進めた。
「こんばんは……」
太賀はVIP席まで来ると、恐る恐る九条に声を掛けた。九条はソファーに凭れかかり、両腕を背もたれに広げるように載せて足を組んでいた。その、いかにも金と権力を持っている人間にしかできない尊大な態度に、太賀は呆れるよりも、圧倒的に様になっているその姿に、図らずも魅入ってしまう。
「……俺を待たせるなんて何様だ?」
「え? ああ、失礼しました。でも、約束の時間まではまだ五分ありますが?」
口答えするつもりなどなかったが、太賀はついカチンと来てしまい、思わずそう言い返してしまう。
九条は太賀の言葉を無視すると、ソファーから腕を下した。そして、テーブルに肩肘を付き手の甲で顎を支えながら、太賀を見上げた。
「まあいい。そこに座れ」
九条は自分の目の前に座れと、太賀に視線で知らしめる。
「失礼します」
太賀はそう言って、九条の指示通り目の前の席に座った。九条は、ソファーに座ろうとする自分を、仮面越しから、上から下までをまるで撫でるように見つめてくる。太賀はその不躾な視線に緊張で体が強張った。
九条は太賀がソファーに座るなり、『酒は何がいい?』と言い、メニュー表を渡してきた。太賀は酒の種類など良く分からないため、メニュー表の上から三番目辺りを適当に選び、声に出して言った。
九条は、テーブルの上のベルを鳴らしてホール担当を呼ぶと、現れた快斗に自分の酒と太賀の酒を二つ頼んだ。快斗は心配そうに太賀を見つめてくるから、太賀は大丈夫だという気持ちを、仮面越しで目配せをして快斗に伝えた。
「……おい、新入り。あの男とはどういう関係だ?」
九条は一瞬で太賀と快斗の関係に特別なものを感じ取ったのか、バーカウンターに向かう快斗を目で追いながら、いきなりそんなことを問いかけてくる。太賀は返答に困り、強張った体を更に強張らせる。
「え?……ああ、ただの同僚です」
過去に一度だけ付き合ったことがある相手だと、この男に言う必要など全くない。ましてや、友達と自信を持って言えるほど二人の関係はまだそこまで行ってはいないし。だからこれは全くの嘘ではないと、太賀はひとり納得する。
「そうか……まあいい」
九条は納得したように長い脚を邪魔そうに組んだ。彼が動くたびに、彼に纏う空気までもが強い波動を伴わせるように動く。その波動に当てられてしまうのを恐れるように、太賀は背筋をぴんと伸ばしてソファーに座り直した。
程なくして現れた快斗が、それぞれの目の前に酒を置きながら、また太賀の様子を心配そうに見つめてくる。太賀は『ありがとうございます』と言って快斗に会釈をしながら、もう一度安心させるように目配せをした。
快斗も僅かに頷くと、さっと身を翻し、次の客席に向かった。
「酒は強いのか?」
九条が自分の酒を手に持ちながら、そう太賀に問いかける。
「いや、強くも弱くもないです。普通です」
太賀も目の前のグラスを持ち上げると、その良く分からない酒を大きく一口飲んだ。思った以上に強い酒で、太賀は思わず、苦虫を嚙潰したような顔をしてしまう。
(うわ、こんな強い酒初めて飲んだかも……)
酒を適当に選んだことを後悔しながら、太賀はグラスをテーブルに戻した。
「その酒はアルコール度数が高いぞ? 知ってて選んだのか?」
九条は嫌味な笑みを浮かべながら、少し前のめりになって太賀にそう言った。
「……そうですね。知らなかったです。酒には全く詳しくないので」
太賀は正直にそう言った。こんな風に酒を九条と飲むつもりなどこっちは全然ないのにと少し憤りながら。
「あの……すみません。何故俺はあなたとこんな風に、ここで会ってるんでしょうか? 俺はこのクラブただのアルバイト店員ですよ?……正直、意味が解りません」
太賀はグラスを掴むと、勢いを付けてまた大きく酒を一口飲んだ。一口目を飲んだ辺りから既に酔いが回り、太賀の気持ちは少しだけ大きくなっている。松下には九条に従順に振る舞えと言われていたが、それは少し難しいかもしれない。
「気になるか?」
九条は探るような瞳で、仮面越しに真っ直ぐ太賀を見つめてくる。
「そりゃああなたのような、俺とは全く住む世界が違う人が俺に興味を持つなんて、普通有り得ないですよ。どんな魂胆があるんですか?」
太賀は九条の瞳からさっと目を外すと、動揺を紛らわすようにまた酒を一口飲んだ。この男は、目からすらも妖しいビームのようなものを放っているのか、それをモロに食らってはいけないという警告音が、太賀の頭の中で強く鳴り響く。
「確かにな。それは言えている。自分でも不思議だ……」
九条はゆっくりとそう言うと、グラスに入ったカクテルを、くるくると手を動かしながらかき混ぜるような仕草をして見せた。
太賀は、そのくるくる回るカクテルをぼんやりと見つめた。すると、まるで催眠術にでもかかったみたいに、自分の意識も、カクテルのようにぐるぐると回っているような感覚に陥った……。
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