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第6話

 明るい部屋で目が覚めた。慌ててスマホを見ると、時刻は既にお昼を回っていた。太賀は、自分がスーツ姿のままで自分の部屋のベッドで寝ていることに気づいた。そんな自分の状態に驚き、太賀はベッドから飛び降りると、うろうろと落ち着きなく部屋の中を歩き回った。  確かに自分は夕べ九条と酒を飲んだ。一杯目から強い酒を選んでしまい、そのせいで酔いが回るのが早かったのは覚えている。自分から九条に、どんな魂胆があるのかと問いかけたりもした。でも、そこから先の記憶が全くない。どうしてだろう。確かに強い酒ではあったが、酔い潰れるほどの量は飲んでいないはずだ。  太賀はまさかと思い、恐る恐る自分の体を調べてみた。もし酒に薬でも仕込まれていたら、意識を失っている間に襲われても抵抗などできないはずだ。でも、上半身も下半身も隈なく調べたが、特に異常は感じられない。太賀は、混乱する頭を抱えながらベッドに座り込んだ。その時、脱ぎ捨てたズボンのポケットに何か入ってはいないかと閃いた。太賀は慌ててズボンを手に取ると、ポケット中に素早く手を突っ込んだ。 (あ、これ……)   太賀は指先に触れた物を引っ張り出すと、それをまじまじと見つめた。自分の手元にあったのは、九条が自分にくれたクラブの会員証と、一枚のメモだった。 『今週の土曜日、また客として店に来い』  簡潔に書かれた、その上から目線の命令口調なメモに、太賀の手は小刻み震え始める。 (あいつ何なんだ! 一体俺に何の用があるっていうんだよ!)  太賀はこんなにも怒りの感情を覚えたのは初めてだった。いくら超絶金持ちでも、めちゃくちゃ偉い立場にある奴だとしても、こんな理不尽なことが許されていいのだろうか。 (俺の意思なんて完全無視だし、俺はそれに逆らうことも許されないなんて……)  茫然とメモを見つめていると、太賀は突発的に湧いた怒りよりも、ひどく空しい感情の方に一気に心が占領されていく。それは自分のこのみじめな環境によるものだ。人生は運で決まるというのなら、自分はほとほと運が悪いのかもしれない。両親を亡くし、その両親から借金を背負わされ、運良く見つけた割の良いバイトも、こんな風に上流階級の人間によって弄ばれるような始末なのだから。  太賀は会員証とメモを床に強く叩きつけると、こみ上がってくる悔しさで泣きそうになるのを必死に堪えた。  九条との約束の日まで、太賀は普段通り大学とアルバイトを熟そうと考えた。どちらにも没頭することで、九条との理不尽な約束を考えないでいたかったからだ。アルバイトもだいぶ板についてきているし、それこそロボットのように感情を上手く無にすることができるようになってきている。だから、今度九条に会った時も、こんな風に自分の感情を殺してロボットのようにふるまってやればいいと、太賀はそう強く心に決めていた。  あの土曜日の九条と酒を飲んだ夜以来、初めて快斗に会った時、快斗はロッカールームで神妙な顔で太賀に近づいてきた。 「太賀……俺が目を離した隙に、太賀とあの男が突然いなくなってて……俺、死ぬほど心配したんだよ……助けることできなくて、本当にごめん!」  快斗は今にも床と一体化しそうなほど落ち込んでいて、太賀はひどく申し訳ない気持ちになってしまう。 「大丈夫だよ。気付いたら俺、自分の部屋のベッドで寝てたんだよ。特に何の異常もなかったしさ」  太賀は快斗を気遣い明るくそう言った。もしかしたら自分でも気づかぬうちに、普通に家に戻って来たのかもしれないし。でも太賀は快斗に、自分がまた九条から誘いを受けたことを打ち明ける勇気はなかった。 「本当に? 本当に何もなかったのか?」  快斗はまだ信じられないのか、疑うような目で太賀を見つめてくるから、太賀は快斗の肩をぽんっと叩くと、『大丈夫だよ。心配するなよ』と優しくそう言った。  ただ、太賀は特に何の異常もないと言ったが、一つだけ気がかりなことがあった。もちろん、それを快斗に言うつもりはなく、否、むしろ言える話ではないことは明白だったのもあり、太賀はそのもやもやを、自分の心の中にぐっと押し込めた。    九条と約束した土曜日の夜が近づくと、太賀の心はひどく憂鬱になった。あの男は確かにゲイの自分から見ても魅力的なのは事実だ。でも、太賀はあの男の足下に及ばない平凡な男だし、住む世界が全く違う。そんな太賀のような人間を相手に、あの男は一体何がしたいのだろうか。ただの金持ちの火遊びに付き合わされるのなどまっぴらごめんなのに。結局逆らえず言いなりになるしかないなんて、こんなみじめなことがあるだろうか。  太賀は重たい心のままクラブのドアを開けると、呪文のように『俺はロボットだ。俺はロボットだ』と何度も唱えた。  店内に入り、九条がいる席へまっすぐ向かう間に、太賀は変な違和感を覚えた。何故か、露骨な視線を店にいる客達から感じるからだ。その目は太賀に対する興味を露わにしていて、その不躾な視線には、むしろ恐怖すら覚えてしまう。太賀はその視線から逃れるように身を小さくすると、早歩きで九条のいる席まで歩いた。  あと少しでVIP席だというところで、正面からずかずかと歩いて来る九条に気づいた。九条はまっすぐ太賀を見つめながら近づいて来る。太賀は、九条がまた自分を待たせた太賀に腹を立て、怒って帰ってしまうのを想像し、それならその方が好都合だと思った。たが、九条は太賀の脇をそのまま通り過ぎるのかと思いきや、いきなり太賀の腕を掴んで強引に引っ張った。 「行くぞ」  九条は低い声でそう言うと、太賀の腕を引きながら店の出口へと向かおうとする。 「え? ちょ、く、九条さん……一体どうしたんですか?」  太賀はいきなりのことに面食らい、口をパクパクとさせながら九条に引っ張られるしかない。想像通り九条の力は太賀よりも強く、その事実に太賀は、自分は九条よりも優れた部分を何一つ持っていないのかと地団駄を踏みたくなる。 (あーもう、何なんだよ!)  太賀は心の中でそう叫ぶと、自分のプライドが我慢の限界とばかりに、無駄だと分かっていても強引な九条の行動に抗おうとした。  太賀は渾身の力を込めて、九条の腕を解こうとするがびくともしない。もう一度必死に力を込めたが全く変わらない。そんなことをしている間に、太賀と九条はエレベーターで下に下りると、九条に腕を引かれるがまま外に出た。すると、クラブのある高層ビルの目の前に、黒光りしたいかにも高級そうなリムジンが止まっていることに気づいた。  九条は躊躇わずそのリムジンに太賀と共に乗り込むと、九条はやっと太賀の腕を離した。太賀は初めて乗るリムジンの高級感に、頭がボーっとしてしまうほど圧倒されてしまい、きょろきょろと車内を見渡してしまう。 (凄い! リムジンって何なんだ! こんな乗り物この世に存在するんだ!)  この全く説明の足りない九条という男に振り回されている自分の中で、さすがにリムジンの乗るということは想定外の外で、本当に心の底から驚かされてしまう。 「あ、あの……これは一体、どういう状況ですか?」  太賀は声を上ずらせながら九条に問いかけた。 「腹は空いてないか?」  九条は、リムジンのシートに優雅に凭れながら、平然と太賀の問いかけに無視をした。太賀は突然の九条からの質問に、呆れながらも自分の今の状態を数秒間で確認する。 「……空いてなくはないです」  少し遠まわしな言い方で、太賀は九条に対して不快感を伝えたくなる。だってそうだろう。こんな強引なやり方が平気でできてしまうほど、日本の大富豪はこんなにも理不尽で傲慢なのかと悲しくなってしまう。 「今から俺の行きつけの店に行く」  九条はそれだけを言い腕を組むと、店に着くまでの間、ずっと前を向いたまま無言を貫いた。  目的地に着き、リムジンから降りると、九条はまるで、太賀がどこかに行ってしまうのを恐れるかのように、太賀の腕をまた素早く掴んだ。 「いちいち掴まないでください」  太賀はバイトを続けるために、この男と心を無にしてロボットのようにやり過ごそうと思っていたのに、つい感情的なってしまい、思わず口に出して言ってしまう。  九条は太賀の言葉を無視すると、また強い力で太賀を引っ張りながら、リムジンの真横にある高層ビルの最上階にエレベーターで上がった。その間も九条は、太賀の腕を離そうとはしなかった。  九条の行きつけの店は、想像通り超高級な店だった。多分、太賀が一生かかってもこんな店には絶対に行けないと言うと話しは早いだろう。  全面ガラス張りの窓から見える夜景は美しく豪華だった。洗練された店内には何組かの客がいて、当たり前だが、仮面を付けた二人組の男に奇異な目を寄せていた。でも九条は全くそんな視線に気にする様子はない。  店の従業員たちが九条の存在に気づいた時、従業員たちに一瞬で緊張の色が走ったことに太賀は気づいた。一人の男がさっと九条に近づき、小声で耳打ちをする。九条はその従業員に何かを伝えると、従業員は素早く九条から離れ丁寧に一礼し、『こちらです』と言い、二人を店の奥に誘導した。  太賀は痛いくらいに掴まれた腕を早く振りほどきたかった。九条に掴まれた部分が熱く熱を持ってしまうからだ。初めて九条に顎を触れられた時と同じだ。触れられた部分から、まるで九条の血が自分の体の中に入り込み、内側からおかしくされるような感覚に落ち着きをなくしそうになる。 (いやな感覚だな……)  太賀は何度か自分の腕を引っ張ってみたが、やはりびくともしなかった。  従業員は個室まで太賀たちを連れて行くと、そっとドアを開け、『御用があればお部屋に設置されたタブレットをお使いください。どうぞごゆっくり』と言い、その場を静かに離れた……。

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