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第7話
個室の中に入って驚いたのが、この部屋の窓も全面鏡張りで、その窓の先に見える夜景はさっきみた夜景よりも遥かに近く、迫力が全然違うということだった。まるで、建物の外にでもいるような錯覚を覚え、高所恐怖症ではない太賀でも思わず足が竦んでしまう。
二人分のテーブルは、奇麗にテーブルセッティングがされており、このレストランの高級さが容易に伺える。
九条はやっと安心したように太賀の腕を離すと、自らテーブルに近づき、太賀のために椅子を引いた。
「座ってくれ」
太賀は、突然の九条の紳士的な態度に驚き目を見張った。一瞬どうすればいいか分からなくなったが、太賀はぎこちなく体を動かしながら、九条が引いた椅子に腰かけると、九条は後ろから椅子を丁寧に押してくれた。
九条は壁に掛かったタブレットを手に取ると、スクリーンにタップし始めた。
「フレンチのフルコースとワインを頼んだ」
相変わらず言葉足らずな感じで九条はそう言うと、タブレットを壁に戻し、自分も太賀の正面に腰かけた。
太賀は落ち着きなく、九条の後ろに広がる、嫌味なくらいキラキラと輝く夜景に目を移した。真正面に座る九条の瞳に捕まりたくない。仮面越しでも分かるその目力に飲み込まれるのは、このシチュエーションなら尚の事のこと避けるべきだと、太賀は自分に警告する。
九条はしばらく沈黙を続けた後、癖なのか、クラブの時と同じように、おもむろに片肘を付くと、自分の手の甲に顎を乗せるポーズを取った。その仕草はまるで完成された絵のように様になっていて、ここは今、映画の撮影でも行われているのだろうかと思うくらい現実味のない空間に、太賀はまるで魔法にでもかけられているみたいな気持ちになる。
「食事が済んだら、大事な話がある」
九条はそう言うと、少し首を傾け、真っ直ぐ九条の瞳を見つめてくる。
「は、話?……それってどんな」
太賀は慌てて九条から目を反らすと、言葉に詰まりながらそう言った。この男がどんな話を自分に持ちかけてくるのか全く想像がつかない。これほどまでに恵まれた男が、これほどまでに運の悪い自分に一体どんな話があるというのだろうか。
「食事の後にすると言った……それまで待ってくれ。久しぶりに腹が空いたんだ」
九条は真顔でそう言うと、面倒くさそうに足を組んだ。太賀は「解りました」と言うと、また視線をどこに這わせようかと頭を悩ませる。
その時、個室のドアをノックする音が響いた。九条は大きな声で『入れ』と言うと、ドアがゆっくりと開き、数名の従業員が手に皿を持ち個室に入って来る。
「面倒だから一気に運んでくれ」
九条は少し苛立ったようにそう言うと、従業員は空かさず『かしこまりました』と言い、近くにいたもう一人の従業員にさっと耳打ちをする。
そうこうしているうちに、テーブルの上には、フレンチのフルコースが所狭しと並び、一体何から手を付けたら良いか分からない状態になる。
食べ慣れている九条なら、どの料理から先に食べるのが正解かをもちろん分かっているだろうと思い、太賀は九条の真似をしようとしたが、九条はいきなりメインディッシュの肉の乗った皿を自分の手前に引き寄せると、それにいきなりナイフを入れ始めた。
「何をしている? 早く食べたらどうだ」
九条はナイフとフォークを持ったまま固まる太賀に、そんな言葉を言い放つ。
太賀は、もうやけくそだと思い、自分が食べてみたいと思う料理から手を付けた。それは白身魚のソテーで、太賀はそれを一口食べると、今まで食べたどの魚料理をも軽々と凌駕するほどの美味しさに、思わず天を仰ぐほど感動してしまう。
「上手いか?」
九条はそんな太賀の態度に目敏く気づくと、自分も肉を頬張りながら、興味深げに問いかける。太賀は少し恥ずかしくなり、俯きながら『はい』と返事をした。
(何だこれ……初デートじゃあるまいし)
太賀は自分の身に起きているこの状況にひどく困惑するが、やはり、目の前にずらりと並ぶ超高級料理に抗うことなどできそうにもない。
九条と太賀は目の前の料理をただひたすら無言で平らげた。九条はタブレットを使い従業員を呼ぶと、程なくして現れた従業員により皿は奇麗に片づけられた。その代わりにテーブルには、まるで血のように輝く真っ赤な赤ワインが注がれたグラスが、二つ置かれている。
「シャトー・ラファイト・ロートシルトだ。世界最古の赤ワインだ。このワインが飲めるのは日本でもこの店だけだ」
九条は淡々とワインの説明をするが、太賀は世界最古の赤ワインという言葉に唖然としてしまい、思わず口をあんぐりと開けてしまう。
(え? え? 待って、もしやこのワイン一口で十万以上とかしちゃうのか? そ、それともそれ以上だったりする?)
太賀は目を白黒させながら、赤ワインの説明をする九条を茫然と見つめた。
「遠慮するな。好きなだけ飲め」
九条はワイングラスを慣れた手つきで手に取ると、あろうことかグラスの中のワインを、躊躇うことなく一気に飲み干した。
太賀は恐れ多くてとても手を伸ばすことができない。多分相当な金額に違いない。料理は勢いで食べてしまったが、このワインに気軽に手を出すのは止めておこうと、太賀は瞬時にそう考える。もしこの後の話の内容によっては、この男に変な弱みを握られるのだけは勘弁したいからだ。
「飲まないのか?」
九条はボトルから自分のワイングラスにワインを勢いよく注ぎながら、不思議そうに太賀に問いかけた。
「はい。結構です、自分には余りにも不相応で、とてもいただくことはできません」
太賀は馬鹿丁寧にそう言うと、わざと嫌味っぽく微笑んで見せる。
「ふっ、不相応か……確かにそうだな」
九条は少し苛立ったようにそう言うと、ワインをまた一気に飲み干した。太賀はそんな九条の様子に、まずいことを言ってしまったかと少しだけ焦りを覚えた。
「あ、あの、そろそろ、大事な話とやらを話してくれませんか? ここまで振り回されると、さすがに俺も……その」
太賀は話題を変えるために慌ててそう言った。でも、それだけが理由ではない。太賀は一刻も早くこの個室から出たいし、元の平平凡凡な生活に戻りたくてしょうがない。確かにここは素晴らしく洗練され、素晴らしくラグジュアリーな場所だ。でも、全然心が落ち着かないし、温かみのあの字もない。
「……その体で、一人で外に出るのは危険だぞ?」
「はっ?……それはどういう意味……」
太賀は心臓を強く鷲摑みにされたような気持ちになった。『その体』という言葉が頭の中でリフレインする。まさか、一部の人間以外にずっとひた隠しにしてきたあの事実を、この男は知っているというのだろうか。でも何故? 強い権力を持っているこの男なら、個人のプライバシーを暴くことなど朝飯前なのだとしたら……。
太賀は激しく動揺してしまい、思わず勢いを付けて椅子から立ち上がった。そのせいで太賀の椅子は、床に音を立てて倒れてしまう。
「どうした? 顔色が悪いぞ?」
九条はそう言うと、太賀にゆっくりと近づき、太賀が倒した椅子を引き起こした。
「落ち着け。太賀。椅子に座れ」
急に背後から自分の名を呼ばれ、太賀はぞくりと背筋を凍らせる。その有無言わせぬ九条の言い方に、太賀はおとなしく九条の引き起こした椅子に不本意ながらもゆっくりと腰を下ろすしかない。
九条はしばらく太賀の背後に立っていたが、そっと太賀の両肩に手を乗せると、耳元に口を寄せてこう言った。
「太賀のここからとても良い香りがする」
太賀は九条の言葉に頭が一瞬で真っ白になった。それはつまり、太賀の首筋からフェロモンが漏れ出ているということだろうか。信じがたいその事実に、太賀は強いショックを受けた。
なのに、まるで九条の言葉に反応するように、自分の中の何かが、強く自分の中でドクンと脈打つように弾けた。それはまるで、自分の体に潜んでいたオメガという細胞が、ついに目覚めてしまったようなとても嫌な感覚。
(落ち着け、落ち着け、大丈夫。適当に誤魔化せばいい!)
太賀は自分に芽生えたその感覚から必死に目を反らすと、『落ち着け』と何度も自分に強く言い聞かせる。
「あの……何意味の分からないことを言ってるんですか? 九条さんは人の匂いを嗅ぐのが趣味なんですか?」
九条は太賀の問いかけに無視すると、太賀の肩から手を離し、ゆっくりと自分の席に腰かけた。どの椅子に座っても長い足が邪魔なのか、座った瞬間にまた足を組むと、自分の両手をテーブルに投げ出し、指を交互に絡ませるように手を組みながら、射るような目で太賀を見つめてくる。
(ああ、見ないでくれ、頼むから……俺のことなんかほっといてくれ!)
太賀は目の前の真っ赤なワインを見つめながら、心の中でそう叫んだ。その赤色は、太賀の不安定な心を更に煽るようなとても嫌な色をしている。毒々しい雰囲気を醸し出すその赤ワインが目障りで、太賀はワイングラスを手に取ると、構わず一気に飲み干した。
「……ふっ、急に気が変わったのか?」
九条は楽しそうにそう言うと、頬杖を付きながらまた少し首を横に傾げる。太賀はその九条の仕草に無性に腹が立った。その完全に上から目線の尊大な態度の中に、少しだけ相手を油断させるような甘い仕草を入れられると、太賀は九条という男の魅力に、図らずも強力な引力で引き寄せられそうになるからだ。
太賀は、初めて九条に会った時のあの衝撃を思いだす。自分はまだこの男の顔もどんな人間かも知らない。ただ、日本で十本の指に入るほどの超金持ちだということだけは分かる。そして自分と同じゲイで、多分どんなゲイも、この男の魅力に一発で虜になるのは間違いないだろう。きっとネコもタチも関係なくなるのではないか。九条という存在自体が、ゲイのアイコンのような存在で、その強烈なエロスで王者のように君臨している姿が頭に浮かんできてしまい、太賀はその想像を、頭を振って慌ててかき消した。
「あの、本当にそろそろ、俺に大事な話とやらを話してください。俺にも都合ってものがあるんです。分かりますよね?」
太賀はわざと上目づかいで、少し酔いの回った頭に喝を入れながら、九条に向かいそうはっきりと言った。
「……じゃあ、聞くが、これが何だか分かるか?」
九条はいきなり、ジャケットの内ポケットからある物を取り出した。それは太賀には見覚えのあるもので、否むしろ、それは太賀の所有物その物だった。
「あ!」
太賀は九条の手の中にある物を茫然と見つめた。それはずっと自分が心の中でもやもやしていた理由に関わる物だったからだ。
「ど、どうしてそれを九条さんが!」
太賀は椅子から立ち上がると、それを早く奪い返したくて思わず九条に向かって手を伸ばした。九条はまるでからかうように自分の手を高く持ち上げて太賀の手を避けると、楽しそうににやりと笑う。
「か、返してください……それは俺の大事な……」
太賀はそこまで言いかけて口を噤む。
(それは大事な何だ? それがないと自分の体はどうなってしまうんだ? 自分でも分からないじゃないか。この体が抑制剤を飲まないとどうなってしまうかなんて……)
「俺の大事な何だ? この薬はお前にとってそれほど大事なのか?」
九条は頬杖を付きながら、手元のそれをまじまじと見つめている。
「そ、そうです。大事です。今すぐ飲まないと、い、命に関わるんです。心臓系の病気を持っていて。最近、忙しくて病院になかなか行けなくて、一週間くらい飲んでいないので、今すぐ飲まないとまずいんです!」
太賀は適当な嘘を並べて誤魔化した。ただ、忙しいのではなく、本当は手持ちの金がなくて薬代を払えなかったが正しい。太賀は三か月に一度無償で抑制剤を処方してもらっているが、その期間に何らかの事情で再度薬が欲しくなっても、二度目は有償になり薬代はもの凄く高額になる。その理不尽さに、好きでこんな体に生まれてきたわけじゃないのにと太賀は心から憤りを覚える。
(早く返せ!……命に関わると言えばさすがに信じただろう?)
自分がオメガだということは絶対に九条に知られたくない。運良く、タブレットケースにはただの白い錠剤を入れているだけだから、薬の種類は分からないはずだ。
「なるほどな。一週間飲まないだけで、そんな危険な香りを放つとは。それは確かにまずいことになるな……」
「え?」
太賀は九条の言葉に体を硬直させる。この男は、今自分が言った心臓病云々の話をちゃんと聞いていたのだろうか。
「大賀に初めて会った時に感じた強い違和感を理由に、俺はお前のことをすぐに調べた。そしたら簡単に太賀がオメガだということ分かった。この間一緒に酒を飲んだ時、お前の酒に睡眠薬を仕込んで眠らせたことは謝る……すまなかった。俺はその時、この薬をお前から盗んだ。知りたかったんだ。お前が本当にオメガなら、どんなフェロモンを放つのかを薬を飲ませずに確かめたかった……安心しろ。俺はお前に指一本触れていない」
「なっ、何でそんなこと……」
太賀は怒りとショックの余り視界がぐらりと歪んだ。九条の行動が全く理解できなくて、太賀は目の前の男を、犯罪者でも見るような目で強く睨みつけた……。
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