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第8話
しばらくの間、太賀と九条は無言で対峙していた。太賀の内側から湧き上がる怒りの感情が九条に届くように、太賀は腹に力を込めながら九条の顔を睨み続ける。
九条はひょうひょうとした態度で、太賀の睨みを受け続けている。その間も手に持った太賀の薬を楽しそうにいじりながら。
「いつまで俺を睨むつもりだ? いい加減目が疲れただろう? ほら、お前の大事な薬を返すよ。早く飲まないと、無事に家に帰れなくなるからな」
九条は愉快そうにそう言いながら太賀に近づくと、太賀の手を取り、掌にタブレットケースを掴ませた。
太賀は九条の態度に益々怒りが込み上がってしまい、思わず掌のタブレットケースを床に思い切り叩きつけた。こんな薬、飲まないで済むならどれほど良かったか。己の運命を呪うような気持ちで、床に散乱した白い錠剤を、太賀は忌々しく見つめた。
「おいおい、どうした? 大事な薬を床にばら撒くなんて……飲まない選択を選ぶわけじゃないだろう?」
九条は床に散らばった錠剤を一粒摘まみ上げると、太賀の口元にそれを押し付ける。
「やっ、やめろ!」
太賀は九条の手を振り払おうとしたが、強い力でそれを制止されてしまう。
「飲まないなら好都合だ。俺は薬を飲まない太賀が見てみたいからな……」
九条はそう言うと、太賀の唇に押し付けた錠剤を、いとも簡単に指先で粉々に擦り潰す。
「あ、あなたはさっきから何を言っているんだ! 俺はオメガなんかじゃない!」
狼狽しながら叫ぶ太賀を、九条は落ち着き払った態度で見つめるだけで、それが余計太賀の神経を逆なで、怒りを増幅させる。
「……太賀、もういい。嘘は付くな。いいか、今から言う俺の話を、しっかりと聞くんだ」
九条は指先に付いた白い粉を、両手を叩いて払うと、壁と同サイズの巨大な窓にゆっくりと近づいた。ガラスが張られていないように見えるその窓は、そのまま行ったら、地面に落っこちてしまいそうな錯覚を覚え、太賀は思わずはっと息を呑んだ。
「……お前が働くあのクラブがどんな存在か知っているか?」
九条はその巨大な窓に寄りかかると、腕を組みながら太賀を見つめた。背後で輝く眩しいほどの夜景が、この男をまるでスポットライトのように照らしている。
「知らないです! だってあの店の存在自体も隠してるじゃないですか! 契約違反をしたら高額な違約金を払わせようとしているくせに!」
太賀はもう目の前の男に従順な態度を取ろうなどという考えは、奇麗さっぱり消え去っている。
「あのクラブは、アルファとオメガが出会う場所として作られている。会員になれるのはアルファとオメガの人間のみだ。オメガは支配人がSNSで呼びかけ見つけてくる。オメガの中には、嘘偽ってこのクラブに来る輩もいるが、支配人が選び抜いたオメガたちだけがこのクラブの会員になれる。何故仮面で顔を隠していると思う? アルファは皆、俺を含め重要なポジションに位置している人間たちばかりだからだ。オメガもそうだ。お前のようにバレたくない。だから、お互いを気に入れば顔を晒すし、用心して最後まで隠す者もいる。このクラブからは未だ番は出ていない。皆妥協するからだ。体の相性はオメガとアルファならノーマルの人間相手よりも確実にいいからな。でも、皆、究極の相手を本当は求めている。俺と同じように……では何故オメガのお前がこのクラブで会員ではなく従業員として働いている? 知らなかったとでも言うのか?」
九条は一気に太賀に話し始めた。太賀はその情報量の多さに頭がクラクラとしてしまう。
「そ、それはただの偶然です……俺は、たまたまこのクラブの存在を知って、給料がいいっていう理由で働き始めただけで……なのに、何でこんな……」
太賀は拳をぎゅっと握りしめると、もう一度九条をきつく睨みつける。
「……偶然? はは、そんなことがあるとは驚きだ。俺が太賀の存在に気づいたことは最高の奇跡に近いのかもしれないな。オメガのはずがないお前から微量な香りを感じたんだよ。お前に初めて会った時にな……その香りは俺が知っているどの香りとも違っていたんだ。自分の感覚が研ぎ澄まされたような気分を味わった。こんな感覚は生まれて初めてだったよ」
九条は組んでいた腕を解くと、ややオーバーに両手を広げる仕草をしてみせた。本当に奇跡だと歓喜しているかのように。
「だから何です? 俺は一生オメガを隠して生きていくつもりでしたから、このクラブには興味ないです。番とか……どうでもいいです」
オメガに生まれた人間なら、番という存在を気にしたことがないと言ったら嘘になるだろう。もちろん太賀も例外じゃない。でも番となる相手に出会う確率は、もの凄く、もの凄く低い。もし、この目の前の男がそうなのだとしたら、それはこの男の言う通り最高の奇跡かもしれない。でも、太賀がずっと求めている、心を通わせ合える温かな関係を築けられる相手が、この男とは到底思えない。否、むしろ、憎しみしか湧いてこない。
「それは強がりか? 太賀……正直な気持ちはどうなんだ? 番になった相手との性行為はどんな麻薬をも凌駕すると聞いている。我々のような特殊な人間に与えられた神からの褒美を、太賀は簡単に捨てるというのか?」
「……そ、そんなもの要らないです。俺は今まで通り普通でいい。自分が心から好きだと思える相手と、ずっと心を通わせながら暮らしていけたらそれでいいんです」
(本当にそうだ。本当に。だってそれ以外の幸せって何だ? 今の俺にはそれ以外思い当たらない)
「それが太賀の幸せなら、俺の幸せはこうだ。俺はアルファに生まれてきた。だったら番を見つけて、完璧なアルファにならなければ意味がない……」
「完璧なアルファ?」
「そうだ……俺は今、日本で十本の指に入る金持ちだ。アルファの中でも見た目も頭脳も特に優れている。でも、肝心なものが欠けているんだよ……それは魂の欠落とも言える。半分死んだようなものだ……」
太賀は急に声のトーンが変わった九条に驚いた。さっきまで自分が世界の支配者のような態度を取っていたのに。
「半分死んだようなものって……あなたみたいな人が言う台詞じゃないですよ。俺たちオメガの苦しみに比べたら、アルファの人間なんて、すべての幸せを手にしたようなものじゃないですか」
太賀は急に態度が変わった九条の様子を気にしながらも、やはり嫌味の一つでも言わないとどうしても気が済まない。
「お前に俺の何が解る? 俺のこの苦しみが!」
九条は急に声を荒げて叫んだ。常に冷静な九条が感情を露わにして激高する姿に、太賀はびっくと体を震わせながら一歩あとずさる。
「……わ、分かるわけがないでしょう。完璧にしか見えないあなたの、一体何が欠落してるっていうんですか?」
太賀は、それでもひるまずそう言うと、下がった一歩を取り戻すように九条に一歩近づいた。九条に欠けているものが早く知りたくて、その強い好奇心が太賀を一歩前へと押し出そうとする。
「……知りたいか?」
「ええ。知りたいです……」
九条は太賀を真っ直ぐ見つめながら近づいて来る。
「じゃあ、太賀。お前が俺と契約すると約束できたら教えてやる」
「契約?」
その突拍子もない九条からの申し出に太賀は面食らう。でも、自分はもうずっとこの男に振り回されている。だからこそ太賀は、この九条という男の欠落した部分を早く知りたいとも思う。この完璧な男の欠けた部分を知ることで、自分のみじめさが少しでも和らぐことを望んでしまう。
「……内容にもよりますが」
太賀は思わずそう言った。その後どれだけ後悔しても遅いというのに。
「太賀がオメガだと知ってから調べたが、お前が今一番必要としているものが何かを俺は知っている。金だろう? お前は父親の借金を背負っている……だからそう何度も、あの高額な抑制剤を買うことができないことも俺は知っている。それと、あれだ。大学の研究の支援金も打ち切られるっていう話じゃないか?」
「そ、そこまで知ってるなんて……」
太賀は、自分の個人情報を九条に知られていたことにショックを受ける。でも、今更何も驚くことはないだろう。九条はあの誰もが知っている有名企業の御曹司なのだから。有り余る金をいくらでも使えば、どんな情報でも容易く手に入れる力があるのだから。
「俺と契約をすれば、その金を俺が出してやる……今すぐにだ。どうだ? 太賀。早く俺と契約すると言え」
九条は太賀の目の前まで来ると、初めて会った時のように太賀の顎をすっと掬った。仮面越しに見える九条の瞳は妖しく輝き、太賀の頭に痺れを齎す。
「あなたの欠けているものって何ですか? 俺はそれが早く知りたいです……」
「それは、俺と契約するってことでいいんだな?」
九条の問いかけに、太賀はすっと九条から目を離すと床に目を落とした。頷きたくはない。ただ、現実的に考えて、借金返済と研究支援金の話は、太賀にとって目の前にぶら下げられた、魅力的な餌のような物であることは否めない。
「……俺の性器は、もう三年以上機能していない」
「え?……」
太賀は九条の予想外の言葉に自分の耳を疑った。
「俺はこの症状を治したくて、あのクラブでオメガと会い、今まで何度も発情期のオメガと繋がろうとした。でも、俺の性器は全く勃たなかった。諦めかけていた時にお前に会った。お前から薫る微量な匂いに特別なものを感じた。お前が相手なら、俺の性器は息を拭き返すかもしれない。だからお前には、俺の勃起不全を治すために協力して欲しい……俺は必ず跡取りを残さなければいけないという義務がある。それは、俺の家で代々永続している絶対的なルールだ。俺の代で九条家の血を絶やすことは絶対に許されない」
まさか、こんな完璧な男にこんな欠落あったなんて。それは太賀の想像を遥かに超えていた。エロスの権化のような男の性器が機能しないなんて事実、一体誰が信じるだろうか。それはもはや滑稽を通り越して、笑えないくらい同情的な話だ。
「……実際に俺は、何をすればいいんですか?」
早い話、九条の勃起不全を治療するために、自分がその誘発剤になれば良いということだろうか? でもそれは、お互い愛し合っているわけではないのだから、体を繋げる必要はないはずだ。そんなことを太賀は一ミリも望んでいない。ただ自分は、このオメガの体質を使って、九条の性器を昂らせるだけだと割り切ればいい。
太賀はひとり納得すると、九条の説明を待った。
「俺の家で数か月、一緒に生活をしてほしい。大学はリモートで受けることになる。そして、太賀は発情期を抑える薬を飲まずに、俺の前で発情してほしい。俺はお前の発情で自分の勃起不全が治り射精ができたら、親の決めた女性と体外受精をして跡取りを作る。だから俺は、お前に一切手を出さない……」
『手を出さない』と言った時の九条の瞳に、一瞬強い光が宿ったように見えたのは気のせいだろうか。自分はその言葉を信じても大丈夫だろうか。九条はオメガの中でも、自分に特別なものを感じると言った。それに、自分は完璧なアルファになりたいとも。もし、自分が九条を誘発し勃起不全を治してしまったら、九条が自分に何をするかは分かりえない。
「……あの、あなたが勃起不全を治す本当の目的って何ですか? あなたの話を聞くと、それがとても曖昧です。精子を採って跡取りを残すことですか? それとも運命の番と性行為をし、完璧なアルファになることですか? それをはっきりさせてくれなければ、俺はあなたと契約できません」
「……どちらもだと言ったら、どうする?」
九条は妖艶な笑みを浮かべながら、太賀の心を探るような眼でそう言った。
「それは困ります。俺はあなたとそういう関係になるつもりは一切ありませんから。あなたが俺に絶対に手を出さないと約束できるのであれば、考えてもいいですが……」
「じゃあ、この契約はなしだな。父親の借金も、大学の支援金の話も、すべてなしだ……」
九条は太賀を煽るように、わざと大袈裟にそう言ってみせる。
(それは困る……せめて、大学の支援金だけでも喉から手が出るほど欲しい……)
「な、何故そうなるんです? あなたが俺に絶対に手を出さないと約束してくれれば、俺は契約しても構わないということですよ?……あと、できれば成功するかしないかに関係なく、父親の借金と、大学の支援金を頂けるという条件は、必ず守って欲しいです!」
九条はゆっくりと腕を組むと、太賀の爪先から頭のてっぺんまでを、まるで瞳で撫でるように視線を這わせた。
「ふっ、なかなか強かだな……ああ。解ったよ……約束する」
「本当に? もし、約束を破ったら、俺はすぐにあなたの家を出て行きますよ?」
「ああ、構わない。とにかくまずは、この契約を進めることが先決だ……」
それを聞いて太賀は決心する。まだ自分は発情期を経験していないが、きっとたいしたことはないはずだ。自分の発情が、九条という例え勃起不全だとしても完璧な男を誘発するなど、絶対にあるわけがないのだから。
(残念だね。九条さん。期待外れでごめん……)
太賀は心の中で、上から目線で九条に呟いた……。
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