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第9話

 太賀は早速、家庭の事情でリモートでの研究に切り替えたいと大学に申請を出した。受理されたのは申請から一週間が経った頃だった。リモートでの研究には限界があるが、今まで収集したデータの分析などを、大学のPCにリモートアクセスして行うことができる。そうすれば今までの研究の粗も、それに伴う新たなアイディアも生まれるかもしれない。太賀はこのリモートという機会をプラスに捉えることで、九条との有り得ないくらい気が滅入る契約を、何とか乗り越えようと考える。  リモートの許可が下りるまでの間に、太賀は支配人の松下に正直に事の成り行きを話した。九条に、松下にだけは今回の契約のことを伝えて良いと許可を得ていたからだ。  松下は太賀の話を聞くと、驚愕の表情を隠せず露骨に太賀に見せていた。だから、アルバイトは辞めざるを得ないと告げると、松下しばらく無言で太賀の手元をしばらく見ていた。  自分の後釜を探す余裕もないと松下に告げると、松下はハッとしたように視線を太賀に移すと、『そのことは構わない……』と神妙な面持ちでそう言った。  松下はなぜ自分は今まで何人ものオメガと対面してきたのに、太賀がそうであることに気づけなかったのかと嘆いた。 『抑制剤を飲んでいれば気づかなくないですか?』と太賀は言った。でも、松下は例えそうであっても長年この仕事を続けていると、何となく分かると言った。オメガの人間には独特の空気があると。どこか庇護欲的な気持ちを誘発させられると言うと分かり易いだろかと。でも、太賀にはそれを感じたことがないと松下は言った。それは、太賀には両親がおらず、今まで誰からの助けもなく一人で生きてきたのだから、必然的に強くならざるを得なかっただけだと、太賀は松下に伝えた。  松下は、太賀の話を聞くと、『そうか。君は苦労したんだね』と悲しげに瞳を揺らしながらそう言った。  松下は仕事のことは気にしなくて良いから、何かあったら私に連絡して欲しいと、太賀に携帯の番号を教えてくれた。太賀は松下の優しさに胸を打たれると、『解りました』と言い、スタッフルームを後にした。  大学でもリモートの申請が下りる前に、太賀はすぐ奈緒に会い、自分がしばらくリモートで研究に参加すると伝えた。奈緒はすぐさま理由を問いかけてきたが、もちろん真実を話すことは難しく、適当に誤魔化すしかなかった。 「支援金の話さ、どうやらお金持ちの物好きが援助してくれるって噂を聞いたよ」  太賀は手話でそう奈緒に伝えた。  奈緒は目を満丸くさせると、興奮気味に素早く手話で返した。 「妖しいな。それ本当? 何で太賀がそんなこと知ってるの?」  奈緒は太賀の瞳の奥を覗き込むように真っ直ぐ見つめてくる。  太賀は少し焦り、余計なことを言ってしまったと後悔する。不自然に奈緒から目を離すと、太賀は自分の手元を見つめながら手話を紡ぎ出す。 「しばらくリモートで研究に参加するって研究室の教授に言った時、聞いたんだよ……まだ確実かどうか分からないけどね」  太賀はあのクラブのアルバイトを始めてから、もう何度嘘を重ねただろうか。そんな状況に追いこまれているのもすべて、あの男のせいであるのと、自分がオメガだということだ。太賀はそれが悔しくて、奈緒に気づかれないよう奥歯をぎゅっと噛み締める。 「太賀、何か悩みとかあるならいつでも私に話してね。例えばオメガのこととかで……」  奈緒はまた太賀の目の奥をじっと見つめてくる。聴覚障がい者の彼女はやはり健常者より勘が鋭いのかもしれない。太賀は必死に目を泳がせないように自分の頭に命令する。動揺するなと。 「大丈夫だよ。リモートはそう長くは続かないから。また大学に戻って来た時はよろしくね」  太賀は笑顔で奈緒にそう伝えた。奈緒はまだ訝しげな表情で太賀を見つめていたが、『解った』とゆっくり手話で返した。  一番の問題は快斗だった。自分が急に仕事を辞めると言ったら、快斗はどんな反応をするだろうか? それを考えると、太賀の心は重くなった。沢山の理由を考えたが、どれもしっくりいかなかった。潔く覚悟して、すべて本当のことを正直に打ち明けてしまおうかとも思ったが、やはりそんなことはできそうにもなかった。自分がオメガだという事実も、九条との契約の内容も、正直に打ち明けるには勇気がいる。それは自分が、オメガだということに嫌悪感を抱いているくせに、それを利用して金を得ようとしている自分自身に、強い罪悪感を覚えているからだ。 (何でこんなことになった? 何でだよ!)  太賀は両手を強く握りしめると、ロッカールームの床を睨むように見つめた。 「快斗……話があるんだ」  仕事終わりのロッカールームでお互いに着替えが終わったタイミングで、太賀は快斗に声をかけた。 「ん? どうした?」  快斗はいつもの上機嫌な態度で太賀にそう言った。快斗はいつも機嫌がいい。だからとても安心するし、とても癒される。 「あ、あのさ、急でごめんね。俺さ、今日でこの仕事辞めるんだ。支配人にはすでに伝えてあるから……」  快斗は上機嫌な態度を一変するように、一瞬で暗い表情になった。太賀はその表情に胸がズキズキと痛んだ。快斗は確かに唯一の太賀の元カレだ。今では、お互いに信頼できる友人関係をやっと築き始めてきたのに。そんな快斗にこんな表情をさせてしまうなんて。やはり自分は間違った道を歩んでいるのではないかという考えに、足元がぐらぐらと揺らぎだす。 「……何で今言う? じゃあもう次からは、太賀はここにいないってことか?」  快斗は顔を歪ませながら太賀にそう問いかける。とても苦しそうに声を絞り出しながら。 「そうだよね。ごめん。急に決まったことだからさ」 「何で? 何で辞めるの? 給料だってめっちゃいいじゃん。こんな条件のいい仕事他にないだろう?」  快斗は、じりじりと太賀をロッカーに追い詰めるように問い詰める。 「そ、そうだよ。だいぶお金を貯めることできたしね。これも快斗が誘ってくれたおかげだよ。本当にありがとう。でも、どうしても辞めなきゃいけない理由があるんだ。それは今ここでは言えないけど、いずれちゃんと話すから。俺を信じて待っててよ」  そうだ。どうせ成り立つわけのない九条との契約をさっさと終わらせたら、手に入れた金で、自分たちの進めてきた研究が、無事産学連携を果たせるようにすると心に決めている。だから、もしそれが叶ったら、今度こそ正直に快斗に伝えるから、どうかそれまで待っていてほしいと、太賀は心の中で強くそう叫ぶ。 「……何で今言えないの? その理由だけでも教えてくれよ」  快斗はロッカーの脇に両手を付きながら、太賀を閉じ込めるようにそう問い詰めた。太賀は快斗のこの行動に少し恐怖を覚える。  床にぶちまけた抑制剤は、不本意ながらも結局拾い集め、あの後家に持ち帰って今日まで毎日飲んでいる。だから不要なフェロモンは絶対に漂わせてはいないはずだ。でも、快斗の様子がいつもと違うのは何故だろう? 快斗は自分が思うよりももっと太賀に執着しているということなのだろうか?  「り、理由は、ただ、今はそのタイミングじゃないってだけだよ」 「意味分かんないな。タイミングって何だよ?」  快斗は太賀にぐっと近づくと、太賀の目を正面から見据えた。 「だ、だから後で必ず説明するから、その時期が来たら必ず俺から連絡するよ」  太賀は必死に快斗の目を見つめてそう言った。絶対に反らさないようにきつく見つめることで、思いを強く伝えようとする。 「……本当に? もうこれでさよならとか言わない?」  快斗は張りつめていた感情が決壊するように、急に瞳を潤ませながらそう言った。太賀は快斗の急激な感情の変化に戸惑ってしまう。 「ああ。絶対に。約束する」  太賀は自分も凄く切なくなってしまい、快斗の首に手を回すと、優しく抱き寄せた。快斗は突然の太賀の行動に驚き体を強張らせた。しばらく二人でそうしていると、快斗は深い溜息とともに太賀から体を離した。 「ほんと、太賀って何か……」  快斗は情緒不安定なのかと疑いたくなるほど、さっきからコロコロと態度も表情も変えてくる。太賀はそんな快斗に戸惑いながらも優しく微笑みかけた。 「俺が何?」  快斗は太賀の微笑みに照れたように顔をそむけると言った。 「ミステリアスだよ……なんか俺に隠してることない?」 (はあ……俺の周りには勘のいい人間しかいないのか?)  太賀は心の中で盛大に溜息を吐くと『考えすぎだよ』と言って快斗の脇腹を抓ってやった。 「いって!」  快斗は抓られた脇腹を摩りながら、太賀から数歩後ろに下がると、にやりと笑い、やり返そうと太賀の腕を掴もうとする。  太賀はするりと快斗からの攻撃を避けると、『また会おう!』と元気よく言い、快斗にぶんぶんと手を振りながらロッカールームを飛び出した。

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