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第10話

 九条の家は、漏れなく都内の高級住宅街に有り、更にその中でも一等地の場所に建っているらしい。もはや想像通り過ぎて笑うしかない。  約束した時間にアパートの窓から外を見ると、アパートの目の前にリムジンが止まっていた。太賀はその場違い感にひどく面食らった。というか、狭い道路に駐車されたリムジンは明らかに邪魔で、ドライバーや通行人に迷惑をかけていた。  太賀は慌てて外に出ると、素早くリムジンに乗り込み、『早く出してください!』とドライバーを促した。  今日はもう仮面を付けなくても良いことになっている。既に九条には自分の個人情報の殆どを知られてしまっている。ただ、自分がオメガだということだけは、絶対に漏らすことはないと九条は自分と約束をした。そしてその逆も然りだ。九条がアルファだということと、性的に不能だということは太賀自身も固く口を閉ざすと約束した。これもすべて金のため。簡単なことだ。  リムジンに乗っている間、太賀はうとうとと微睡み始めた。あまりにも乗り心地が良かったせいでもある。揺れも少なく手足はこれでもかと伸ばせるし。こんな快適な乗り物がこの世に存在するのかと、太賀はこのリムジンに置いてだけは、今回の出来事で唯一気持ちが上がる経験だと密かに思っている。 「着きました」  ドライバーの声に太賀はハッとして目を開けた。微睡んでいたせいで、一瞬自分が何処にいて何をしているのかが分からなくなった。  ドライバーは車から降りると、太賀が座っている後部座席のドアを開け、『お降りください』と言った。  太賀は言われた通りリムジンから降りた。またリムジンに乗れるチャンスがあるのかと、少しだけ名残惜しい気持ちを込めながらリムジンに振り返り、視線を元に戻したその時だった。  目に飛び込んできた光景に、太賀はあんぐりと口を開けた。その想像以上の光景に、開いた口が塞がらないというのは、こういうことを言うのだと生まれて初めて痛感した。  敷地面積が一般的な家庭の二十倍ぐらいあると言えば伝わるだろうか? 門から邸宅まで百メートルはゆうにある。塀に囲まれた内側には塀を軽々と追い越す木々にこんもりと囲まれていて、良い目隠し代わりになっている。その木々は良く見ると、様々な種類があり、さながら植物園のような様相だ。巨大な庭は、奇麗に手入れされた目の覚めるような緑色の芝が敷かれていて、その芝とは対照的な色とりどりの花が咲き乱れる花壇が、センス良く配置されている。とにかく豪華絢爛というに相応しい庭に、今度は眼福という意味を太賀はしみじみと実感する。でも、それだけでは済まないことを太賀は薄々分かっていた。庭だけでもこれだけ素晴らしいということは、もちろん『箱』は庭を凌駕するほど素晴らしいに決まっている。  案の定、それは想像に難くなかった。きょろきょろと庭を眺め回していた太賀の目に写ったのは、豪邸という言葉では言い尽くせないほどの、豪奢な建物だった。  壁は光り輝く白。大きな窓が特徴的な洗練された近代的な外装。派手さのない落ち着いた佇まいではあるが、さり気なく施された装飾が高級感を上手く表現している。  一体この建物には何人ぐらい寝泊まりできるのだろうか? 一般人はそんなことが一番気になってしまう。だって下手したらそこら辺のホテルと規模的にそれほど違わないくらいデカいからだ。こんなデカい邸宅を維持していくのにどれだけの人件費が必要なのかも気になってしまう。とにかく、すべてが想像以上だった。否、想像を遥かに上回っていた。  太賀は九条の屋敷の凄さに、さっきまでリムジンに乗って上がった気持ちは一気に急降下していた。きっと邸宅の中も別世界に違いない。働いていたクラブも別世界でお腹いっぱいだったが、多分それ以上に別世界な家で毎日暮らさなければならないなんて。想像しただけで気分が悪くなる。 (豪華なことは別に悪くない。ただ、自分の気持ちが休まらない)  太賀はせめて自分に宛がわれる部屋だけは、質素で良いと心から願った。  運転手は邸宅の入り口のインターホンに向かい、太賀が着いたことを知らせた。インターホンから『お入りください』という声が聞こえると、入り口の、とても大きな観音開きの扉のロックが外れる音がした。  太賀はスーツケースを引きながら運転手の後ろに立つと、その大きな扉がゆっくりと開いた。太賀は、邸宅の中を見るのが何となく怖くて、一瞬目を瞑り、ゆっくりと開いた。でも、意外なことに、邸宅の中は、あのクラブのような中世ヨーロッパ風のこれでもかという煌びやかな雰囲気ではなく、外観もそうだが、内装も白を基調としたシンプルで落ち着いた雰囲気だった。むしろ寒々しく感じるくらい。  大理石だと思われる白い床の先のど真ん中に、強い存在感を放つように大きな階段が聳え立つ。その階段の手すりは黒色だ。その流線型の手すりはまるで長い蛇のように見える。とにかく入り口からその階段までが異様に遠い。それだけ玄関が広いということだが、そこまで玄関を広くすることに何の意味があるのかと、やはり一般人は考えてしまう。  その大きな階段の中央に一人の男が立っていた。階段の正面にある大きな窓から差し込む光がその男を照らしているのか、顔が良く見えない。でもそれは、男を特別な存在として崇めているように見えて、太賀はその眩しさに目を瞬かせた。  男はゆっくりと階段を降りてくる。太賀は目が慣れてくると、その男が誰なのかを何となく察した。もちろんこの家の住人で、自分と契約をしているあの男に決まっている。  九条はこの邸宅の豪華さを更に強調するような存在感で、悠々と階段を下りて来る。そして、少しずつ近づくにつれ九条の輪郭がはっきりとしてくることに、太賀は訳もなく緊張し始める。  九条は仮面を付けていなかった。  太賀は初めて九条に会った時から、この仮面を外しても、きっとこの男の素顔が美しくないはずはないと確信していた。それはもう既に決まっていることでひどく当たり前のことだと、何故か自信を持ってそう感じていた。でも、実際に九条の素顔を見た今、この屋敷の時もそうだが、自分の想像を遥かに超えていることに愕然としてしまう。 (ああ。神様……この男は本当に自分と同じ人間ですか?)  太賀は目の前まで来た九条を茫然と見つめた。そして九条も太賀の顔を食い入るように見つめている。自分と九条はまるで、お互いの目と目を、まるで磁石にでも引寄せられているかのように見つめ合い、逸らすことができなくなった。その間ずっと心臓がトクトクと早鐘を打ち続けている。  九条の顔は自分が想像していたよりも遥かに整っていた。ここまで完璧な容姿の人間に出会ったのはこれが初めてだった。眉や目、鼻や口、顎も、普通は皆、多少ズレていたりバランスが悪かったりする。でも、それが当たり前だしそれが人間というものだ。でも、この九条という男は、そのズレやバランスの悪さを絶対に許さないとばかりに、すべてのパーツが完璧な位置にきちんと収まっている。  信じられないのが、その完璧さを更に加味するように、九条の目元と口元には男らしい野性味が存在し、そこから存分なエロスが溢れ出ている。  仮面で目元を隠しても、エロスは口元から溢れ、仮面を取ると更に目元からもエロスが溢れ出す。こんな危険な男は、一生仮面を付けておいた方が世の中のためかもしれない。 (あ、そうだった。この人は不能だったっけ……)  その事実を思い出した時、太賀は同時に正負の法則についても思い出した。じゃあ自分の正負の法則は? 自分は何を手に入れたせいで何を失っている? 失っていることばかりじゃないのか? と気づき、何だか悲しい気持ちになってしまう。 「……よく来たな」  九条は太賀からやっと目を反らすと、ぶっきらぼうにそう言った。太賀もハッとして我に返るように九条に頭を下げた。 「よ、よろしくお願いします」  太賀はたどたどしくそう言うと、スーツケースのハンドルをぎゅっと握った。 「今から部屋を案内する」  九条はいきなり太賀のスーツケースを奪うと、ハンドルを縮めて持ち上げ、今下りてきた階段を上り始めた。 「あ、大丈夫です。自分で持ちますっ」  太賀は慌ててそう言ったが、九条は太賀の言葉をいつものように無視すると、ずんずんと勝手に歩を進めてしまう。  太賀はこのデカい邸宅で迷子になるのは御免だと思いながら、九条の後を必死に追いかける。  二階に上がり長い廊下を歩くと、西側の一番奥の扉の前で九条は立ち止まった。 「ここだ。わざと質素な部屋を選んでおいた」  九条は太賀の目の前で部屋のドアを開ける と、少し自信ありげにそう言った。 「あ、ありがとうございます」  太賀はそう言って部屋の中を覗くと、期待通りの質素さに、一気に心が安心するのを感じた。確かに少しだけ壁や窓の装飾がうっとうしいが、今時のとてもシンプルな部屋だった。家財道具は机とベッド。あとは部屋に作り付けの収納スペース。更にバスルームとトイレもある。こんな広々とした部屋で生活ができることに、太賀は僅かにテンションが上がる。 (おい、おい、契約のこと忘れるな)  うっかりこの家に来た目的を忘れそうになり、太賀は素早く自分を戒める。 「気に入りました。ここでならリモートでも研究に没頭できそうです」  太賀は九条にわざと真剣な顔を作ってそう言うと、また頭を下げた。 「研究か……そうだ。支援金は匿名で大学に振り込んでおいた。ちなみにどんな研究をしているか念のため調べたが、『障がい者がより良い生活を送るためのメタバースの研究』ということらしいが……」 「はい……父親の夢でもありまして」  太賀は、話の流れでうっかり余計なことを言ってしまったと後悔する。これ以上九条に自分の個人的な情報を知られたくないのに。 「父親の夢?」  でも、意外にも自分の言葉に九条が興味を持ってしまったことを太賀は仕方なく受け入れると、自分がどうしてこの研究をしているかを、不本意ながらも説明をするハメになる。  障がい者に役立つ会社を作ることが父親の夢だったこと。でも、夢半ばで亡くなってしまい借金だけが残ってしまったこと。大学に、自分の理解者でもある大切な聴覚障がい者の女友達がいることなどを。 「彼女も僕と同じ研究室です。彼女の意見はとても貴重なんです」 「なるほどな」  九条は黙って太賀の話を聞くと、一言そう言った。 「俺が出した支援金を無駄にするような研究だけはするな。その研究によって得られた成果がすべてだ。成果がなければただのゴミだ」  九条はそう吐き捨てるように言うと、太賀の目を探るように真っ直ぐ見つめてくる。 「ええ。もちろん言われなくても分かってます」  太賀は九条の言葉にムカつきながらも、自分を鼓舞するようにそう言った。その通りだ。研究なんて成果がなければゴミも同然。だからこそ、支援金という先立つものが必要になってくることも。 「支援金。ありがとうございます。大切に使わせていただきます」  太賀は自分の意思を込めるように、九条の目を強く見つめ返した……。

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