11 / 24
第11話
九条に『夕食の準備ができたら呼ぶ』と言われ、その間太賀は自分に当てがわれた部屋で時間を潰すことになった。
明日からリモートで研究に参加するが、初めてのことで上手くいくか正直不安だった。太賀はスーツケースから自分のパソコンを取り出すと、さっそく通信環境を確認する。
机の上にWi-Fiのパスワードが書かれたメモを発見し、早速接続してみると、無事繋げることができた。その後、スピーカーとカメラを設置し、いつでもリモートができるように準備をしておく。
太賀は、スーツケースから自分の荷物をすべて出すと、それぞれの場所に収納をしながら、生活しやすい環境を整え始めた。
ふと、部屋の窓から九条家の壮大な庭が見えた。太賀は作業の手を止めると、その窓に近づき、庭をもう一度ゆっくりと眺めた。
何となく風を感じたくて、太賀は窓を開けると、ふわっと温かな風が頬を撫でた。新緑の季節だからか、風も温かく、緑も光り輝いている。ブロッコリーのような形の木々が九条家を覆い囲むように並び、まるで下界と隔てられているような感覚を覚える。それが、ここだけは特別な場所というように線引きをされているような気がして、太賀は妙な寂しさを覚えた。それは向こう側の寂しさではなく、こっち側の寂しさだ。特別な存在としていることの孤独感みたいなものを、太賀はこの窓から見える景色から思わず感じ取ってしまう。
九条はどうだろうか? あの男もこんな感覚を味わったことがあるだろうか? ふと、太賀はそれが気になった。九条の置かれたこの環境はあまりにも特別だ。選ばれし者という使命を与えられているからだ。
九条の年齢は自分よりも4つ上の28歳だと以前山下から聞いたことがある。もし20代で、自分が日本有数の巨大企業の御曹司という立場になったら、そのプレッシャーは計り知れないだろう。自分に対する嫉妬心や、敵の多い世界が故の疑心暗鬼などで、きっと孤独に苛まれていたに違いないと想像してしまう。
でも、よく考えてみたら、九条はアルファだ。アルファの人間はやはり選ばれし者だ。そう簡単に負の感情に負けるわけなどないだろう。
(じゃあ、何故九条は性的不能に陥った?)
太賀はそんなことを考えてもしょうがないと思いつつも、九条という人間に対し少しだけ興味を持ち始めている自分に気づき、それを誤魔化すように作業の続きを始めた。
クローゼットに着古した服を収納している時、ノックの音が聞こえた。『はい』と返事をしてドアを開けると、一人の背の高い男が『夕食の準備ができました』と太賀に告げた。その男は黒いスーツに、下半身だけの白いエプロンを付けた不思議な格好をしていた。年齢は三〇代前半くらいに見える。真面目そうな印象を与えるすっきりとした清潔感のある顔立ちをしている。
「私は、九条要様の身の回りのお世話をしている有川と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
有川という男は太賀に深々と頭を下げると、『私の後に付いてきてください』と言い、廊下を歩きだした。
太賀は言われるがまま後を付いていくしかなく、重い足取りで男の後を追った。
「太賀様」
「え?」
いきなり『様』を付けられて名前を呼ばれたことに太賀は驚いた。この家で自分は一体どういう立場にいるのだろうかと面食らってしまう。
「……要様のことをどうか……よろしくお願いいたします」
有川という男は言葉に詰まるような感じでいきなりそう言った。太賀は有川からの予想外の言葉に、息が止まるほど驚いた。
「え? あ、あの、それはどういう意味で……」
太賀は、自分の目の前に立つ男の背中に向かい、恐る恐る問いかけた。
「要様が、この家に人を連れてきたのは、太賀様が初めてですから」
「お、俺が?!」
太賀は有川の言葉に反応し思わず大きな声を出した。そのくらい衝撃的だったからだ。
「それは何かの間違いではないですか? 俺は、その……友人とか、そういうのとはまた別で……」
太賀は有川に何て言えば良いのか分からず混乱する。まさか自分たちの契約のことを有川が知っているなどということがあるのだろうか。だとしたら、自分は今すぐこの家から逃げるように出て行きたい。
「ええ。でも、それでも私は嬉しいのです」
有川はそう言うと、『こちらです』と言い足を止め、太賀に自分が示す部屋に入るように促した。案内された部屋は食事をするためだけの部屋らしく、大きな長方形のテーブルが部屋の真ん中に置かれていた。そのテーブルの短い側の方に九条が座っていた。俗にいう誕生日席だ。テーブルには布製の白いテーブルクロスが敷かれていて、等間隔に新鮮な春の花が生けられた花瓶が置かれている。
有川は九条に一番近い、長方形の長い方に太賀を座らせた。正面でも隣でもない席。その方が落ち着くと太賀は心の中で思った。
部屋には九条しかおらず、こんな広い部屋のこんな大きなテーブルで、九条はいつも一人で食事をしているのかと訝しんだ。
太賀が席に着くと、それを合図に有川が料理を運んでくる。その間太賀と九条はただ無言で料理が並び切るのを待つ。
太賀の目の前には品の良い和食が並んでいた。どれこれも、手の込んだ丁寧さが細部にまで行き届いていると感じられる料理に心を奪われる。また、見た目も素晴らしく、太賀は料理というものに美しさ感じたのはこれが初めてだった。
「奇麗……」
思わずそう口に出して言ってしまい、太賀はハッと自分の口元を抑えた。
「当たり前だ。日本一の和食料理人にケータリングしてもらっているからな」
九条は、本当にこんなことはありきたりだというような言い方でそう言う。こんなに美しい料理を見てもこの男はもう感動することもないのだと思うと、太賀は何となく気の毒な気持ちになる。
「あの、九条さんは毎日、こんなご馳走を食べているんですか?」
太賀は本当にそれが気になって問いかけた。毎日こんな高級料理を食べていたら、もう感動する余地なんて残っていないだろう。
「……毎日は食べない。今日は特別だ」
「特別って……まさか俺のために?」
太賀はまた思ったままを口にしてしまい慌てて口を噤んだ。特別と言う九条の言葉にうっかり反応してしまう自分が嫌になる。余計な感情など要らないのに。自分はただこの男と金で契約をしているだけなのに。
「まあ、上質なフェロモンを放出してもらうには、まずは良質な食事を与えないとだろう?」
太賀は九条の言葉に恥ずかしくなり下を向いた。自分は何を勘違いしているのだろう。九条の特別という言葉に自分の感情が図らずとも揺さぶられたことに、強い悔しさを覚える。
(ふん。ご馳走なんて与えても関係ないぞ! 俺のフェロモンなんてたかが知れてるのに……バカだな!)
太賀は悔しさを誤魔化すように心の中でそう叫んだ。
「……そうですか。それはありがとうございます」
太賀は全く感謝の気持ちを込めず空々しくそう言った。そんな太賀の気持ちを感じ取ったのか、有川が自分に近づき、優しく『飲み物は何がいいですか?』と問いかけてくる。
「え? あ、じゃあ、ほうじ茶で」
太賀はほうじ茶が好きだ。緑茶より苦みがないし香ばしい香りが好きだからだ。
「承知いたしました」
有川にこやかにそう言うと、厨房に向かう。
ほどなくして、程よい色味のほうじ茶が入った渋い湯飲み茶わんが自分の目の前に置かれた。
「ありがとうございます」
太賀は湯飲み茶わんを手に取ると、ほうじ茶を一口に飲んだ。口の中に広がる香ばしい風味に胸がホッと熱くなる。
「ほうじ茶が好きなのか?」
九条はそんな自分を、目の端に写すような仕草で問いかけた。
「ええ、好きですけど。何か?」
太賀は少しばかり嫌味を込めたような言い方でそう言う。
「別に、ただ聞いただけだ」
九条は素っ気なくそう言うと、料理に手を伸ばし食べ始める。太賀は空腹を感じ始めた自分に従い、九条と同じように料理に手を伸ばすと、その想像以上の美味しさに、脳内に幸せを与えるホルモンが充満するのが分かる。
でも、太賀はそんな自分の脳内を九条に気づかれたくなくて、その興奮をバレないように平然とした態度を取る。でも、料理を食べるたびにその美味しさに自分の心は逆らうことなく反応してしまい、顔が自然と綻んでしまう。
「お口に合って何よりです」
有川はそんな太賀の様子に気づいたのか、またさり気なく太賀を気遣うようにそう言った。
「ありがとうございます。とても美味しいです」
太賀は笑顔で、有川に心を開くように言った。出会って数十分しか経っていないのに、自分はこの有川という男に好感を持ち始めている。
「有川。お前は席を外してくれ」
九条はいきなりそう言うと、手に持っていた箸を箸置きに置いた。
「かしこまりました。用事がありましたらいつでもお申し付けください」
有川な丁寧にそう言うと、躊躇うことなく部屋から出て行った。いきなり二人きりにさせられしまい、太賀は落ち着かない気持ちになる。この男と一緒にいるのはいつまでたっても慣れそうにない。
「太賀には明日から抑制剤を飲ませない。覚悟するように」
九条は、瞳に強い思いを滾らせるように太賀を見つめながらそう言った。
「ええ。大丈夫です。覚悟はできています」
九条の言葉に合わせるように太賀はそう言った。本心では、覚悟なんて言葉大袈裟だなと思いながら。
「発情期が来たら、有川に知らせてくれ」
「え?」
太賀は九条の言葉に驚いて聞き返した。
「心配するな。あいつはアセクシャルだ」
「アセクシャル?」
「ああ。有川は恋愛感情に関係なく性的欲求がない男だ……」
「そ、そうなんですか……」
太賀は返す言葉もなく、ありきたりな返答しかできなかった。だってそうだろう。いきなり初めてあった男のセンシティブな部分を突きつけられるこっちの身にもなって欲しい。
「な、何故有川さんに知らせる必要があるんですか? この契約は俺とあなただけの秘密でしょ?」
そうでなければ、不用意に自分がオメガだということを有川に知らせてしまうことになる。お互いに自分たちの秘密をばらさないと約束をしたのに。こんなにも早くそれを反故にするというのだろうか。
「俺と有川との間には隠し事はない。太賀がここにいる意味も知っている。有川は発情期の太賀と対峙しても唯一大丈夫な男だ。だからお前の身の周りの世話をさせている。有川に知らせる理由は、もし太賀に発情期が訪れた時、俺の代わりに太賀を鎮めてもらうためだ……俺はお前に手を出さないと約束しただろう?」
九条は意味深に瞳を揺らしながらそう言った。
「そ、そんなこと、じ、自分でできます!!」
太賀は驚き焦ってそう叫んだ。この男は一体何を言ってるんだと、自分の目をこれでもかと開きながら。
「太賀は未だ発情期を知らないからそう言える……あまり見縊るんじゃない……それにもしかしたら、太賀のフェロモンに有川のアセクシャルに変化が及ぶかもしれない。有川は丁度いいバロメータとしても使わせてもらう……」
(うう、こいつ、マジで最低な奴だ……)
太賀は激しい怒りとともに、飄々と料理を食べ始めた九条の横顔をこれでもかと睨みつけた……。
ともだちにシェアしよう!

