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第12話
九条の家に来た日から太賀は抑制剤を飲まなくなった。大賀が九条に抑制剤を盗まれ時は、不本意にも1週間飲まないという状況になってしまったが、今思うと、あのクラブの男たちから不躾な視線を集めた理由はこれだったのかと気づいた時は、心の底から傷ついた。
自分から誰彼構わず誘惑するような匂いを発していた事実に、太賀は絶望的な気持ちになる。抑制剤を飲んでいなければ自分なんて、自分というアイデンティティなど関係なく、ただの性的な対象としてしか見られないということになる。下手したら、理性のない人間たちの、性的欲望の餌食になってしまうことだってあるだろう。
(なんて恐ろしいんだ……)
太賀は今、自分が抑制剤を飲んでいない事実に背筋が凍るのを感じた。自分は既に九条と契約をしてしまっている。支援金は大学に振り込まれ、父親の借金もすべて返済されている。あとは自分のフェロモンで九条の性器を蘇らせるだけ。
(発情期ってどんな感じなんだろう……)
まだ経験のない、否、むしろ本来なら経験する必要のない発情期という未知の症状など、きっとたいしたことはないと太賀はあの時高を括ったが、抑制剤を飲まない日が二週間ぐらいを過ぎた頃、太賀は急に不安になった。
身体が異様に怠いし微熱も続いている。呼吸も浅くて集中力が続かない。リモートの研究も最初の一週間ぐらいは調子良くできていたのに。
「大丈夫? 具合悪いの?」
そんな自分の状態に奈緒はすぐさま気づいた。パソコン越しに見る奈緒の顔は自分を探るように見つめている。太賀は平静を装うように笑顔を作り、奈緒に手話で返した。
「大丈夫だよ。ちょっと風邪気味なだけ」
奈緒は太賀のその言葉に納得したのか、険しかった表情が少しだけ和らいだように見える。
リモートの研究に切り替えてから、自分は、メタバース空間に入るためのVRヘッドセットの問題点に取り組んでいる。
VRヘッドセットは聴覚優位の技術であるため、視覚に障がいを持つユーザーが使いこなすには厳しい状況にある。こういった、ⅤRヘッドセットが様々な障がいを持つ人たちに対し、上手く対応できるかが大きな課題だったりする。
また、障がいを持つ人が、メタバース空間に繋がるためのインターフェースが十分に対応していないことも懸念している。メタバースをフルに活用するには高速インターネットの接続や、高性能のコンピューティングリソースが必要で、これらのリソースへのアクセスが限られてしまう障がい者もいる。それらをどうやってクリアしていくかを自分はずっと研究し続けているが、中々難しい課題だったりする。
「ねえ、ずっと気になってたんだけど、太賀は今どこにいるの? そこ自分の家じゃないよね?」
奈緒の言葉に太賀はドキッと心臓を鳴らした。そうだ。確かにそのことに意識をしていなかった。自分の背後の処理など全く頭になかった。
奈緒は何度か太賀の家に来たことがある。勘が良い奈緒なら太賀の背後に映る映像に違和感を覚えても仕方ないだろう。
「え? ああ、こ、ここはその、母方の祖母の家なんだ……」
こんな苦し紛れの嘘さすがに無理があると自虐的に思ったが、意外に奈緒は太賀の嘘をすんなり受け入れた。
「ああ、おばあちゃんちなのね」
「そ、そうなんだ。実は色々事情があって」
「うん。別に詮索しないけど、体調管理だけは気を付けてね。うちの研究室で太賀の存在って大きいんだからね」
「うん。分かったよ、ありがとう」
奈緒の優しさにまた救われた自分は、奈緒とは一生友達でいたいと強くそう思った。
(ありがとう。奈緒。大好きだよ)
太賀は心の中でそう呟くけど、自分のこの状態のままでは、このままリモートを続けていくのは不可能に感じ、太賀は奈緒に手話で伝えた。
「実は明日からリモートの研究休まなきゃいけないんだ。あ、体調不良じゃないよ。家の事情で」
「え? そうなの? 何だ、そっか」
奈緒は急に表情を曇らせると寂しそうに手話を返した。
「俺がいなくても大丈夫だよ。奈緒も含めてみんな優秀だから。大丈夫。自分を信じて頑張って」
奈緒はきょとんとした顔をすると、すぐに笑顔になり太賀にこう伝えた。
「その言葉そっくりそのまま太賀に返すよ。じゃあ、また。すぐに戻って来てね」
奈緒は大賀にそう伝えると画面から消えた。
(ああ、奈緒、ほんとごめん……)
太賀は奈緒に対する罪悪感に胸が締め付けられそうになる。でも、もう後には引けないと思い直し、怠い体を奮い立たせながら研究に没頭した。
寝室で寝ている時それは突如自分の身に訪れた。太賀は今まで、自分の自慰行為の頻度は、普通の成年男子の平均もしくはそれ以下だと思っていた。それには男同士の会話で何となくそう認識していたからだ。でも、今自分に訪れた強い衝動に太賀は怯える。こんな感覚は生まれて始めてだからだ。
太賀はベッドの上で悶え苦しみながら寝返りを何度も打った。自慰行為に及びたい衝動に必死に抗うように、太賀は自分の内側から湧き上がる欲望と必死に戦った。受け入れたくなかった。受け入れたら自分がオメガだということを認めることになるから。
(ああ、これが抑制剤を飲まないってことか……)
太賀は泣きたい気持ちを堪えながら自分のそれに手を伸ばした。でも、異常に昂ぶっている自分の性器に太賀は思わず手を引っ込める。それはまるで、自分と分離した、自分とは全く関係のない体の一部のように遠くに感じた。
ついに発情期に突入してしまったのかもしれない。発情期は本来妊娠を促すために現れる本能的な症状だ。1週間ほどある発情期の内、ピークは1日から2日間で、その期間が最も妊娠しやすいと言う。
信じられないことにオメガの太賀は妊娠ができ子供を産むことができる。自分はゲイだから、愛する男性との間に子供を産めることはとても幸せなことだとは思う。オメガと繋がらない限り、例え愛し合っていても普通のゲイたちは子供を持つことはできないのだから。
でも、こんな風に強い性的衝動が毎月自分の体に現れることは本当に耐えがたい屈辱だ。自分は子ども産むために生まれてきたロボットのようだ。定期的に起こる発情期に翻弄されるだけでなく、その際に発せられるフェロモンが、自分の意思など関係なく、人々の欲望を誘発し狂わせる。
こんな体に生まれて来てしまったことを、一体誰に呪えばいいのだろう。呪ったところで何も変わらないのは分かっているのに、込み上がる怒りに冷静な感情など消え失せてしまいそうになる。
太賀はベッドの中で声を出さずに叫んだ。喉がひりひりと痛む。
『発情期が来たら、有川に知らせろ』
そう九条は言った。でも、こんな醜態を有川に晒すなど耐えられない。このまま自慰をして自分でどうにかするしかない。
本当はそんなことしたくない。でも、しないと頭が狂いそうになる。自分は自分の発情期を見縊っていた。こんなに苦しいなんて知らなかった。
太賀は自らの性器に手を伸ばし乱暴に扱いた。こんな風に激しく自分の性器を扱いたのはこれが初めてだった。それに、活き活きと熱く脈を打つ自分の性器が忌々しくてしょうがない。
太賀はたいして扱かなくとも精をあっさりと放つと、胸が大きく上下するほどの呼吸を何度もした。その度に全身を覆っていた熱が放出されていくのを感じる。
でも、落ち着いたのは一瞬で、また太賀の性器は勢いを付けて擡げようとしてくる。その光景に太賀は、まるで別の生き物でも見るように、冷えた頭で自分の性器を睨んだ。
何度自慰をしただろう。取り敢えず何度目かでやっと落ち着くことができたが、何日か後に来るのであろう発情期のピークに、太賀は体を丸めるようにして自分を抱きしめながら、ベッドの中で静かに震えた。
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