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第14話

 九条の家で、九条と暮らし始めてからの最初の発情期は、自分にとって忘れられないものとなってしまった。それは汚点と呼んでも過言じゃないくらい、自分にほの暗い傷を与えた。自分が、あんな風に卑しく乱れながら性欲を露わにしてしまった事実に、激しい羞恥と後悔が圧し掛かって来る。  やはり、軽はずみにこんな契約をしてしまった自分は、ひどく愚かだったのかもしれない。でも、自分を責めたところで何も変わらないし、それもまた事実であると思うと、太賀は強いみじめさに包まれてしまう。  九条とはお互いに性的なことはしないというルールだったのに、発情期という発作のような症状の前では、そんなルールはいとも簡単に崩れた。あの時自分は、自分のこの狂おしいほどの性衝動を鎮めてくれるのなら、本当に誰でも構わないと思った。そのくらい自分の理性などまったく働かなかった。 (怖い……俺、また、あんな風に……)   来月来る発情期に、自分はまたあんな風に自分を見失い、まるで獣のように自身の性衝動を鎮める相手に貪りつくのかと思うと、太賀は恐怖と絶望で、今すぐにでも、この部屋の窓から飛び降りてしまいたいという衝動に駆られてしまう。  九条に鎮めてもらった日から1週間が過ぎた今も、太賀はそんなネガティブな感情に心を捕らわれそうになる。  今の自分の体は、あの時のことが嘘のように普通に戻っている。体も軽いし、食欲もある。でも、一度経験した発情期の記憶は、心と体に強く刻まれ消えることはない。太賀は、九条と食事の時などで顔を合わせるたびに、まるで条件反射のように、自分の体があの時の愉悦を勝手に思い出してしまう。さらに、九条と目が合ってしまうと最悪だ。心臓の鼓動が早鐘を打ち、そのせいで体が急激に熱を帯び始めてしまい、嫌な汗をかく。  これが発情期の後遺症なのかと思うと、本当に自分の体が憎らしく、忌々しく感じ、太賀の心はひどく不安定になってしまう。  気分転換に外に出られれば良いが、薬を飲んでいないと僅かにフェロモンを放出してしまうから、自分は籠の中の鳥のようにこの家から出られない。  太賀はふらふらと部屋の窓まで近づいた。窓から見える景色はいつもと変わらず、豪邸に相応しい立派な庭と、それを取り囲む檻のような木々だ。  太賀はその景色をぼんやりと見つめていると、ふと、魔が差したように窓枠に足を掛けた。 「太賀様!!」  その時、自分の背後からの叫び声に、太賀はふと我に返った。その瞬間、自分を後ろから痛いくらい抱きかかえている手袋をした大きな手に視線が行った。 「あ、有川さん?……」  太賀はこの手は有川だと気づくと、呟くようにそう言った。 「太賀様! 今、何をされようとしましたか? 私が止めなければあなたは! 今ごろ!」  有川は声を震わせながらそう叫んだ。こんな悲痛な声、多分人生で初めて聞いたかもしれない。 「ご、ごめんなさい。お、俺……何でこんなことしようとしたのか、自分でも……よく」  太賀はそう言うと、床に座り込み頭を抱えた。 「心が疲れているのですよ。今、神経を落ち着かせるお茶をご用意しますので、私と一緒にいただきましょう」  有川はそう言うと、太賀を引っ張り上げ、そのまま掴んだ腕を離さず、太賀を部屋から連れ出そうとする。 「え? 待って、九条さんは? いるんですか?」 「いらっしゃいません。仕事場に行かれました。ご安心ください」  有川はきっぱりとそう言うと、太賀の部屋のドアを静かに閉めた。太賀は有川に手を引かれながら、下の階に下り、玄関を出た。 「庭に面したテラスがあります。そこでお茶をいただきましょう」  有川はそう言うと、その場所まで太賀の腕を掴んだまま案内した。もし、手を離したら、自分がまたバカな真似をするのではないかと訝しんでいるように。  暖かな光が燦々と差し込むテラスは、まるで高級リゾート地のホテルのような仕様になっていた。お金持ちの客が、ひと夏のバカンスをテラス席で真っ昼間から酒を飲んで楽しむような、そんな雰囲気と言えば伝わるだろうか。  九条家のこの場所も漏れなくラグジュアリー感が半端ない場所だが、意外と自分にとっては、心がすっと軽くなるような開放的な場所だと感じた。  太賀はそんなことを考えながら、有川に腕を引かれるがままソファーに座った。有川は太賀から目を離すのが怖いのか、太賀を見つめたままスマホを持ち出すと、誰かに電話をかけた。 「ええ、あのお茶です。それを二つ、今すぐにテラス席に持ってきてくださいますか?」  有川は、多分メイドだと思われる相手に対し、九条や自分に対する言葉遣いと同じように丁寧にそう言った。有川は、誰に対しても態度を変えない人間なのかもしれないと思うと、太賀は、有川を初めて見るような目でしみじみと見つめた。そんな太賀の視線に有川は気づくと、太賀を不思議そうに見つめ返し柔和な笑顔を見せる。  太賀は慌てて有川から視線を外すと、テラスから見渡せる庭に目を遣った。 「ここ、なかなか良い場所でしょう? このお屋敷で一番好きな場所です」  有川は太賀の隣に座るとそう言った。 「ええ、そうですね。心が落ち着きます。やっぱり、外の空気を吸うって大事ですよね」  太賀はぼんやりと庭を見つめながらそう言った。 「そうです。大事です……私は今まで、要様に付き添い、発情期のオメガな方々を鎮めて参りましたが、初めて発情期を経験した方は、太賀様と同じように、酷く混乱され、その後も心が不安定になられる方がおりました。ですので、太賀様の今の状態はとても心配です。今からメイドが持ってくるお茶は、昂ぶった神経を鎮め、心を落ち着かせてくれる効能があります。毎晩就寝前にお部屋へお持ちしますで、明日からは、必ずお休み前にお飲みください」  有川はそう一気に話すと、落ち着いた大人の笑顔を太賀に向けた。 (ああ、この人といると落ち着くな……)  太賀は有川を見つめながら心の中で呟いた。九条のような傲慢で身勝手な人間とは違い、人の気持ちが分かる大人の男だ。 「ありがとうございます」  太賀は、有川の瞳を真っ直ぐ見つめ感謝の言葉を伝えた。有川はそんな太賀の視線に戸惑うように、僅かに瞳を泳がせる。 「……前にも言いましたが、要様が誰かを自分の家に連れて来られたのは太賀様が初めてなのです……それだけ太賀様は要様にとって特別な存在なのです。本来なら要様は、自分のそれが昂ぶらないと分かると、お相手のオメガには一切興味を無くします。それはとても非情に切り捨てるのです。確かに、太賀様に出会うまでの要様は、心の中に嵐が吹き荒れているような感じでした。でも太賀様にお会いして少しずつ変わられたように私は思います。太賀様は他のオメガの方とは違います。太賀様に関しては、初めから私の役目などなかったのですから。私は多分、あなたに指一本触れるのも許されないでしょう。先ほどは、太賀様を助けるためあなたに触れてしまいましたが、手袋越しですし、予断を許さない状況でしたので、大目に見てくださるとは思いますが……」  そんな話をされても太賀は困惑するだけだ。確かに、熱で浮かされたみたいな発情時のおぼろげな記憶を手繰ると、あの日、九条は太賀の発情が収まるまでずっと付き合ってくれた。その間、今までの自分に対する傲慢で上から目線の態度とは違う、甘い優しさが垣間見られたのは事実だった。実際太賀は強い快楽に溺れていたし、九条の顔を奇麗だとも思った。今でも九条に会うと、九条と交わしたキスや口淫の記憶が、どうしてこれほどまでに自分深くに刻まれているのかと、その事実にひどく困惑してしまうくらいだ。  太賀は有川の言葉にどんな返答をしていいか考えあぐねていた。あの日の自分と九条との記憶がぶわっと脳内広がり、思考が急停止してしまう。  その時、二〇代くらいの若い女性のメイドが、お茶を二つ載せた盆を持って現れた。その仕草が、九条の店で働いていた時の、ロボットみたいな自分のようで、太賀は複雑な気持ちになる。  メイドはお茶を機械的にテーブルに置くと、『失礼いたします』とだけ言い、その場を静かに離れた。 「どうぞ、お飲みください」  有川はティーカップをわざわざ手に取ると、太賀の目の前にそれを差し出した。 「あ、はい。いただきます」  太賀はそう言って、薄茶色のお茶を一口飲んだ。飲んだ瞬間に、口の中に僅かな渋みと甘みが広がり、バランスの取れた良い味がする。 「美味しいです。俺、この味好きだな」  太賀はそう言ってもう一口飲んだ。 「良かった。気に入っていただけて」  有川はそう言うと、自分もお茶を一口飲んだ。 「……どうして、僕が九条さんにとって特別なんでしょうか? それはやはり、アルファとオメガとしての相性が良いということなんでしょうか?……だったら、何故、九条さんは、その、俺とでも、何の変化もないんでしょうか?」  太賀はお茶を飲んでリラックスしてしまったのか、自分では心の中で呟いたと思っていた言葉を、無意識に口にしてしまっていたことに気づき、ハッとして有川を見つめた。  有川はきょとんとした顔で太賀を見つめていたが、急に真剣な顔を作ると、持っていたティーカップをテーブルにそっと置いた。 「……要様が置かれている環境というものは、我々には想像もつかないほど過酷なものなのだと思います。あの方があのようになってしまったことには、きっと原因があるのだと私は思います。その原因を取り除かない限り、要様の不能は治らない」  思いつめたように下を見つめ有川は言った。九条という男にどれだけ恩と情があるのか知らないが、こんな風に自分のために心を痛ませている男がいることに、あの男は気づいているのだろうか。 「……原因ですか。それって何なんでしょうね。多分、アルファっていう選ばれし者特有のプレッシャーとか重圧ですかね? それ以外、俺にはないと思いますが……現に、あの人の不能を治したい理由って、九条家の子孫を絶やさないために、自分の精子を採って、親の決めた女性と体外受精するってことですよね? 確実にそれって重圧以外の何ものでもないじゃないですか。だから父親に反発するように、わざと俺に、運命の番を見つけて、自分は完璧なアルファになりたいって言ったのかなって……知らないけど……」  有川は太賀の話を真剣に聞くと、思いつめたような顔をしながらしばらく無言になった。 「ええ。そうですね。お父様からのその手のプレッシャーは、要様にとって相当大きな重圧だと思います。だから、完璧なアルファになりたいというのは、要様の本心だと思われます。多分、要様は、お父様が決めたその女性とご結婚し、後継ぎを作らなければならないでしょう。要様はゲイですが、要様のお父様は、要様がゲイであることを知りません。同じく、不能であることも体外受精を考えていることも、存じ上げてはいないと思います……」 「……そ、そんなことって……じゃあ、俺がしてることって意味あるんですか? 確かに、父親にばれないように水面下でってことだとは思うけど……」  頭が混乱し始めた太賀の手を、有川はいきなり手袋越しに掴んだ。太賀は驚いて、有川の顔と掴まれている自分の手を交互に見つめた。 「ええ、十分にあります。だって太賀様は、要様と番になる確率が大いにあるオメガだからです。要様を生き返らせてくれるのは、太賀様以外に、私はいないと思っていますから……」 「……か、買い被り過ぎです。正直に言うと、俺が九条さんと契約した理由って、金に目が眩んだからなんです。俺なんてそんな男です。きっとそろそろ用なしになって、この家から出て行きますから……」  太賀は本当にそうだと思いながら言った。自分は最低な奴だと心の中で叫びながら。 「……ではどうかその前に、要様のことをこれから良く知ってください。あの誰も辿り着くことのできない孤高の美しさを持ったあの方のことを、どうか……」  まるで九条を神格化しているみたいに有川はうっとりとそう言った。でも、自分の手を握る強さと手袋越しでも伝わる熱に、太賀は、有川の思いの強さに気づかされる。 「どうしてそこまで? 有川さんと九条さんの関係って……」  太賀はそれが気になり問いかけた。 「……ご存知かもしれませんが、私はアセクシャルです。私の人生には、恋愛感情も性的欲求も存在しません。私が要様にお仕えする前に、私は一人の女性からひどいストーカー被害を受けていました。私の何気ない親切心が彼女に強い執着を生ませてしまったのです。彼女は、私が彼女の思いに応えられない現実を受け入れられず、あろうことか私と一緒に死のうとしました。あの頃私は、都内のバーでバーテンダーをしていました。要様は、私の勤めていた店に、良くお客様としていらっしゃっていました。自然と気が合い、ある程度仲の良い関係にはなりましたが、特に深く、お互いのことを詮索し合ったりはしませんでした。ある日、私が店から帰ろうとした時、私を待ち伏せしていた彼女に、私はナイフで刺されそうになったのです。たまたまその場にいた要様が、身を挺して私を救ってくれたのです。その時、要様は彼女から腰を刺され、脊髄に損傷を与えられました。すぐに手術を行い、手術は無事成功し後遺症も残らないはずでした。医師は、要様の体は元通りに戻ったとそうおっしゃいましたから……でも、要様の大切な一部は、元には戻らなかったのです……」 (ああ、そういうことだったのか……)  太賀は、テラスに敷かれているウッドデッキを茫然と見つめた。 「医師は言いました。要様のその一部は、私の力で機能できるまでに戻したと。後は本人の心次第だと……私は、私の命を救ってくれた要様への恩返しのために、こうやってずっと、お傍でお仕えしているのです……」  太賀は重たい心を軽くするように、はあっと深い溜息を吐いた。それに気づいた有川は、慌てて太賀の手から自分の手を離すと、『すみません! お話が過ぎました!』と叫んだ。 「いえ、九条さんのこと、少しでも分かって良かったです。俺は少し、あの人のことを誤解してたのかなって……」 「太賀さま……」  有川は、瞳を僅かに潤ませながら太賀を見つめた。 「お茶、美味しかったです。今日は午後から大学のリモート研究がありますんで、そろそろ部屋に戻りますね」  太賀はそう明るく言うと、有川に深々と頭を下げた。

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