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第15話

 前回起こった発情期から考えて、二回目の発情期が訪れそうなちょうど1週間ぐらい前の頃、朝食を食べていた時に、九条は太賀に言った。  九条とは朝と夜の食事の時ぐらいしか顔を合わせていなかった。昼間は、自分は大学のリモートをしているし、九条は毎日会社に行っている。お互いに交わす言葉は『おはよう』と『おやすみ』の挨拶くらいだ。自分たちがどんな人間かを知るには余りにも消極的な二人過ぎる。でも、最初自分はさっさとこの家から出て行くつもりだったから、九条のことを知る必要もなかったし、もちろん親しくなりたいなど思ったこともなかった。でも、有川から話を聞いた時、自分は確かにあの時九条に対し興味を持った。自分の身を挺して有川を助けた九条に、素直に尊敬の念を抱いたからだ。自分は、自分にできないことができる人間に惹かれる。多分、自分がもしあの時の九条の立場だったら、恐怖のあまり腰を抜かしてしまい何もできなかったはずだ。 (そうだよ……絶対にできない……)  太賀は、有川から九条との関係を話されてから、いつか自分から少しでも会話ができる機会を持ちたいと思っていた。でも、九条はいつも忙しく無口で、そんな機会は中々訪れそうもなかった。 「え?」  太賀は驚いて聞き返した。 「……今日の夜、リムジンでドライブをしないか?」  九条は朝食を食べ終えた後、無表情でそう言った。太賀は驚きのあまり、数秒間口を開けたまま茫然としてしまった。 「あ、え、ああ……は、はい」  太賀は手に持ったパンの欠片を無意識に口に押し込みながら、モゴモゴとさせてそう言った。 「職場から戻ったらスマホに連絡を入れる」  九条はそれだけを言うと、おもむろに席を立ち、ジャケットを手に取り食堂から出て行った。太賀は狐につままれたような気分で、九条の後姿を見つめた。 (何故リムジンでドライブ? 俺がリムジンを気に入ったこと知ってるのか?)  太賀は複雑な気持ちになりながらも、九条からの誘いに、ドキドキと胸を鳴らしている自分に少し苛立った。  リモートの研究が終わったのは午後六時を回っていた。少しずつ研究の成果も上がり、何より九条からの支援金が明らかに研究のクオリティを上げていたのは事実だった。太賀は一瞬その事実から目を反らしたい気持ちに捕らわれたが、現実を素直に受け入れようと気持ちを切り替えた。  詳しい金額は聞いていないが、相当な額を援助してくれたに違いない。何をするにも先立つものは必要だが、特に研究というものに関しては、金なんてあればあるだけいい。日本の一流企業の御曹司ならそんなこと十重承知の上だろう。 (いつか、ちゃんと感謝の言葉を伝えないといけないな……)  なんて、そんなことを思った瞬間、『否、一度ちゃんと礼を言ったよな?』と思い出し、『やっぱりいいや』とすぐさま思い直した。  そんな風に頭をぐるぐると思い悩ませながら、太賀は九条からの連絡を待った。  パソコンの電源を切りスマホを見ると、時刻は一九時を回っていた。太賀は九条からまだ連絡がないことを確認すると、もしかしたら約束をすっぽかされたのではないかと不安になった。でも、ちょうどそう思い始めた時、太賀のスマホが鳴った。 「あ、もしもし」  太賀は慌ててスマホをタップすると、少し緊張しながらそう言った。 「今すぐ下に下りて来られるか?」  九条はいきなりそう太賀に尋ねた。 「あ、はい。行けます」  太賀のその言葉を確認すると、九条は『外で待っている』と一言言い電話を切った。  太賀は簡単に身だしなみを整えると、大きく深呼吸をしてから部屋を出た。何故自分はこんなに緊張をしているのか。そんな自分が嫌で、太賀はもう一度大きく呼吸をする。  階段を降り玄関に向かい、無駄に大きな観音開きのドアを開ける。だいぶ日は伸びたが、外は既に薄暗くなっている。庭に点在するライトが橙色の光を放ちとても奇麗だ。  太賀は玄関の目の前に止められたリムジンの存在に気づいた。その時リムジンの前に立つ九条の姿にも同時に気づいた。九条は仕事帰りのきちっとしたスーツ姿ではなく、初めて見るリラックスしたラフな格好をしていた。それがとても新鮮で、太賀は思わず数秒間見惚れてしまった。  筋肉を強調するような少しフィット感のある淡い水色のサマーニットに、黒のストレートパンツ。そのシンプルなコーディネートは、九条の持つ魅力を十分に引き出していて、これ以上何も着飾る必要がない圧倒的な素材の良さみたいなのを、これでもかと太賀に見せつけてくる。  自分は白いティーシャツにベージュのチノパンといった、全く捻りのない格好をしている。自分と九条を比べるなどくだらないと分かっていても、つい引け目を感じてしまう自分がいる。 (まいったな……血筋ってやっぱ凄いな……)  太賀は改めて、この男は日本有数の大企業である九条家の御曹司なのだということを、強く思い知らされる。 「何をしている? 早く乗れ」  リムジンの前で立ちすくむ太賀に、九条はぶっきらぼうに言った。 「あ、はい……」  太賀は少しだけ沈む心のままそう言い、リムジンに乗り込んだ。自分が乗ったのを確認すると、九条は運転手に何かを告げ、自分も太賀の隣に座った。その時、ふわっと香る香りが太賀の鼻腔を掠めた。その香りがとても自分好みの良い香りだったのが意外で、太賀は思わず九条をじっと見つめてしまう。 「……何だ?」  太賀の視線に気づいた九条は、不思議そうな顔をしながら太賀を見つめた。 「え? い、いえ、別に」  太賀は慌ててそう言うと、自分の視線の先を必死に探した。 「夕食はまだだったな?」  九条は優雅に足を組むと、そう太賀に言った。 「ええ。まだです」 「ドライブの後、夕食を取ろう」  九条はそう言うと、運転手に『出してくれ』と指示を出した。  九条家のリムジンに乗るのはこれで三度目だが、何度乗っても、この乗り物に対する特別な感情は一生褪せることはないと思わせるくらい太賀を魅了する。  太賀は車が走り出すと、興奮とワクワク感で胸が高鳴るのが分かった。そんな子どもみたいな自分に呆れるが、何故こんなにも胸が高鳴るのか自分でも不思議でしょうがない。 「リムジンが好きか?」  九条はそんな太賀の胸の内を見透かしたようにそう言った。太賀はドキッと心臓を鳴らすと、恐る恐る九条の方に視線を移した。 (え? この人って超能力者?)  太賀は、そんなバカらしい考えを信じそうになるくらい驚いてしまう。 「え、え? 何故そう思うんですか?」  太賀は声を上ずらせながらそう問いかけた。 「以前、俺とリムジンに乗った時、太賀の目が輝いたからだ……分かりやすいくらいにな」  九条はそう言って軽く微笑んだ。太賀は九条の微笑みに縛り付けられたように目が離せなくなった。その時、突然胸の奥がじわりと熱くなる感覚を味わう。 「あ、はは、そ、そうですか……何か恥ずかしいです」  太賀は自分の頬が一瞬で赤くなるのを感じ、あくびをする振りをして自分の頬を隠した。 「……恥ずかしがる必要などない。俺はそんな太賀を見ているのが好きだ」 「え?……」  あまりにも直球な言葉に、太賀の胸を熱くする熱は一瞬で全身に駆け巡る。 (嘘だろう……今日の九条さんいつもと違う……)  太賀は頬を覆う自分の手までが赤くなっているのではないかとパニックになる。 「窓を開けよう」  九条はそう言うと、自分の席の窓際にあるボタンを押した。すると、窓ではなくオープンカーのようにリムジンの天井が開き始めた。 「うわぁ!」  太賀はそれに素直に驚き、天井を仰ぎ見た。街の明かりが太賀の瞳に素早く飛び込んで来る。それはキラキラと自分の瞳を楽しませるように輝いている。自分をなぞる風も心地良く、まるで映画の世界にでも飛び込んでしまったような興奮を味わう。  もし、九条と契約をしていなかったら、自分はあんな辱めを受けるような発情期を経験しなかっただろう。でも、こんな風に自分が、世界の中心にいるような経験を与えて貰うこともなかったはずだ。こんなこと一瞬のまやかしだということは十分分かっている。でも、今自分が感じているこの多幸感は紛れもなく現実でリアルだ。 「凄い、楽しい!」  太賀は思わず心からの声を漏らしてしまい、慌てて口を押える。 「存分に楽しめ……それが俺の望んでいることだ」  九条はまた微笑みながら太賀を見つめそう言った。  太賀はずっとジェットコースタ―にでも乗っているような気分を味わっている。九条の言動に自分の感情は上がったり下がったりを滑稽なくらい繰り返しているからだ。 (やばい……よ)  太賀は自分の心の変化に戸惑う。自分はこの隣にいる男に惹かれ始めている。有川から聞いた話が引き金になったことは確かだ。ただ、オメガとしての自分の細胞が、アルファである九条に強く惹かれるのは本能的にあるかもしれない。でも、自分の心が、こんな風に切なくなるような気持ちを九条に抱くのは初めてだ。 「く、九条さん……」  太賀は湧き上がる感情に突き動かされるように、九条の名を呼んだ。 「ん? 何だ?」 「あ、ありがとうございます。今日ドライブに誘ってくれて……そ、それと、この間の……俺のその……えっと、何って言ったらいいんだ……そ、その、俺を鎮めてくれて……ありがとうございます……」  太賀が声を振り絞りながらそう言った時、九条がいきなり太賀の手をそっと握った。 「何も言うな。礼など要らない……俺が太賀に契約持ちかけた。ただそれだけだ……」  確かにその通りなのに、自分はどうして九条に感謝を伝えたのだろう? 矛盾しているその感情に混乱してしまう。ちょっと前の自分は金さえ貰えれば、九条の不能などどうでも良かった。九条の性器が生き返るかどうかなど全く興味がなかった。そのせいで自分は、多分一生縁のなかった発情期というものを経験させられ、ひどい辱めを受けた。でも、今自分は確かに、九条の苦しみを理解しようとしている。いつか九条の大切な一部が蘇ることを望んでしまっている。もしそれが成功したら、自分と九条は、一つに繋がることができるのだから……。  太賀は全身にぶわっと汗をかいた。発情期の自分が、九条のそれに激しく貫かれている姿を想像してしまったからだ。 「……どうした?……手が熱い」  九条は太賀の手を握る手に力を込めてそう言った。まだ二度目の発情期は訪れていないはずなのに、九条に強く手を握られただけで、全身がぞくりと泡立った。  まるで、太賀の様子がおかしいことに気づいてしまったのか、九条はゆっくり太賀の手から自分の手を離すと、今度は、流れるようにするりと、わざと指と指の間をくすぐるように指を絡めて握ってくる。その刺激に、太賀は混み上がる愉悦を堪えるようにぎゅっと目を瞑る。 「熱いな……指の間も……」  九条は熱のこもった声でそう言うと、またさらに力を入れて太賀の手を握った。 「は、離して……」  太賀は堪らなくなって、九条の手を解こうとする。でも、九条はまるで嫌がる太賀を楽しむようにそれを制した。 (ああ、ダメだよ……)  頭が茹ってしまったみたいにボーっとする。  太賀は体に上手く力が入らなくて、思わず九条の肩に頭を擡げた。 「太賀……次の発情期できっと俺は……」  九条はそこで言葉を止めると、急に黙り込んだ。 「……きっと……何ですか?」  太賀はその先の言葉が気になってしまい、怠い口を必死に動かしながらそう尋ねた。 「……いや……そろそろ、店に着く」  九条は意外にもそんなことを言って自分の言葉をはぐらかした。太賀は九条の肩からゆっくりと自分の頭を持ち上げると、頭上に広がる街の明かりを見つめた。キラキラと輝く人工物の光が、太賀の瞳の中でくるくると踊る。 (この人の心の中って、一体どうなってるんだろう……)  太賀はふとそんな興味が沸いた。九条の性器は正常に機能するはずなのに、心の中で何かがそれを抑えているのだとしたら。 「俺が……役に立ちます。絶対に……」  太賀は決心するようにそう言うと、九条の手をぎゅっと握り返した。

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