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第16話

 あの日、あのリムジンの中で自分が言った言葉を、太賀は何度も反芻しては、頭を抱えている。あの時の自分は、まるで熱にでも浮かされたみたいだった。リムジンに乗った瞬間に香った九条の香りは、実はオメガと同じようにアルファからも香る、九条独特の香りだったのではないかとさえ思えてくる。その香りを浴びてしまったせいで、自分はあんなことを口走ってしまったのかと。そんなことを考えてしまうくらい、太賀は今、次に九条にどんな顔で会えば良いか分からなくなってしまっている。  結局あの日の夜は、夕食は二人で食べられなかった。店に着いたと同時に、九条に突然電話が来て、そのまま屋敷までとんぼ返りしたからだ。電話の内容は分からかったが、九条は眉間に皺を寄せるように苦しそうな表情を浮かべると、ただ一言『承知しました』と言った。   九条からそんな丁寧な言葉を聞いたのは、太賀はこれが初めてで、スマホを耳に当てる九条の横顔を、つい驚いた顔で見つめてしまった。九条はそんな太賀に気づくと、スマホを切り短い溜息を吐いた。 「すまない。食事はまた後で、だな……」  九条はいつものクールな表情に戻ると、そう低い声で言った。その声のトーンは、平静を装っていても、僅かに暗さを帯びていることを太賀は聞き逃さなかった。 「……ええ。残念ですが、またの機会で……」  太賀も残念さを隠すように、わざと明るくそう言うと、九条に微笑みかけた。多分、九条に微笑みかけるなど今まで一度もしたことがないはずだ。太賀はそれに気づくと、慌てて九条から目を離し、リムジンの天井を仰ぎ見ながら、自分の心を素早く落ち着かせた。  太賀はあの夜のことを思い出しながら、自分の発情期がそろそろ来ることを感じ取る。多分明日あたりかもしれない。今日もリモート研究をしている間中、ずっと体がだるくて仕方がなかった。この兆しは、先月とまるで同じだ。定期的に狂いもなく訪れる自分の発情期に太賀は複雑な気持ちになる。前回は、自分の発情期に対し、本当に憎らしいほどの嫌悪しかなかった。でも、二度目の発情期に対する自分の心の変化に太賀は戸惑う。自分は確かに期待をしている。二度目の発情期で、ついに自分は九条の性器を蘇らせることができるかもしれないことを。そして、二人で激しく繋がるという想像を、太賀は頭の中で何度もしては、我に返り頭(かぶり)を振るということをバカみたいに繰り返しているのだから。 (俺はあの人を好きになっちゃったのか? それとも、オメガとしてただあの人とシタいだけなのか?)  そんな考えが頭を擡げると、太賀は本当に分からなくなる。確かに自分は九条に惹かれ始めているし、九条のことをもっと知りたいと思っている。でも、発情期の自分は完全に理性を失い、まるで獣のようになってしまう。そんな風に自分を見失っている自分は、ただ純粋に快楽だけを追い求める動物のように九条を求めているだけかもしれない。そんなことを考えると、益々太賀は、自分の心と体が乖離していくような恐怖を感じてしまう。 「失礼します」  リモートが終わり、周辺機器の電源を切っていた時に、ノックと有川の声がした。太賀は『はーい!』と声を上げ、ドアを開けた。 「どうしました?」  九条はドアの前に立つ有川にそう言った。 「太賀様……お知らせがあります」  有川は神妙な面持ちでいきなりそう言った。 「え? どうしたんですか?」   有川の様子に、太賀は少し不安になってそう問いかけた。 「ええ、実は……」  有川は暗い表情を作ると、意を決したように太賀を見つめた。 「……明日から、要様の婚約者様が、この家に住まわれます」 「え?……」  有川の言葉を太賀は瞬時に理解できず、ぼんやりとした目で有川を見つめた。 「太賀様。誤解なさらずに。これは、決して要様の意思ではありません。要様のお父様が痺れを切らし出した指示だと思われます。要様のお父様は少々焦っておありなのです。ご結婚をされる前から跡継ぎの心配をされているのです……さすがに、これは少し強引かと、私も非常に危惧しております」  有川は太賀を必死に見つめながらそう一気に事情を伝えた。太賀は、この突然な話に自分の頭は完全に置いてきぼりになった。自分の心は確かに九条に惹かれ始めているのに、まるでそれを阻止するようにこんなことが起こるなんて。 「……九条さんは、それを拒むことはできないんですか? 俺がこの家に居ることを、その婚約者は知っているんですか? だってそんなこと、婚約者だって、絶対に嫌じゃないですか?」  太賀は気づくと、いつも有川に質問責めをしてしまう。この人を目の前にすると、するすると自分の感情が引き出されてしまう。それが有川の魅力だとするならば、きっと九条も有川には絶対に心を開いているはずだと、太賀は自信を持ってそう思う。 「ええ。多分。要様の婚約者様も、親の決めた相手とそうそう素直に結婚するなど考えてはいないと思います。ましてや要様が女性に興味がないこともご存知なはずですから。ただ、どんな形であれ、跡取りを作るという絶対的なルールに逆らうことはできないと、婚約者様も心得ているのではないかと。それは、婚約者様のお家にも大きく関わることなのだと思われます」 「そうか、それは両家が利害関係で結ばれるということですね? 優秀な遺伝子同士を交配して、脈々と繋がる九条家の権力を保持していくために、共に協力し合うと?」 「……そうですね。早い話、そこには愛などないのです……なんて、アセクシャルな自分が言うことではないですが……」  有川は悲しそうに目を伏せると、そう自虐的に言った。  なるほど。この世界で絶対的な成功を手に入れるということは、自分の心を躊躇いなく殺せるかが重要なのかもしれない。そうでなければ、九条家がここまで発展することはなかっただろうし、今の今まで、その権力を保持することはできなかったはずだ。 「……有川さん。俺はそろそろ発情期を迎えそうです……こんな状況で、俺はどうしたらいいですか?」  有川は、太賀の言葉にハッと我に返ったような表情をすると、いきなり太賀の手を取り、何かを握らせた。 「抑制剤です。これを毎日欠かさず飲んでください。即効性があります。要様がご用意してくださいました。ただ、発情は抑えられますが、フェロモンを抑制するのは難しいのでご注意ください。とにかくこれを飲んで、婚約者様が居る間、太賀様はおとなしくこの部屋で過ごして下さい。何か御用がありましたら、私がすぐに飛んで参ります」  有川は有無を言わせぬ圧でそう言った。太賀は握らせられた薬をじっと見つめた。自分が今までの飲んでいた薬と、色も形も違う。 「……分かりました。今すぐ飲みます……でも、俺は九条さんに会って話がしたいです……俺はあの人の本心を知りたいので……」 「太賀様……」  有川は瞳を僅に潤ませながら太賀を見つめた。 「解りました。私が必ずその機会を作ります」 「ありがとうございます。有川さん……」  礼を言った太賀の手を有川は痛いくらい握った。太賀は、苦笑いを浮かべながらそんな有川の手をそっと解いた。    九条の婚約者は、次の日、本当に九条の家で生活を始めた。太賀は婚約者に自分の存在を気づかれないように、一週間くらい自分の部屋でおとなしく過ごしていた。でも、夜中に突然襲ってきた強烈な空腹に耐えかねた太賀は、こっそりベッドを抜け出して食堂に向かった。食堂の電気を付けると誰かにバレそうで、太賀はスマホのライトだけを頼りに、食堂の中を漁った。まずは冷蔵庫だと思い扉に手を掛けた時、太賀は人の気配を感じ、全身に恐怖が走った。 「え? 誰?」  太賀は声を振り絞りながらそう問いかけた。 「ご、ごめんなさい!」  太賀はびくりと体を震わすと、恐る恐る声のする方へスマホのライトを向けた。そこには一人の女性が冷蔵庫のドアの前で体育座りをしながら何かを頬張っている。 「あ、あなたは……誰?」  太賀はドキドキと暴れる鼓動に耐えながら、目の前の女性にそう問いかけた。 「わ、私は要さんの婚約者です。す、すみません。お腹が空いてしまい……つい」  女性はどうやらバナナを頬張っていたらしく、恥ずかしそうに慌てて立ち上がった。 「あ、あの、これ、どこに捨てたらいいですか?」  女性はキョロキョロと辺りを見渡しながら、恐る恐る太賀に問いかける。 「ああ、あそこに生ごみ専用のごみ箱があります。俺が捨てますよ」  太賀は女性からバナナの皮を預かると、勝手知ったるとばかりに、生ゴミ入れのごみ箱にバナナの皮を放り込んだ。 「……あの、間違っていたら大変失礼なのですが、あなたはこの家の使用人の方ですか? とてもお詳しいので……」  女性は瞳をくるくると動かしながら、そう不安げに聞いてくる。 「俺は……」  太賀はその先の言葉に詰まり何も言えなくなった。まさか九条が不能で、そのために自分は利用されている存在だなんて、そんなこととても言えるわけがない。 「あ、あの、失礼なことを聞いてしまったのならすみません。わ、私お腹が空いてしまって……つい。こんなお恥ずかしい姿をお見せして恥ずかしいです」   女性はひどく落胆したように下を向きながらそう言った。 「あ、えーと、俺は使用人ではないです。その、うまく説明ができなくて……」  太賀は困惑した表情で女性にそう言った。女性は急にハッとしたような仕草で顔を上げると、太賀の顔をじっと見つめた。  改めて見た女性はとても美しかった。小顔を強調するように無造作に結い上げられた髪からの後れ毛が色っぽく艶やかだ。肌は透き通るように白く、瞳はまるで小動物のように丸く可憐で、思わず吸い込まれそうになる。 「あの、もしかしたらあなたは要さんの恋人ですか?……私は要さんの婚約者ですが、要さんとはまだ数回しかお会いしたことがなくて。ただ、あの方が同性愛者だということは存じ上げていましたから、もしやと思い……あ、私は島崎陶子(しまざきとうこ)と申します。勝手な憶測でこんなことを言ってすみません。もし違っていたら大変すみません」  陶子という女性は申し訳なさそうに頭を下げた。その仕草には本当に申し訳ないという素直な感情が滲み出ていて、彼女は自分が想像していた婚約者のイメージ通りで、とても品の良いお嬢様だと感じた。 「……要さんには、数週間このお屋敷で適当に過ごしていてくれと言われています。跡継ぎのお話も、俺が無かったことにするからって。私も親の決めた婚約者ということでしか要さんを存じ上げておらず、そう言っていただけて正直安堵しています……ただ、私たちはお互いの親を知っているので、そう簡単に上手くいくかという疑念が残りますが……」  陶子は不安げに瞳を震わせながら太賀にそう語った。太賀は九条が陶子に言った、跡継ぎの話は無しにするという言葉が引っかかった。九条と自分の契約は、親の決めた婚約者と体外受精で子供作るために、太賀のフェロモンを使って不能を治すことのはずだ。 「九条さんは、跡継ぎを作りたくないということなんでしょうか?」  太賀はそのことが気になって、少しだけ陶子に近づきそう問いかけた。陶子はそんな太賀の態度に驚いたのか、一瞬体を強張らせたように見えた。 「……え、ええ。そうです。詳しいお話は聞いていませんが、多分、そうだと思います」  そう言った後陶子は、今度は自分から僅かに太賀に近づいた。太賀はドキッとして体を一歩後ろに引こうとしたが、突然陶子に腕を掴まれる。 「……あなたは、もしかしてオメガですか?……そ、その、あなたからとても良い香りがします……私、こんな香りを嗅いだのは初めてで……な、なんだか胸がドキドキする……」  陶子は、さっきまでの品の良いお嬢様の顔から、突然艶めかしい顔へと変貌し、太賀はその急な変化に怖くなる。  その時、食堂の電気がパッとついた。太賀と陶子は、共に驚いて食堂内をキョロキョロと見渡す。 「……陶子さん……そいつから離れろ」  その聞き覚えのある低い声は、陶子を窘めるには十分な迫力が伴っている。太賀は陶子から素早く体を離すと、声のする方へ慌てて振り返った。  そこには、ワインレッド色のガウンを着た九条が、食堂の入り口のドアに凭れながら立っていた。 「く、九条さん……」  太賀は驚いて九条の名を呼んだ。 「か、要さん? どうしてここに?」  陶子は、九条に見つかったことに動揺しているような上ずった声を出した。  九条は陶子の問いかけに無視すると、こちらに向かってずかずかと近づいて来る。その間九条は、太賀を逃がさないよう縛り付けるような執着のある目で、じっと太賀を見つめてくる。 「来い!」  九条はいきなり太賀の手首を掴むと、強引に引っ張り歩き出した。 「え? ちょっ、九条さん……」  太賀は力では九条に到底適わないことを解っているから、無駄に抵抗することはしない。でも、握られた手首が余りに痛くて、それだけは気づいて欲しい。 「い、痛い……逃げないから、優しく掴んでください……」  太賀は顔を顰めながらそう九条に懇願した。  九条はハッとした顔をすると、手首を掴んでいる力を弱めた。 「ご、ごめんなさい! 私も部屋に戻ります。おやすみなさい。要さんと……えーと」 「……太賀です。吉村太賀……」 「……太賀さん。おやすみなさい……多分、お会いすることはもうないと思いますが、もしまたどこかでお会いできたら……」  陶子は丁寧に頭を下げると、太賀と九条を寂し気に見つめながら食堂を出て行った。

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