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第17話
今、自分は九条に手を引かれながら歩いている。このシチュエーションはもう何度目だろうと太賀は思う。自分は九条にどこに連れて行かれるのか。その場所に辿り着くまでの間、太賀はドキドキと心臓を鳴らし、更に、握られた手首から感じる鈍い痛みと熱が、じりじりと自分の胸を疼かせている。
「く、九条さん……怒ってますか?」
太賀は何となくそんな気がして問いかけた。九条は陶子といた自分にひどく苛立っているように感じたからだ。
九条は一瞬歩みを止めたが、何も言わずまた歩き出した。太賀はそんな九条の後姿を不安とともに見つめる。
九条は二階にある、太賀の部屋とは対極の東側に位置した部屋の前で立ち止まった。
「入れ」
九条はそう言ってドアを開けると、太賀の手を強引に引っ張った。
部屋の中に入ってすぐに目が行くのは、壁一面の大きさの、膨大な書籍が奇麗に並んだ本棚だった。多分ここは九条の部屋に違いない。本棚を背にして置かれたデスクは、まるでビジネスデスクのように広く機能的な感じを受ける。机の上には、大きなディスプレイとキーボードが置かれていて、いつでもここで仕事ができるような雰囲気を醸し出している。部屋の中央には一人で座るにはバカでかいソファーとテーブルが置かれていて、その先には、清潔感のあるキングサイズのベッドがあるぐらいだ。九条の部屋は、一人部屋ではあまりに広すぎるからか、殺風景でどことなく寂しげだった。
部屋に入るなり、九条はいつものように掴んでいた太賀の手首から手を離した。それは、
太賀が自分から逃げないと確信し安堵した証拠だ。
「……陶子はアルファだ……今のお前の状態で近づいたら危険だ」
九条はいきなりそう言うと、ソファーに向かい歩き出した。
「ああ、そうか、だから……」
太賀は、あの時急に様子が変わった陶子を思い出しながら納得する。九条家は代々アルファ同士が結婚するのだから陶子がアルファなのは当たり前という話だ。短い時間の間でも、陶子は美しく魅力的だと感じた。アルファという血はやはり、一般人とは隔絶された崇高な遺伝子なのだということを、太賀はまた改めて思い知らされる。
太賀も九条の後について行くと、九条はひどく疲れたようにソファーに勢いを付けて座った。気だるげにソファーに浅く腰かけたその姿は、普段の、非の打ち所の無い完璧な姿勢の九条とは違う。太賀はそんな九条の姿に戸惑いながらも、醸し出される豊潤な色気に胸の鼓動が早まる。
九条は自分の目を隠すように、左手の甲を目元に載せた。そんな九条の姿に太賀は目を奪われるように見つめてしまう。ソファーに座った時に乱れたガウンから、流れるような美しい首筋と鎖骨が、真っ直ぐ伸びる引き締まった脛が、太賀を刺激するように覗かせている。
九条は手の甲で隠した隙間から、瞳だけを動かし太賀に視線を向けると、『ここに座れ』と言い、自分の右側を叩いた。
「はい」
太賀は素直にそう返事をすると、九条の脇に座った。
「眩しい」
九条はそう言うと、ソファーの前に置かれたサイドテーブルから、リモコンらしき物を掴むとボタンを押し始めた。次の瞬間、部屋が一瞬真っ暗になったかと思うと、オレンジ色の間接照明が一つずつポンポンと灯され始める。
「うわっ、凄い」
太賀は驚いて、キョロキョロと部屋を見渡した。一瞬にして幻想的な世界に導かれたみたいな興奮を感じ、子どもみたいにはしゃぎそうになる。でも、隣の九条はそんなことなど全く興味のない態度で、未だに目元に置いた手をどけていない。
「陶子が言っていたことは事実だ」
九条は突然苦しげにそう言うと、目元から手をどかし、横を向いてまっすぐ太賀を見つめた。その目は強い憂いで覆われていて、太賀は思わず目を反らしてしまう。
「事実って……跡継ぎを作らないってことですか?」
「……そうだ」
太賀は気になっていたことを九条から聞かされ、意識を集中させようとソファーに座り直した。その時、九条がいきなり太賀の太腿に頭を載せて横になった。突然膝枕をさせられ、太賀の全身は硬直し、同時に、太腿に感じる、九条の頭から伝わる熱に軽い眩暈を覚えた。
「く、九条さん……ちょ、ちょっと」
太賀は慌てて立ち上がろうとするが、九条は太賀の腰を抱きしめるように掴み、それを拒んだ。
「動くな。このままでいてくれ」
九条は太賀の下腹部辺りに顔を埋めると、くぐもった声でそう言った。その声がとてもくすぐったくて、太賀は身を捩らせる。
「さっきは陶子に嫉妬して気がおかしくなりそうだった……お前がゲイだということも、発情期ではないということも分かってはいるが、オメガとアルファでは何が起きてもおかしくないからな……」
「九条さん……ちょっと……」
その体勢でしゃべらないで欲しい。口から洩れる熱とくすぐったさが、自分の中心にダイレクトに伝わってしまうからだ。
そのことに気づいたのか、九条は顔を天井に向けるように頭を置き直すと、また憂いのある瞳で太賀を見上げた。いつものような自信とカリスマを宿らせた瞳との違いに、太賀はさっきから戸惑いを隠せない。
「陶子さんは……俺になんか興味ないですよ。九条さんのような男を前にしたら、女性も、男性も皆虜になりますから」
「……呆れたな。前にも言ったが、太賀は自分のことを何も分かっていない」
九条は深い溜息を漏らすと、長い腕を伸ばして太賀の頬をそっと撫でた。その時、九条に触れられた瞬間、どうしようもないほどの強い感情が自分の内側から湧き上がった。太賀はこの感情が九条に対する恋情だと気づくと、もうその思いは誤魔化しようもないくらい溢れかえり、強く噎せ返りそうになる。
九条は太賀の頬を撫でた手をするりと移動させると、太賀のうなじの方に手を回し、そこに指を這わせた。
「ここから香る匂いが俺を狂わせる……太賀、お前は俺が今まで出会ってきたオメガと全く違う……」
九条はそう言うと、うなじに回した手に力を入れ、太賀の顔を自分の顔の方に引き寄せた。
「……じゃあ、何故……」
湧き上がる疑問を、太賀は心の中に押し留めることができず、思わず口に出してしまう。でも、その先の言葉は、九条を傷つけてしまうのを考慮しぐっと飲み込む。
九条は、太賀の言葉に僅かに眉間を震わせると、うなじに回した手に力を込めた。
「ああ。そうだ。何故だろう……でもそれは、多分、俺が一番良く分かっているんだ」
九条は太賀を真っ直ぐ見つめながらそう言った。こんな悲しげな九条の目を見るのは初めてで、太賀はその目につられるように、自分も悲しい気持ちになってしまう。
九条は太賀のうなじから手を離すと、太賀の太腿の上で、自分の腕を枕にするように頭の下で手を組んだ。
「俺は母親を知らない。生まれた時からいないからだ。母親は陶子と同じように俺を産むために俺の父親と結婚をした。でも、初めから父親を愛していない俺の母親は、俺を産んですぐに心の病を患った。そのせいで、俺を育てられなくなった母親は、俺を置いて九条家を出ていった。だから俺は母親の愛を知らずに育った。俺は母親というものがどういうものかを知らないし、想像しようとしても上手くできない……」
九条の話を聞き、太賀は強い驚きと憤りを覚えた。九条家が、そこまでして崇高な遺伝子を残すことに執着する意味が解らない。九条家は自分の子が母親の愛を知らずに育つことに何の疑問も抵抗もないのだろうか? いくら日本で有数な大企業を永続させるためとはいえ、これはさすがに常軌を逸している。
「……かわいそう。九条さん……あなたは本当に、母親のことを知らないんですか?」
太賀は強い怒りを滲ませながらそう尋ねた。
「……一度パーティーで見かけたことがある……奇麗な人だった。でも、それ一度きりだ」
九条は虚空を見つめながら、特に何の感情もない平坦な顔でそう言った。
「信じられない……俺、悲しくて泣きそうです。母親っていうのは、そりゃ色んな人がいるけど、殆どの人が、子どものためなら自分の命を犠牲にできるような人たちなんです。だから子どもは、その母親の強い愛に包まれながら、自分も強く生きようって思えるし、自分を大切にしようって思えるんです」
太賀は話しながら泣きそうになる。今、自分にも母親はいない。でも、自分は九条と違い、母親が生きている間、沢山愛情を貰って育つことができた。自分の心には、その愛が今でも強く刻まれている。でも、九条の心はまるで藁人形のように空っぽなのだとしたら。見た目や能力は恐ろしく優れていても、肝心の心は、生まれたばかりの赤ん坊のように脆く儚いのだとしたら……。
「……自分を大切にか。そんなこと一度も思ったことがない。ただ、これだけは言える。俺は自分と同じ目に自分の子どもを合わせたくない。父親は俺が小さい頃仕事でほとんど家に居なかった。俺は他人に育てられた。多分、自分も仕事が忙しすぎて、自分の子の面倒を見られないだろう。否、その前に、自分の子だという実感はないだろうし、我が子を育てる自信も、愛せる自信もない……。俺が怪我をして入院した時だ。もうすぐ退院だという俺の病室に父親は顔を出した。その時、言われたんだ。跡継ぎを産むために体を完全に治せと。医者は俺の性器は元に戻ると言っているからと。俺は父親の言葉に心底悲しくなったよ。多分、俺の性器が機能しないのは、俺の心が無意識に子どもを作りたくないと思っているからだ……俺のような犠牲者を作りたくない。もう俺で終わりにしたいって、そう強く思っているからだ……」
虚空を見つめる九条の目は、強く引き止めないと、どこか遠くへ行ってしまいそうなほど存在感のない目をしている。太賀はその目に不安を覚え、慌てて九条の頬を両手で強く挟んだ。
「ああ、そうです! ダメです! あなたはそれをするべきじゃない。あなたはちゃんと人を好きになって、その人と生きていくべきだ! それが自然の道理ってもんでしょ? それをねじ伏せられたら、誰だっておかしくなります!」
太賀は興奮を抑えきれず、そう一気にまくし立てた。言いながら太賀は泣いていた。自分の太腿に寝ころぶこの完璧な男が、本当は自分一人も愛せないほど傷ついていた事実に。
「俺のことなのに、泣いているのか?」
九条は太賀の手首を両手で掴んで引き寄せると、太賀の顔を覗き込むように見つめた。
「な、泣いてません……」
太賀は九条に顔を見られるのが嫌で、頭を左右に振ると、涙が九条の頬にぽつりと落ちた。九条は頬に落ちた涙を指で触ると、湿っている自分の指先を不思議そうに見つめる。
「太賀……」
九条は太賀の名を困惑した表情で呼ぶと、ゆっくりと起き上がり、太賀に背を向けて座った。
「……体外授精は、何も不能のままでもできる。今の医療なら精子を採取することに勃起の有無は関係ない……この話を聞いても、お前はまだ俺のために泣けるのか?」
九条はゆっくりと太賀に振り返ると、太賀を見つめながら自虐的な笑みを浮かべた。
「ええ。九条さんが何を望んで俺をここに連れて来たのか、今なら分かります。体外授精のために、俺を使って勃起不全を治すなんて口実、呆れますね。本当は俺と運命の番になりたいからでしょ?……九条さんは、愛が何かを知りたいんですよね?」
太賀は九条を見つめながらそうはっきりと言った。
「だから俺は、あなたの望みに応えたい……」
太賀はそう言うと、九条の腰に腕を回し背後から九条を強く抱きしめた。
「その前に、お父さんに伝えませんか? もうこんなことはやめましょうって。もし、やめるってなったら、九条さんはその呪縛から解き放たれる……」
九条は体を僅かに震わせると、腰に巻かれた太賀の手をそっと握った。握っている手も小刻みに震えていることに太賀は気づくと、更に力を込めて九条を抱きしめた。
「そうだ……俺ずっと気になってました。運命の番って、どうやって証明するんですか?」
太賀がそう言いかけた時、九条は勢いを付けて振り返ると、そのまま太賀をソファーに強く押し倒した。
「運命のアルファと番を結んだオメガは……その体質のすべてが運命のアルファの前でしか反応しなくなる。抑制剤が必要なくなるんだ……」
「え?……」
太賀は九条の言葉に驚き目を見開く。そんな話は初めて聞いた。でも、もしそれが事実なのだとしたら、こんな幸せなことはないと太賀はまた泣きそうになる。
「……太賀……どうした? もし、それが嫌なら、今すぐこの家から出て行っても構わない。俺が出した金も、気にすることはない……」
何も言い返さない太賀に、九条は苦しそうに顔を歪ませながらそう言った。ソファーに押さえつけられた手首は、やはり力の加減をいつも知らない九条らしく、じりじりとした痛みが伴う。
「……最初はそう思ってました。所詮ただのオメガに過ぎない俺には、九条さんの性器を蘇らせることなどできないって。だから、金だけもらったらすぐこの家を出て行こうって……でも、俺は発情期を知ってしまったんです……禁断の扉を開いてしまった。九条さんのせいです……責任取ってください」
そうだ。本当に最初はそう思っていた。でも、今自分は、この男とはっきりと繋がりたいと思っている。自分に染付いたオメガという遺伝子がこの男を強く求めているのが分かる。もし、自分がその欲望と恋を勘違いしているのだとしたらひどく滑稽だが、それは違う。絶対に違う。自分は九条を、心と体の両方で強く求めている。
「太賀……お前は……」
「勇気を出して。九条さん。この悪しき連鎖を、あなたの代で断ち切ってください」
その時、太賀は九条の力が緩んだことに気づいた。その隙に太賀は九条の手を解くと、九条の首に腕を回して抱きしめた。九条は太賀の体の上に覆い被さるように倒れ込むと、二人重なり合うように抱き合った。
「俺は九条さんに抱かれたいです……九条さんは? 俺と繋がりたいですか?」
太賀は九条の耳元にそう熱く囁いた。九条は驚いたように顔を上げ太賀を見つめると、さっきまでの憂いと悲しさでいっぱいだった九条の瞳に、僅かにそれを跳ね返すくらいの力が生まれたように感じた。
九条はそれが返事とばかりに、何も言わず太賀の顎を掴むと、ねっとりと舌の絡まる口づけを落とした。
「ふっ、んん……九条さん……」
太賀は九条の首に腕を回すと、九条からのキスを強く求めた。もっと欲しい。自分が自分でいられなくなるくらいのキスが欲しい。
太賀は自分の中心が僅かに熱を持つのが分かったが、わざとそこから意識を反らした。何故なら、自分のそれと触れ合っている九条のそれは、未だ何の兆しもなく静寂と共にそこに存在しているからだ。
(九条さん……俺が必ず……)
太賀は心の中でそう強く叫んだ……。
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