18 / 24
第18話
陶子が九条家にいる間は、太賀は自分の部屋に引きこもるようにいるしかなかった。その間は大学のリモート研究に没頭することができて良かったが、研究中はいつも九条のことばかり考えてしまい、奈緒に注意されることが多かった。その度に、研究に集中しようと自分の頬を叩いて気合を入れる姿が、奈緒には不思議に映るらしく、露骨に呆れた視線を向けてくる。
太賀は『寝不足なんだ』と嘘をつくと、勘のいい奈緒は「違うな。好きな人でもできたんじゃない?」と、ド直球な質問を投げかけてくるから、太賀は飲んでいたお茶を危うく吹き出しそうになった。
『そうだ』とここで奈緒に伝えるのはまだ早いと太賀は思ってしまう。九条を好きだという気持ちをもっと大切に考えたいと思っているからだ。自分はまだ九条のことを良く知らない。母親が生まれた頃からいないのと、脈々と続く、九条家という大企業の重圧から逃れることのできない運命を背負っている、アルファの中でも特別なアルファであることぐらいしか知らない。
九条は食べ物でも何でも、何が好きで、何が嫌いか。どんなことが楽しくて、何をつまらないと感じるか。そんな些細なことを知りたいと思う。そんなことから、九条が心の中に隠している魅力を引き出したいと思う。九条は多分、今まで誰かにそんな自分の素直な感情を見せたことはないはずだ。いつも九条家の跡取りとしてのカリスマな自分を演じ、周りを強く威圧しながら、冷酷な経営者として生きて来たはずだからだ。
奈緒はパソコンの画面越しにじっと太賀を見つめると、『なんか太賀少し変わった?』と手話で伝えてきた。『前よりも顔が明るい』とも。太賀は『そうかな?』と言って適当に誤魔化した。もしそうなのだとしたら、自分の中で何かが確実に変わっているのだろうと、太賀は納得する。それが太賀にとってとても前向きな変化なのだとしたら、九条も自分と一緒に前へ進んで欲しいと、太賀は心の中で強く願う。
でも、九条は本当に自分の父親に逆らうことができるのだろうか。会ったこともない人間のことを太賀は何一つ知らないが、あの九条が逆らえないくらいの人間がどれほどの人間かを太賀は全く想像することができない。九条の父親の代で、九条家の電気通信会社は更に業績を伸ばしているらしい。そんな男に九条は太刀打ちできるのだろうかと、太賀は急に不安になる。
(自分でそうしろって言ったくせに……言うだけは簡単だな……)
太賀は自虐的に自分を責めた。
気付くと、リモート研究の終わりが近づいていた。太賀は奈緒にさよならを言うと、パソコンの電源を切った。
次の日の朝、いつもの朝食の時間に九条に会うと、九条の表情は鬱屈とした雰囲気を伴わせていた。何か悪い知らせでもあったのかと容易に想像ができるその顔に、太賀の心も曇り始める。
近くにいた有川が何かを察したように九条に近づくと、『お茶のお替りはいかがですか?』と優しく声をかけた。九条は『いらない』と言うと素早く席を立った。
「陶子はあと数日家にいる約束だ。それまで面倒をよろしく頼む」
九条は有川にそう言うと、ジャケットに袖を通しながら食堂の出口へ向かおうとする。
「あ、待ってください」
太賀は慌ててそう言うと、九条の後を追いかけた。九条は立ち止まらず食堂の出口の扉に手をかけ、玄関に進もうとする。
太賀は自分を無視する九条に構わず声を掛け続けると、九条は諦めたように廊下で立ち止まり太賀に振り返った。
「……何だ?」
そうぶっきらぼうに言う九条の顔は、さっきよりも暗く、むしろ何の表情もなかった。この男の過去を知ってしまった自分には、これが九条の通常運転なのだと理解するが、あの時九条の部屋で話した時の九条は、まだ今よりも瞳に力があったはずだ。
「何かあったんですか?……その、元気がないように見えるから」
太賀は目の前の九条を観察しながらそう問いかけた。九条は廊下の床を見つめながら数秒間黙り込む。
「……明日の晩、父親が夕食の席に来る。陶子と俺の様子を伺いに……」
太賀は自分の背筋に、一瞬で鋭い緊張が走るのが分かった。ついに九条の父親に会うことになる。否、でも、自分がその夕食の席にいたらまずいのではないか。太賀は混乱する頭を落ち着かせようと、呼吸を素早く整える。
「……すまないが、太賀は席を外してほしい。俺と父親と陶子で話をつける。自分が不能なことも、ゲイであることも正直に打ち明けるつもりだ……」
九条は無表情のままそう言い募るが、とてもそれができるようには見えない。
「大丈夫ですか? 俺も一緒に説得しましょうか?」
太賀は自分にできることは何でもしたいと思いそう言ったが、九条は太賀の言葉を聞くと、瞬時に血相を変えた。
「それは駄目だ! この家には太賀はいないことになっている。絶対に父親に見つかってはならない! 太賀が俺の前からいなくなることが俺は一番怖い!」
九条は叫ぶようにそう言うと、太賀に近づき、太賀の頭を大きな手で抱え込むように強く抱きしめた。
「あの男に見つかったら、お前に何をするか分からない……太賀、絶対に自分の部屋から出るな! 俺と今すぐ約束しろ!」
九条は声を震わせながら太賀の耳元でそう叫んだ。その悲痛な声が自分の耳にダイレクトに届き、耳鳴りが響く。でも、太賀は嬉しさで胸が震えている自分に気づく。九条が、これほどまでに自分を必要と思ってくれていることに心から感動する。
「……分かりました。絶対に部屋から出ません。約束します」
太賀は九条を優しく抱きしめ返すと、そうはっきりと言った。
お互いにしばらく抱き合っていたが、太賀の言葉を聞いて安心したのか、九条の方がそっと体を離した。
「太賀……俺を信じろ」
九条は太賀の目を見つめると、そうはっきりと言った。その表情には僅かに力が戻っているように見える。多分、太賀を失うことが怖くて、そんな張りつめた表情をしていたのかと思うと、太賀はその切なさで、九条への恋情が加速度的に増してしまう。
(好きだ。俺はこの人が好きだ……)
太賀は九条の瞳を見つめ返しながら、心の中でその思いを自分の胸に強く刻んだ。
九条の父親との夕食の時間がそろそろ始まる。太賀はもちろん夕食に出席はしないが、九条が『俺を信じろ』と言ったその言葉を信じて、自室で読書をしながら気を紛らわしていた。
読書として選んだ研究論文はなかなか難しく、そのせいで、強い睡魔に襲われた太賀は、少しだけだと思い机に突っ伏した。
どのくらい転寝をしてしまっただろうか。太賀は目を覚ますとすぐに時計で時間を確認した。時刻は二十時を少し過ぎた頃だった。ちょうど夕食の時間が終わる頃合いだと思うと、太賀は九条と父親の話し合いが上手くいったかがとても気になった。でも、部屋を出て様子を伺うことができない太賀は、もどかしく待つしかない。
その時、窓の外から、怒鳴り合う声が太賀の耳に届いた。太賀はハッとして椅子から立ち上がると、思わず窓を開けて外の様子を伺ってしまう。
窓の外に視線を這わすと、黒いリムジンの前に、九条ともう一人の見知らぬ男の姿が太賀の目に留まった。しかし、次の瞬間、その男が太賀の存在に気づき、太賀をじっと見上げた。太賀はしまったと思い、慌ててカーテンの後ろに隠れたが、時すでに遅かったようだった。男は太賀の部屋の窓の方にわざと向かって、九条に『あの部屋にいる男は誰だ?』と問いかけている。九条は『新しい使用人です』と即答するが、『あの部屋はお前の母親が使っていた部屋だぞ? そんな部屋に何故使用人を住まわせるんだ?』と憮然とした態度で言い返す。
(ああ、まずい!)
太賀はどうすればいいか頭を働かせる。でも、ここでじっとしているのはどこか間違っているように感じた太賀は、思い切って窓から顔を出した。
「は、はじめまして。こんな上から失礼します! 俺は吉村太賀と申します。お初にお目にかかります!」
太賀は大きな声を張り上げて自己紹介をした。
「今、下に下ります。待っていてください!」
太賀は堂々とそう言うと、九条の様子を素早く伺った。九条は真っ青な顔で茫然と太賀を見上げている。
太賀は急いで部屋を出ると、階段を駆け下り玄関のドアを開けた。そこには九条と、九条の父親だと思われる男と、狼狽した有川が、ただならぬ緊張感を伴わせながら立っている。
「す、すみません。お待たせしました」
太賀は息を切らしながら、九条の父親だと思われる男の前まで近づいた。近くで見るとその男は、紛れもなく九条の父親だと気づかされる。これほど似ている親子がいるだろうか。九条をそのまま年を取らせたような渋みの増したその容貌は、九条以上に迫力があり、強いオーラを纏っている。身長は九条の方が僅かに高いが、贅肉の全くない引き締まった体躯は、その辺の同年齢の人間に比べたら、確実に十歳は若く見える。ただ、目だけが違う。まるで鋭利な刃物のような鋭さがその瞳に潜んでいる。それだけが普通の人間とは明らかに違う。太賀はその男と目が合うと、背中がヒヤリと冷たくなる感覚を味わった。
「要。これは一体どういうことだ? 早く説明しろ」
九条の父親は、地に響くようなドスの効いた声でそう言った。
「……か、彼は……」
九条は太賀のことをどう説明するか瞬時に答えを出せず口ごもる。でも、大きな溜息を一つ吐くと、意を決したように太賀に近づき、太賀の肩を強く抱いた。
「彼は、オメガです。俺の……大切な人です」
九条はそう言うと、一瞬だけ太賀を見つめた。太賀は九条と目が合った瞬間、九条からの言葉に喜びで胸がいっぱいになる。
「……要、お前は自分の言っている意味が分かっているのか?……今すぐその汚らわしいオメガをここから追い出せ!」
九条の父親は鋭い目つきで太賀を睨むと、吐き捨てるようにそう言った。太賀はその目つきに今度は胸が竦み上がる。
「それはもちろん分かっています……先ほども同じことを言いましたが、もうこの俺でこんなことは止めませんか? あなただって本当は運命の番と結ばれたいと思ったことがあるはずだ。俺はあなたのようにはなりたくない。俺はこの彼と、運命の番になるつもりです」
九条は太賀の肩を抱く手にぎゅっと力を入れながらそう言った。太賀は九条の手から伝わる温もりに、自分にも徐々に勇気が湧いてくるのが分かる。
「そうです。絶対にやめるべきです。九条さんは被害者です。母親の愛を知らないで育つ苦しみを、あなたはどうして自分の子どもに与えられるんですか?」
太賀は我慢できず、九条の父親に向かってそう言った。その時、『やめろ』と言いうように。九条が太賀の肩から手を放し、太賀を守るように自分の後ろに追いやった。
「はっ、そのオメガは随分と私たちのプライバシーに言及してくるな。要、お前はこんなどこの馬の骨ともわからない卑しい奴に、一体どこまで話をしたんだ? お前は本当に九条家の恥だな。同性愛者で不能など、そんな出来損ないの人間は、今の今まで九条家には存在しなかったぞ!」
九条の父親は顔を真っ赤にさせながら激高する。その姿はまるで仁王像のように迫力がある。その相手を傷つけることに何の躊躇いもない冷酷な態度に、太賀の心は凍りつきそうになる。
「俺のことはいくら侮辱しても構いません。でも、太賀のことを侮辱するのは、俺が絶対に許さない……」
九条は数歩前に出ると、今すぐにでも父親を殴りそうな勢いで、右手の拳をわなわなと震わせた。
「はっ、要。そんなことをしたらどうなるか分かっているのか? そのお前の大事なオメガの人生を潰すことなど、私には朝飯前なんだぞ?」
九条の父親は、権力を振り翳す人間特有の傲慢な笑みを浮かべながらそう言った。
「あなたは! どうして分かってくれないですか? こんなことに何の意味があるというんですか? 自分だって意味がないと、本当は分かっているんじゃないですか?」
九条はもう一歩九条の父親に近づくと、今度は本当に父親に殴りかかりそうな勢いで、僅かに拳を突き上げた。
九条の父親は、自分を今すぐにでも殴りかかろうとする息子に表情を強張らせる。それはまるで、想定外の出来事に出くわした人間の、新鮮な驚きの表情にも似ていると太賀は思った。
「……だとしたら、お前に何ができると言うんだ? お前のような奴が、私を納得させるようなことができるのか? 私たちの先祖がここまで積み上げてきた九条家の栄華を、お前はどうやって永続していくつもりだ?」
九条の父親は九条の迫力に負けず一歩前に出るとそう言った。二人は、更に距離が近づいても目を離さず対峙している。
「もし彼と運命の番になれたら、その子が望むのであれば、俺は迷わず彼との子を自分の跡取りにしたい。例えその子がオメガでも、俺は一向に構わない!」
九条は少し冷静さを取り戻すと、そうはっきりと言った。太賀は九条の言葉に驚き、九条を必死に見つめた。
(九条さん……あなたは本当にそれでいいんですか?)
太賀の中に、九条に強く愛されている喜びと、それに付随する先の見えない不安という感情がどろどろと混ざり合う。
「お、お前はついに頭までイカれたのか?」
九条の父親は、呆れたと言わんばかりに口をあんぐりと開けた。
「俺と太賀は運命の番になれる可能性を秘めています。いずれ俺の不能は治り、太賀との間に子を持つことが可能になります。その子はオメガかもしれないし、アルファかもしれない。でもそれは神のみぞ知ります……俺は、俺の代から、この家の選民的な思想を変えたいんです!」
九条の言葉に、九条の父親は僅かに目を見張りながら何故か太賀に目を遣った。その目は変わらず蛇のような鋭さを伴わせているが、太賀という存在を改めて認識したみたいにじっと見つめ続ける。
「ふっ、くだらない話は終わりだ。お前のそんな話に俺が納得するとでも思うのか? 俺の考えは変わらない。もはやどんな形でもいいから、今年中に許嫁と子供を作れ。男子だ。男子が生まれるまでだ。解ったな?」
九条の父親はもう聞き耳を持たないというように九条に背を向けると、止まっているリムジンに乗り込もうとする。
「待ってください! 俺は知っています。調べたんです。あなたは俺の母親と別れた後、他に好きだったオメガの女性とずっと付き合っていることを。あなたは俺と母親を平気で不幸にしておきながら、平然とその女性を愛し続けている! でも、もういいんです。俺は既にそれを恨んではいません。ただ、どうか俺に時間をください。俺と太賀が運命の番だと証明する時間を……どうか俺たちに与えてください!」
九条はそう言うと、いきなり地べたに膝を付き、額が地面に付くほどの深い土下座をしてみせた。
「く、九条さん!」
太賀と有川が同時にそう叫び、九条に土下座を止めさせようと手を伸ばすと、『触るな!』と九条に一括されてしまう。
九条の父親は九条に振り返ると、そんな息子の姿を冷ややかな目で見つめた。でも、その目には、息子のまさかの言動に対する動揺が僅かに垣間見えている。
「……土下座など、九条家の人間がするものではない……要、頭を上げろ」
「嫌です! 解ったと言ってもらえるまでは、いつまでも続けます!」
太賀は九条の強い思いになすすべもなく突っ立っていることしかできない。でも、そんな自分が情けなくて、太賀も九条と同じように地べたに膝を付けると、自分も地面に額を強く押し付けた。
「……俺からもお願いします! 俺が九条家に相応しい人間なんてこれっぽっちも思っていません。ただ、九条さんが好きだからです! 九条家とか全然関係ないです! 九条要という人を好きになってしまったから、俺は要さんのために土下座をしてるんです!」
二人の男から土下座をさせられ、さすがの九条の父親も深い溜息を漏らすのが分かる。まさかの有川までもが土下座をしようとしているところに、九条の父親は鬱陶しそうに制止のポーズを取った。
「やめろ、やめてくれ……三か月だ。それ以上は待たない。副社長のお前を海外支店に駐在させる予定があるからだ。そこでさらに事業を拡大してもらう。お前は会社のための犬になるんだ。だからもし三か月の間に不能が治らなかったら、私の決めた許嫁との間に、どんな手を使ってでも子ども作らせる。でも、もしその運命の番とやらの力でお前の不能が治り、例えその男が子どもを産んだとしても、生まれた子がアルファでなければ、俺は絶対に跡取りとして認めない」
九条を見下ろしながら、九条の父親は顔色一つ変えず淀みなくそう言い切る。
「……分かりました。俺たちにチャンスを与えてくれて、心から感謝します……ただ俺は、あなたが認めようが認めまいが、そんなことは本当にどうでもいいんです。ただ言いたいのは、俺と太賀は、あなたのような真似だけは絶対にしないということだけです」
九条は地面の上で拳を作りながら、強く決心するようにそう言った。
「ははっ……要。そんな流暢なことが言えるのは、今だけだぞ?」
九条の父親は、自分の息子の言葉に愉快そうに笑うと、地べたに膝を付く二人の男の前を颯爽と通り、リムジンに乗り込んだ。
ともだちにシェアしよう!

