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第21話
四度目の発情期が訪れる予定の1週間ぐらい前になると、太賀の心は益々不安定になった。これが最後のチャンスだと思うと、もしまた九条に何の変化もなかったらという焦りと不安で、心がどんどんスライムみたいにドロドロになってしまう。
自分たちはこれほどお互いに繋がることを望んでいるのに、それが叶わないのは、やっぱり運命の相手じゃないと神様に見放されているからかもしれない。よく考えたら分かることだ。自分と九条は住む世界が違い過ぎる。九条は選ばれしアルファで、由緒ある九条家の血を引いた正当な後継者だ。でも自分は、親も金もない貧乏学生なのに、更にオメガであるというハンデを持ったただの一般人だ。そんな二人が釣り合うことなど初めからあるわけがなかったのに。何故そんな簡単なことに今頃気づくのか。
(そうだよ……何故気づかなかったんだ……)
太賀はもうずっとそんな考えに捕らわれていて、そのネガティブな感情は、まるで洗濯機のようにぐるぐると太賀の頭の中で回り続けている。
(もう無理なんだよ。早くこの家を出て行かなきゃ……九条さんだって、きっと辛いだけだ……)
太賀は突然そう思い立つと、ロッカーからスーツケースを取り出して、そこに乱暴に自分の私物を詰め込んでいく。パソコンやその周辺機器。洋服や靴や洗面道具。読みかけの本や筆記用具など、自分が九条の家に来た時に持ってきた物すべてを、スーツケースに乱雑に詰め込む。
太賀は作業を続けていると、大声で泣いてしまいたい感情が込みあがってきて、それをぐっと喉元辺りで堰き止めた。
自分が泣きそうになっている意味は、九条を信じることができず、諦めてここから逃げようとしている自分が情けないからか? 本当の愛を知りたいという九条が、どうして自分を抱けないのか、その気持ちは嘘ではないのかという疑念に、心が壊れそうだからか?
そのどちらもだと思うと、太賀は我慢できず嗚咽を漏らした。堰き止めていた感情が今ここで洪水のように溢れ出てくる。
太賀は自分の私物に落ちる涙に気づき、慌ててスーツケースを二つに畳んだ。
(明日の夜出て行こう……)
太賀はどこか遠くに行ってしまいそうな意識を必死に繋ぎ止めながら、そうぼんやりと呟いた。
黙って出て行くことは太賀の道義に反した。だから最初に有川に挨拶をしようと、彼の部屋を訪れた。時刻は二十時を過ぎていて、有川は部屋のドアを開けると、急に自分の部屋に尋ねて来た太賀に驚いていた。でも、太賀の様子を一目見た時、一瞬で太賀の心を理解するように、苦しげな表情を見せる。
「その後ろにあるものは何ですか?」
有川はすぐ太賀の背後にあるスーツケースに気づいた。
「あ、えーとこれは……」
太賀は力なくそう言うと、有川を見つめぎこちない笑顔を作った。
「俺……もう限界なんだと思います。あの人を信じたいけど、無理なんです」
有川は九条の言葉に瞳を大きくすると、心の底からの重たい溜息を吐いた。
「要様は、大賀様が出て行くことを知っているのですか?」
有川は瞳に力を入れると、太賀を真っ直ぐ見つめそう言った。
「……いいえ。まずお世話になった有川さんに先に、挨拶に来ました」
「はあ……私は言いましたよね? お二人は絶対に運命の番になられる方たちだって」
有川はまた一つ大きな溜息を零しながら太賀にそう言った。
「ええ。でも、違ったみたいです。有川さんの見立ては当てにならなかったということです」
太賀の言葉に有川は脱力したように項垂れてしまう。その様子に太賀は慌ててこう言った。
「ごめんなさい! 有川さんが悪いんじゃなくて、俺です! 俺がダメなんです! 俺が弱い人間なんです!」
太賀は自分が悪いと言うことしかできなくて、その思いが伝わるよう、項垂れる有川の肩を必死に揺さぶった。
「太賀さまが出て行くと知ったら……要様はどうなってしまうんでしょう。私はそれが怖いです! 太賀様! まだチャンスはおありなのでしょう? なら、諦めることはありません!」
有川はがばっと顔を上げると、太賀に縋るように両腕を強く掴んだ。
「有川さん……俺疲れました。発情期って多分体験しないと分からないと思いますが、ちゃんと相手と繋がって満たしてもらわないと、本当に気が狂いそうになるんです……俺もう、二度とそれを経験したくない……」
有川は太賀の言葉にハッとした表情をすると、太賀の腕からそっと手を離した。
「太賀様……勝手なことを言ってしまい、申し訳ありませんでした……」
有川は太賀を見つめ絞り出すようにそう言った。その顔がとても悲しそうだったから、太賀の胸は鷲摑みにされたみたいにぎりぎりと痛んだ。
「いいえ……今まで優しく接してくれてありがとうございました。俺、有川さんのこと大好きです」
太賀はそう言うと、自分よりも背丈の大きい有川をふわっと包み込むように抱きしめた。その時、有川が何かに反応するように、びくっと体を硬直させた。
「……これなんですね。匂い……これが太賀様の、フェロモンなんですね」
「え?」
太賀は驚いて顔を上げると、有川は恍惚とした表情を浮かべながら太賀を見つめている。
「……ありがとうございます。この感覚、一生忘れません」
太賀からそっと離れると、有川は深々と大賀に一礼をする。
「そのお体で1人で帰るのは危険です。今からリムジンを用意します……大賀様。また必ずお会いしましょう」
有川は、力強くそう言うと、静かにドアを閉めた。
太賀はしばらく有川の部屋の前から動けなかった。そこでどのくらいそうしていただろう。ゆっくりとスーツケースを引きずりながら、太賀は九条の部屋に向かった。でも、九条の部屋のドアを叩いても、中からは何の応答もなかった。まさか、まだ仕事から帰ってないのかもしれない。だとしたら、太賀はもうこのまま何も言わずに、九条から姿を消してしまおうかと思った。その方が、余計なことを言って九条を傷つけることもないと。でも、それはあまりにも身勝手で自己中心的だと思い、玄関で九条が帰るのを待つことにした。
太賀は、とぼとぼと玄関までスーツケースを引きながら歩いた。玄関へ下るあの大きな階段まで来ると、太賀は初めて九条の素顔を見た時を思い出した。仮面を付けていた時も、きっともの凄い美形なのだろうと想像はしていた。でも、実際素顔を目の当たりにした時のあの鮮烈な印象は、多分太賀の記憶から一生消えることはないだろう。
そんなことを思い出しながら、太賀は重たいスーツケースを持ち上げながら階段を下りた。
階段のちょうど真ん中まで来た時、玄関のドアが開く音がした。太賀は慌ててそこに視線を移すと、帰宅したばかりの九条と目が合った。
「あ……」
太賀は電池の切れたおもちゃのように階段の途中で固まってしまう。
九条は太賀の存在に気づくと、目を細めながら太賀を見つめた。
「何をしている?」
九条は階段の途中でスーツケースを持っている太賀に、低い声で問いかけた。
「九条さん俺……この家から出て行こうと思います」
その言葉をスイッチに、太賀は固まった体を動かして、スーツケースを持ち上げながら一歩ずつ階段を下りた。広い玄関の床まで来ると、太賀と九条は向かい合って佇む。
九条は能面のような顔で、太賀をただ見つめていた。その感情の読み取れない表情の裏には、一体どんな思いが隠されているかを太賀は想像する。多分きっと、最後まで自分を信じてくれなかった太賀に対する激しい怒りかもしれないし、太賀を満たせなかった自分に対する不甲斐なさかもしれない。そう。自分たちはどちらも悪くない。ただ、自分たち二人は、運命の相手じゃなかったというだけの話。
「……ごめんなさい。九条さん。俺もう限界なんです。あなたを好きだから。余計耐えられないんです。あなたと繋がりたいのに、それが叶わないことが、死ぬほど苦しいんです……」
九条は自分を見上げて言う太賀を、瞳を僅かに揺らしながら見つめた。その目は多分、自分が今まで見てきた九条の瞳の中で一番悲しそうだった。
「……あいつの所へ行くのか?」
「え?」
太賀は、九条が何を言っているのか一瞬分からなかった。でもその後すぐ、多分快斗のことを言っているのだと気づく。
「あいつって、もしかして、一緒にアルバイトをしていた彼のことを言っていますか?」
「そうだ……」
そう答える九条に、太賀は何故いきなり快斗が出てくるかと不思議に思った。
「どうして快斗が出てくるんですか?」
「三日前、偶然二人でいるところを見かけた……」
(え? あの時、九条さんは俺たちを見ていたのか?!)
太賀は驚いて目を見開くと、九条はそんな太賀を、元から感情などなかったロボットのような顔で見つめている。太賀は感情を全く閉ざしてしまったような九条に焦り、慌ててスーツケースを放り投げると、九条の手を強く掴んだ。
「彼の所には行きません! 彼に好きだと言われたけど、俺は九条さんが好きです! だから怖いんです! 俺は次の発情期から逃げたい……あなたが俺を愛していると言った言葉忘れていません。ただ、俺は弱くて……ダメな奴で……本当に、本当にごめんなさい!」
その時、九条は太賀から手を解くと、今までで一番甘く太賀を抱きしめた。その抱きしめ方は、太賀のすべてを包み込もうとする優しさに満ちていて、それが余計太賀を苦しくさせる。
「太賀はダメな奴ではない。ダメなのは、こんなに太賀を苦しませている俺の方だ。すまない太賀……出て行くなとは言わない。でも、微かな希望があるなら、最後のチャンスを俺にくれないか?」
九条はさっきまでの能面のような顔が、別人のように悲痛に歪んでいた。それは、美しく完璧な九条が、僅かに人間らしい表情を噴出させているようにも見える。だから余計太賀は九条から出た言葉が針のように胸に刺さった。
多分、今自分は、もうすぐ来る発情期を前にしてかなり心が不安定になっているのだろう。だからこんなにも冷静に物事を考えることができないのかもしれない。そしてそんな自分を、全く客観視することすらできていない。
「……く、九条さん……ご、ごめんさない。無理なんです……俺、俺っ……」
太賀は九条を突き飛ばすと、スーツケースを掴み、玄関から外に飛び出した……。
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