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第8話

それだけならまだ良かった。だが彼の手に力が込められたことが分かり、全身の血の気が引く。 「っ!?」 減速していたから良かったものの、わずかに左にとられそうになる。それと同時に次の路肩が現れた為、慎重に入ってギアを変えた。 「け、景さん。すぐに停まらなかったことは本当に申し訳ないんですけど、今のは危な……って、わわっ!」 まだ話してる最中に、こちらに向かって手を伸ばされる。最悪殴られると思い、身を引いて瞼を瞑った。 ところが衝撃が訪れることはなく、カチンという金属音が鳴るだけだった。 「……っ?」 見ると、シートベルトを外されていた。彼も自身のシートベルトを外し、重低音が効いた声を紡ぐ。 「降りろ」 「承知しました!」 やばい。 これは絶対怒らせた。慌てて降りて、彼が乗るまで運転席のドアを押さえる。 ここに置き去りにされる可能性も考えたものの、運転席に座った彼は助手席を親指で指し示した。早く乗れ、ということらしい。 「ごめんなさい……景さん」 ドアを閉め、前で手を組む。何故あんなにも意地になったのか自分でもよく分からなくて、戸惑っていた。 だか何にせよ、意固地になって景を危険に晒したことは事実だ。何も起きなかったから良かったものの、謝って済む話ではない。 しかし景は落ち着き払った様子でルームランプを点けた。 「俺が悪い」 「え?」 「この山に入る前、妙な感じがした。さっさと運転を代わるべきだった」 彼は窓際に肘を掛け、頬杖をつく。 「俺達が捜してるのとは全然関係ない……むしろ逆の類に囲まれてる。さっさと下るぞ」 エンジンを掛け直し、道に戻る。どうやらこの山には、精神的に訴えかけてくる異質なものが蠢いてるらしい。 自分は感情的になっただけだが、景は至って冷静だ。 「はあぁ……本当にごめんなさい」 「いや」 景さんはすごいな。 自分は影響を受けてしまった。彼がいなかったら、ひとりで事故っていたかもしれない。 密かに胸を撫で下ろすと、彼はフッと笑った。 「まだ死にたくないだろ」 「え、えぇ……」 改めてヒヤッとし、背筋を伸ばす。 「でも、自分のことはどうでもいいです。景さんになにかあったら……そっちの方が怖い。償いようがないですもん」 考えたら胃が痛くなって、腹を押さえた。今この世で一番大切なのは、自分ではなく彼だ。そう思っていたのだが、存外素っ気なく返された。 「俺は死ぬのは怖くない。二回目だし、それに」 下りだというのに、彼はスピードを出した。 「お前とならいつどこで死んだって構わない」 「な……っ」 雨の坂道の怖さはよく分かってると思うが、例えようのない浮遊感に襲われ、痛いほど手に力が入る。 彼はこちらを一瞬だけ見返した。 「連れ去るって意味、やっと分かった?」 「あ。あの世に、ってことですか?」 「……あの時はそういう意味じゃなかったけど」 軽く笑う彼の横顔を見て、何故かホッとする。 俺も大概頭がおかしい。こんな状況でも、まるで恐怖を感じないのだから。 木々に囲まれた暗い坂を抜け、平坦な道に出る。その瞬間、胸の中に巣食っていた暗い霧が晴れた気がした。 「前提として、俺はお前がいなかったらここにいない。だからお前に命を預けることには何の抵抗もない」 「そ、それとこれとは話が違いますよ! 景さんの命は、景さんだけのものです」 田園風景と民家が見えてきた。薄暗かった空もわずかに晴れ間が出てきている。 「俺は貴方に逢えて本当に嬉しかった。だからお願いします。何よりも自分の命を大事にしてください」 絶望のどん底にいても、生きていれば何とかなることも多い。 だが命がなければ、全てが無に帰すのだ。それまで耐え抜いた努力も、軌跡も全て。……誰にも知られぬまま消滅する。 それはあまりに哀しい。 自分達は長い時を経て生まれ変わることができたが、こんなこと普通は有り得ない。有り得ないことが重なっただけだ。 「んぐっ」 上着の裾を握り締めたまま見つめていると、彼は前を見たまま俺の頬をてのひらでギュッと押してきた。 「……ルートを変えるぞ。山はしばらく走らない」 「り、了解しました」 感情的にはならないが、感傷的にはなったんだろうか。 話題をすり替えた彼の左耳は、ほんのわずかに色付いていた。

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