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第53話
東京へ戻る途中、都築は昔のことを思い出していた。
霧に包まれ、景色は霞んでいる。鈍色の岩を裸足で歩く。自分が今いる場所も分からないが、滝の音だけは鮮明に聞こえた。
前世の俺は、夜更けに滝の傍で置き去りにされた。両親の最後の情けなのか、去り際に縄は解いてくれた。後は崖から飛び込むだけ……。
だが見下ろす滝面の中で、大きな何かが動いた。
滝の中にいる生き物なんて聞いたことがない。ましてや、滝と同じぐらい巨大な生き物なんて。
驚いて腰を抜かした俺に、滝の中の影は語りかけた。
人間が滝を汚すことは許さない、と。
つまり、飛び込んで人間の死体が浮かび上がることはご法度なのだと分かった。
『では……どうすれば雨を降らしてくださいますか? 私は村の為に、この身を龍神様に捧げるよう言われて参りました。村は酷い干ばつが続いています。このまま帰るわけにはいかないんです』
もし自分が生きて帰ったら、村人達から制裁を受けるだろう。父は喜ぶどころか、村の仕来りを破った息子を最期まで憎むはずだ。
必死の思いで地に額をつけると、強風が吹いて周りの木々が揺れた。
───相変わらず、身勝手で傲慢な。
お前のような子どもひとりを寄越して雨を乞うとは。
影の主は轟音を上げながら唸った。風の音に近いその声は、上から下からこだまする。
改めて、自分が未知の人外と対面してることへの恐怖に震えた。
龍神を怒らせたら、どんな殺され方をするか分からない。深い水底に沈められるのか、大きな爪で八つ裂きにされるのか……。
滝に身投げするつもりだったから、どの道死ぬことにはなるけど、せめて楽に逝きたい。そう乞うと、影は滝壺へ緩やかに降り、滝面を二つに割った。
落ちないよう、岩を掴みながら慎重に下を覗く。すると、滝の裏側に奥へと続く洞穴があることに気付いた。
……ちょうどいい、と声はどこか楽しげに言った。
村に戻ることもない。私を祀るなら、祠のひとつぐらい用意してみろ、と。
そこにいた龍神は、俺や村の人が想像してるよりずっと朗らかで、おおらかな方だった。
村に帰れない俺に山の中で生き抜く術を教えてくれた。冬の越し方、食材となるもの、危険な生き物がいる場所……。
ただの人間の俺を傍においてくれた。
同じ人間の中で起きる争いを厭い、気ままに暮らせばいいと説いてくれた。
滝へ連れていかれる前夜には思いもしなかったことだ。
あの夜は朝までひとりで泣いた。
死ぬのが怖かったんじゃない。誰かを犠牲にすることだけを考える、人間が怖かったんだ。
「懐かしいな……」
深夜の道は空いていて、信号に捕まることも少なかった。
景さんは珍しく深い眠りに入っている。とりあえず運転手としての役割を果たせたことに安堵し、暖房を少しだけ上げた。
いつも気を張ってる感じするから、これからはもっとゆるく行動してもいいかもしれない。
無事に景さんのマンションに到着し、駐車場へ入った。
エンジンを止め、彼の肩を優しく揺する。
「景さん、着きましたよ」
「ん……」
彼は瞼を擦り、何度かまばたきした。
「おはようございます」
「ああ。お疲れ」
彼はあくびしてシートベルトを外した。
「泊まってくだろ?」
起き抜けから、彼は当然と言うように視線を向ける。
「いや~……毎回毎回お邪魔するわけには」
「どのみち終電ないから、泊まるしかないだろ」
「タ、タクシーあるから大丈夫ですよ」
「都築」
ドアを開け、景さんはこちらを指さした。
「もしかしたら、今この瞬間も主が見てるかもしれないだろ? 俺達の絆を見せないと」
そう言い残すと、彼は車を降りた。俺も一応降りて、彼にキーを手渡す。
……ツッコむタイミングを逃してしまったけど、景さんって、寝起きはテンション高いのかな?
「確かに主様は、俺達が仲良く暮らしてると知ったら喜んでくれそうです」
「そうだろ」
景さんは俺の手を引きながら、エレベーターのボタンを押した。階数のパネルを見ながら、静かに呟く。
「大丈夫だよ。絶対にいるから」
誰が、とは言わない。
でもその言葉を聞いただけで、胸の中が熱くなった。
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