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第57話

わざとおどけて言うと、彼は相好を崩して鞄を置いた。 「じゃあ、この部屋でお世話になろうか」 「了解ですっ」 網戸を閉め、風が入るように窓を開ける。 部屋に置いてるものは学生の頃のままで、ちょっと気恥ずかしかった。 「明るくて優しそうなおふくろさんだ」 「そうですね。俺にはもったいないぐらいです」 彼に椅子を示して、自分は学習机の椅子に座った。 「命の心配も、お金の心配もない。こんなに幸せな家に生まれさせてもらったのに、何やってんだろ。って思うことがたくさんあった」 「……都築」 景さんは複雑そうに呟いた後、腰を上げて俺の前に佇んだ。 「生まれ変わったことに罪悪感を覚えてるなら、それは大間違いだ」 前髪を優しく持ち上げられ、顔を上げる。 「俺が証明してやる。こうして巡り会えただけで、お前は充分立派なんだって」 「景さん……」 濁った泉に、あたたかい光が射し込む。 こんなにも嬉しいことを言って、どうしようもない心を救ってくれるのは、世界で彼だけだ。 「好きです。景さん」 「知ってる」 目を合わせ、二人で笑う。白い球が橙から青に変わるまで、俺達は互いの手を繋いでいた。 夕食は母が腕をふるい、お祝い事の日のように豪勢な献立だった。 「さあ、食べて食べて。地味なご飯で申し訳ないけど」 「すごい。こんなにたくさんの山菜、食べられるお店はあまりありませんよ」 景さんが笑いかけると、母は尚さら気を良くし、瓶ビールを開けた。 「母さん、父さんに声掛けようか?」 「あ、そうそう! 多分お部屋で食べるから、都築ご飯持って行ってあげて」 「そんなに動けない状態なの? やばいな……」 久しぶりに顔を合わせるから色々緊張するけど、お盆を持って奥の居間へ向かった。 昔はよくここで稽古されたっけ。辛いこともたくさんあったけど、……昔を思えば耐えられた。 結局、死を目前にするより辛いことはない。足を止め、縁側から声を掛ける。 「父さん。俺……都築。……ただいま」 物音は聞こえたけど、返事がない。しかしお盆は部屋に置きたいので、襖に手をかけた。 「勝手に入りますよぅ……」 開けると、以前より少し痩けた父が、ベッドの上にいた。てっきり横になってるかと思ったけど、端座位をとって本を読んでいた。 「腰、大丈夫? 母さんが、その……心配してたから」 帰ってきた、と告げて卓にお盆を置いた。 自分も心配した、とは、恥ずかしくて言えなかった。父からすれば家を飛び出した息子だ。ふらふらしてるように見えて、言いたいことはたくさんあるだろう。 今さら帰ってきたのか……と言われるかもしれない。 でも、父は何も言わずに湯呑みをとり、お茶を飲んだ。 「向こうが騒がしいが、友人を連れて来たのか」 「あっ、うん。紹介したいから、後でここに連れてきてもいいかな?」 「いい。私から行く」 「歩けるの?」 「もうほとんど痛みはない」 聞けば、雨漏りしていた屋根を見ようと梯子を運ぶ際にやってしまったようだ。保険に未加入だったから費用が掛かるのが嫌だったみたいだけど、次からは見る前に業者に頼むと言って、父は腕を組んだ。 今回のことはともかく。今までできてたことも、これからはできなくなっていくだろう。 人は老いて、弱っていく。“今”が永遠に続くことはない。 当たり前過ぎて忘れがちなことだ。だからこそ、後悔したくない。 「屋根の補修はできないけど、物の移動とか庭の手入れとか、できることは俺が全部やる。迷惑じゃなければ、前より帰るようにするから……無理しないで」 俯き、か細い声で零した。 拒絶されることが怖くて、目を合わせることはできなかったけど。父は仏頂面をやめ、驚いたようにこちらを向いた。 「お前、前は米十キロ持つだけでもピーピー泣いてただろ」 「それすごく小さい時の話……!」 さすがに物申したくて、火照る顔を隠しながら答えた。 「力仕事も大丈夫だよ。東京に行ってから、応募できるものなら何でもやったんだ。工場も配達も引っ越し業者のバイトも。フォークリフトだって乗るし」 「驚いたな」 父は顎に手を当て、かすかに口元に笑みをたたえた。 「……今は楽しいか?」 卓上のスモールライトが、頼りない明かりを灯している。 俺はそれを見て、再び父に視線を戻した。 「楽しいよ」 「そうか」 湯呑みを置き、父は腰を上げた。慌てて彼の体を支え、一緒に歩く。 「逞しくなったじゃないか。……楽器しか触ってなかった手が」 昔より幾分細く、皺ができた手に包まれる。 うん、と短く答えて、縁側を歩いた。 「ごめん、父さん。楽器が嫌なわけじゃないんだ。ただ、他にやりたいことがある」 「もういいさ。お前が昔からなにか探し回ってるのは知ってたからな」 歩幅を合わせ、随分軽くなった体重。その重さを胸に留めながら、ゆっくり頷く。 「誰かと一緒に、やりたいことを見つけたんだろう? それなら最後まで貫いてやれ」 「うん」 どう接したらいいのか。分からなくてひとり悩んでいたけど、父は俺を応援してくれていた。 それにようやく気付けて、胸の中がいっぱいになった。 「ありがとう、父さん」 この家に生まれて良かった。 突然そんなことを言ったら心配させそうだから、喉元まで出かかった言葉を飲み込む。 もう少し時が経ったら、躊躇いもなく言ってしまうだろう。 その日を少し楽しみにして、母と景さんが待つ部屋へ向かった。 ◇ 「鏑木くん、良い飲みっぷりだな」 「恐れ入ります」 「ちょ。二人とも、飲み過ぎですよ」 父さんが参加したことで、夕食はいつになく賑やかなものになった。またまた完璧に振る舞う景さんと父は意気投合し、焼酎を開けて宴会状態になっている。 すっかり打ち解けたのは嬉しいけど、後で具合が悪くならないか心配だ。 空になったお皿を片付けていると、母さんが台所にやってきた。 「お父さんがあんなに楽しそうにしてるの、久しぶりだわ。鏑木さんを連れてきてくれてありがとうね、都築」 俺が家を出てから、父は余暇を楽しむ機会が減ったらしい。 むしろ肩の荷がおりたぐらいだと思っていたのに、意外過ぎて驚いた。父は、家で俺のことばかり話していたという。 「結局あなたのことが心配なのよ。バイトもしたことない世間知らずな子が、いきなり誰にも頼れない東京に飛び出したんだから」 「そ……それはそう。すみません」 「でも、色んな人に会えたでしょう? この町だけにいるより良いって、私も思うわ」 母さんは二人分のグラスにお水を入れ、俺に手渡した。 「うん。俺、週末は景さんと旅してるんだ」 「旅? 自分探しの?」 「いやっそれではないけど」 天然な母にツッコみ、酔い醒ましに一気に水を飲む。 「景さんのことを信頼してる。だから、景さんに会わせてくれた旅にも感謝してる」 「そ。……良いじゃない」 あまりにも説明不足だと思ったけど、母は深く尋ねもせず、笑顔で腰に手を当てた。 「それで良いのよ。若い時はできる限り旅をしなさい。お母さんも二十歳ぐらいのときはしょっちゅうバイクで旅してたもの」 「へー、意外。母さん今バイク乗らないじゃん」 「そりゃ、今は車があるからね。でも若い頃は走り回ってたわよ。旅先で友達もできたし、不便なことも多いけど本当に楽しかった」 初めて聞くことがたくさんあった。 今までも少しは話に触れていたのかもしれないけど、子ども過ぎたのかもしれない。自分が旅するようになってようやく、母の話の一々が心に沁みた。 「あなたがお腹にいると分かって、旅はやめたの。最後は安産祈願で有名な神社に行って、無事出産できたわ」 「俺のせいで、旅をやめたの」 「いーえ、あの時はいっぱい旅して満足だった。未練も後悔もないわ。旅に出るより、あなたに会えることの方が楽しみだったもの」 だから、無事に生まれてくれてありがとう。 何年ぶりか分からないが、優しく頭を撫でられた。 「俺も……。生きて良かった。ううん、母さんの子どもで良かった」 「やだ、急に怖いこと言わないでちょうだい」 「もう言わない」 中々強い力で突き飛ばされ、冷蔵庫に手をつく。 いまいち真面目な話になれない母に苦笑し、瞼を伏せた。 「あ。そのブレスレット、まだしてたのね。あなたが中学生の頃に作ってあげたやつ」 「うん。大事なものだから」 この真珠のブレスレットは、母が作ってくれた。主様に頂いた珠を初めて見せたとき、母は綺麗ねと笑った。でもどこから持ってきたのか、盗んだわけではないのか、と詰められ焦ったことを覚えている。 最終的に、異動した学校の先生から思い出にもらった、と嘘をついたんだ。それで何とか納得してもらえて安心た。 「……そういえば。母さん、この辺で龍の逸話とか聞いたことある?」 「龍? どういうこと?」 「俺と景さん、龍神様に興味あってさ。ファンタジー感満載だけど、古い伝承がある滝とかも回ってんだ」 「ふうん、面白いわね。そういえば昔、家の裏山になにかを祀ってる祠があったけど。龍だったかどうかは分からないわねぇ」 「祠?」 「あなたも大昔、掃除しに一回だけ行ったことがあるわよ。あの石灯籠が連なってる道の先」 「そこには、石碑のようなものもありましたか」 俺達の後ろまで通る声に振り返ると、景さんが空の瓶を持って佇んでいた。 母は眉を下げ、あったかもしれないわね、と唸る。 「行くべきだな」 景さんは俺の方を見て、小声で告げる。 真珠が二つ揃った状態。もし前世の村がこの近くに存在したなら、俺達が過ごした、主様の滝もあるかもしれない。 海面からは小さく見える渦も、水中ではずっと深く、大きな力を巻き起こしている。俺達の記憶も、間違いなく見えるところまで浮かび上がろうとしていた。 「でも、裏山に滝なんかないよな……」 記憶を遡りながら部屋へ戻ると、今度は話を聞いていたらしい父が口を開いた。 「大昔、滝があったと聞いたことがある。土砂崩れもあって今は埋め立てられてしまったらしいが」 そうなのか。 滝がないとなると、正直望み薄に思えるけど。 ……景さんはさっきから、真剣な表情で考え込んでいる。 石碑のことでなにか確信してるようだ。俺はそれに気付いて、密かにブレスレットに触れた。 「ま、興味があるなら明日行ってみなさいな。今夜は雨だから、ゆっくり休んでね」 母と父も微笑み、夕食はお開きになった。 俺は景さんと二階へ上がり、明かりをつける。母さんが言う通り雨が降ってきたので、窓を閉めた。 「どうします? 滝がないなら尚さら、主様を感知することはできないかもしれませんね」 「けど、俺達が過ごした滝があった場所なら、一目見ても良いんじゃないか?」 景さんは眼鏡を外し、静かに笑った。 「今と比較するんじゃない。幸せを上乗せする為に、“皆”で過ごした故郷も探しに行こう」 「……そうですね」 前で手を組み、彼と見つめ合う。 幸せなら、今目の前にいる。 俺の世界はここに在るんだけど、それは隠しておこう。母さんにも怖がられたばかりだからな。 「父さんのぎっくり腰が心配で来たけど、だいぶ良くなってて安心しました。二人も景さんと会えて嬉しそうだし、俺も嬉しいです」 「まあ、早めに挨拶しとかないとだから」 「あははっ。その日が待ち遠しいですね」 布団を敷き、その場に屈む。畳の目を指で追いながら、彼がこちらへやって来るのを感じていた。 「それはそうと、やっぱり景さんの方が俺より力が強いみたいです」 「そうか?」 「はい」 答えると、景さんは真珠のカフスを外し、俺の左耳につけた。 「じゃあ明日行く時、これもつけてろ。俺は確かに、ずっと耳鳴りがしてるから……これがない方が治まる」 「了解しました」 左耳に触れ、彼の頬にキスする。 そのまま眠ってしまいそうな心地良さを感じながら、片膝をついた。 「景さん、ここまで一緒にくださってありがとうございます」 手のひらを重ね、額を合わせる。 互いの記憶を共有することはできないけど、せめてこの一瞬だけは、同じ想いを結びたい。 「帰ってきて、本当に良かった。父さんと母さんにも、胸を張って言えます。生まれて良かった、って」 「……あぁ」 強い力で抱き締め合う。明かりを消し、雨の音が強まった後も、俺達はしばらく互いの熱を交換していた。

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