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第58話 雨飛の追憶
深夜二時の霧雨。
コートを羽織り、音を殺して部屋を出る。
都築は家の敷地を出て、フードを目深にかぶった。
ブレスレットとカフスをつけ、鬱陶しい髪を後ろに流す。
大丈夫。少し見に行くだけだ。
民家もない農道を進み、裏山へ入る。あまりの暗さに立ちくらみがしそうになったが、ライト付きの防犯ブザーを口にくわえ、スマホのライトも点灯させた。
この辺りで熊が出たことはない。どちらかというと、不安なのは猪や蛇だ。周囲の音に耳をそばたてながら、記憶を頼りに木の枝を掻き分ける。
明日まで待てないのは、雨は今夜だけだからだ。晴れの日に訪れても、今の自分では何も感じ取れずに終わってしまうと思う。
それなら今夜のうちにひとりで見に行きたい。
「さむ……っ」
雨の山中は真冬のようだ。手がかじかみ、スマホを持つのも辛くなってきた。
けど、子どもの頃訪れた石灯籠の道が見えた為、意を決して歩みを進めた。
村のことは、思い出せなければそれでもいい。両親や村人達のことも、何とも思ってない。強いて言うなら、最後に母を悲しませたことが申し訳なかった。
俺が思い出したいのは、自分の最期だ。
景さんに約束して別れたことだけ憶えている。
迎えに行く、と彼に告げた。
その理由が分からない。どうして、最期に彼と離れる必要があったのか。
辛いことを思い出させてしまうから、景さんに訊かず、自力で記憶を取り戻したい。
緩やかな坂を上り、白い息をはいた。
雨の音で掻き消されそうだが、かすかに一定の水音が聞こえる。
そういえばここにも沢があったな。
水源はもっと上。滝はなくなってしまったが、動物達が生きてく為の水が流れている。
「よし……!」
両の頬を叩き、気を引き締めて段差を上っていった。スニーカーは泥だらけで、中も水が入って、足が重たくなった。
でも、確かに近付いている。体温が下がれば下がるほど、施錠していた記憶の箱が開かれていく。
ようやく見つけた石碑は、ライトで照らしたものの苔むしており、何が書いてあるのか全く分からなかった。
ただ、真横の祠を見て確信する。中にはとても小さいが、龍を模した石像が置かれていた。
「主様……」
やって来た。と言うよりは、戻ってきた。
灯台もと暗し、独りでは絶対に気付けなかったこと。左耳のカフスに触れ、その場に屈み込む。
地面にそっと触れると、かつての笑い声が聞こえてきた。
その声を追いかけようとした時、持っていたスマホが震えた。
「あっ! まずい……」
着信だ。こんな夜中に誰から……と思ったら、相手は景さんだった。
出ないと心配させてしまうから、迷ったものの通話マークをスライドする。
「もしもし」
『都築! 今どこにいる?』
景さんの声は、いつになく緊迫している。慌ててスマホを耳に当てて、宥めるように笑った。
「すみません、眠れなくて……ちょっとコンビニにきてます。すぐ帰るので寝ててくださ」
『さっき言ってた祠にいるんだろ』
言葉を遮り、景さんの鋭い声が胸に突き刺さった。驚き、誤魔化す考えすら吹き飛んでしまう。
『反応し合ってるのか、耳鳴りがすごくて目が覚めた。ったく……今すぐ行くから、スマホの位置情報共有しろ』
「だ、大丈夫ですよ。本当にすぐ帰ります」
『都築。……俺は今、初めてお前に怒りが湧いてるんだ』
ひえっ。
初めて、本気で怒らせてしまったようだ。
今まで怒らせてないことが奇跡なんだけど、慌ててスマホを操作し、彼に位置情報を送った。
『よし。迎えに行くから、絶対そこから動くなよ』
「景さん……俺、景さんとこれからも笑って過ごす為に、全部思い出したくて」
雑音が混じり始める。どうやら、彼は走りながら電話してるようだ。
「景さんに昔のことを訊くの……どうしても、申し訳なくて」
『大丈夫だ。何でも教える。だから独りで突っ走るな!』
……あぁ。
どうしてこの人は、こんなにも俺を容易く救ってくれるんだろう。
誰より強くて、頼り甲斐があって、優しい。……昔と同じ。
「ごめんなさい……っ」
両膝をつき、命乞いするように前に屈む。そのとき、何故か通話が切れてしまった。
画面を見ると、さっきまで何ともなかったのに、電源が落ちていた。
おかしい。まだ充電はあったはずだけど。
ぬれた頬を手でぬぐい、立ち上がる。ひとまず居場所は送ったし、景さんが無事に来られたら合流できるだろう。迎えにこさせてしまって、結果的に迷惑をかけた。
申し訳ないけど……俺は少しずつ、昔のことを思い出していた。
─────俺と同じく、滝に身を投げようとした少年のことを。
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