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第59話

その少年は、とても綺麗だった。 崖の上から腕を掴み、やっとのことで引き上げた。彼は逃げられないよう足を縄で縛られ、全身傷だらけだった。俺よりも痛めつけられた状態で放り出されて。そのボロボロな姿に、胸が引き裂かれそうになった。 自作の薬を塗って、一日看病して、ようやく彼は口を開いた。 「……もしかして、去年龍神の生贄にされた」 「あぁ。でも残念ながら生きてるよ」 水につけた布をしぼり、彼の血で汚れた額を拭いてやる。 「龍神様も、あんな村の為に雨は降らさないって怒ってる。でもそのせいで、今年は君が生贄に選ばれた。ごめんな」 「何でアンタが謝んだよ。自分だって、村から見放されたのに」 「ん~。……何でかね」 困ったように笑うと、彼も眉を下げて首を傾げた。 俺は作っておいた粥を用意して、彼にひとくち差し出した。 「とにかく、もう大丈夫だよ。君さえ良ければ、ここで一緒に暮らそう」 龍神様がいるから安心だし、と言うと、彼は引き攣った笑顔でお粥を口にした。 「……本当に龍神がいるの?」 「いるよ。ほら、祠も作ったんだ。安っぽいって怒られたけど」 洞窟の奥に建てた祠を指し示すと、彼はようやく笑った。 「ほんとだ。安っぽい」 「失礼」 「ごめんごめん。……未完成みたいだから、手伝おうか?」 少年は、黒曜石のような光をたたえた髪を掻き分ける。 前髪を振り払うと、とても綺麗な瞳が俺を映していた。 「まぁ、一人よりは二人の方が良いもんに仕上がりそうだよな。よし、手伝ってくれ」 「分かった。ところで、名前は?」 彼は正座し、こちらに手を差し出した。 「俺は成尋(なるひろ)。宜しく」 俺も微笑み、傷だらけの手を取る。滝に隠れた洞窟の中で、大切なひとを手に入れた瞬間だった。 「明永(あきなが)。こちらこそ宜しく!」 龍神様と過ごして二年目の秋。俺の前に、傷ついた少年が現れた。 裏切られた者同士ではあるけど、若いせいか悲観的にもならず、主様の為に祠を作り直した。小川に行って魚を捕ったり、木の実を食べたり、自給自足ながら毎日楽しかった。 ひとりじゃない。話せて、触れられる存在が傍にいることがこんなにも幸せだなんて。一年前はやはり想像もできなかった。 成尋は俺と違い、村の上役の息子だった。それなのにどうして生贄に選ばれたのか訊ねると、彼は妾の子なのだと話した。 「厄介払いができたって喜んでた」 「何それ。腹立つな」 「うん。でもそれまでは普通に良くしてくれてたから……恨んではいないよ」 どうでもいい、と零して彼は寝転がった。 夜、秋の名月を見上げ、虫の声に耳を傾ける。 「今もこうして生きてるし。……お前に会えたし」 「…………!」 その言葉を聞いた瞬間。 怒りとか理不尽とか、寒さや悲しさが消し飛んだ。 あるのは、ただただ愛しさ。 俺も大概、単純だ。横になっている彼の隣へいそいそと移動し、横になった。 「俺も~♪ お前がいればいい。……他には何も要らないよ」 そう言うと、成尋はわずかに目を見開き、俺の頬を撫でた。 「じゃあ、ずっと一緒にいるか」 ◇ 暗闇の中で、鬱陶しい枝を掻き分ける。泥が靴の中まで入り、ただでさえ足場の悪い山道で行く手を遅らせた。 「くそ……っ!」 頬を掠った枝を振り払い、景は白い息を吐いた。視界が悪く、さっきはぬれた石で足が滑り、転んでしまった。 都築の前で転ばなくて良かったと思いつつ、都築がいたらこんなにも焦って歩かないだろう、と思い直した。 雨にぬれた眼鏡を胸ポケットに入れ、額に手をあてる。 一旦冷静になれ。 頭に血が上りかけていたが、幸い冷雨が頭を冷やしてくれる。景は深夜の山中で、自分がいる場所を冷静に自覚した。 夜中あまりの耳鳴りに目を覚ますと、隣で寝ていたはずの都築が消えていた。 それだけで、都築の母親が話していた祠へ向かったのだと分かった。 行きたいならそれでもいい。だが何故危険を犯してまで、夜中に独りで行くのか理解できなかった。彼に対し、初めて、自分で制御できないほどの怒りを覚えた。 だがそれも、先程の電話で納得できた。 俺の口から話させたくないことがある。それは、彼が命を落とすキッカケとなったこと。 「…………」 滑らないように足を横向きに下ろし、慎重に地面を踏み固めながら段差を超える。 都築が前世の記憶について曖昧なところがあると知ったとき、密かに安堵した。 彼と過ごした数年間は楽しかったが、彼そのものの人生は、大半が辛いものだったから。幸せな時間の記憶を失っていても、辛かった記憶も失っているならとんとんだ。幸せは、今世でゆっくり積み重ねていけばいい。 通信の切れた地図を眺め、スマホを仕舞う。 進めば進むほど、昔の記憶が流れてきた。 確かに、俺も彼の最期はあまり思い出したくない。けどなかったことには絶対できない。 都築……いや、明永は、最後まで村の人間の身を案じたのだ。 夏の夜、主は告げた。これから豪雨になり、河が氾濫する。そうすれば地盤は緩み、土砂が下方の村を襲うと。 村ごと流されれば、まず誰も助からない。酷な話だが、俺はそれも天命だと思った。 人は自然には逆らえない。崇め奉る神に生贄を捧げても、救いのない結末を迎えることがある。 今がまさにそうだ。俺は洞窟に戻ろうとしたが、明永は首を横に振った。 『確かに、天命なら仕方ないよ。でも先に知っちゃったからね。あんな村でも、今年産まれた子どもがたくさんいるんだ。……避難させないと』 何を馬鹿なことを。 俺達を間接的に殺そうとした人間を助けに行くなんて、正気じゃない。そう言って止めたけど、彼の気は変わらなかった。 いや、本当は助けることが嫌なんじゃない。そんな危険な場所に彼を行かせることが嫌だった。だから俺が代わりに行くと提案したけど、明永は頑なに自分が行くと言って聞かなかった。 『お前は主を頼むよ。水量が上がるから、流されないように気をつけて』 『明永……っ』 大雨が地面を叩きつける。互いの声も聞き取りにくい暴風の中、彼は思い出したように袖からなにかを取り出した。 それは二つの真珠だった。宝石を好む主が、明永にやったものだ。その片割れを俺の手に握らせ、彼は笑った。 『だいじょーぶ! すぐに戻るから、雨宿りして待ってな』 雨のせいで、繋ぎかけた手は簡単に外れてしまった。 去りゆく彼を止めようとしたものの、荒れ狂う雨の中、滝の水位も上がっていく。洞窟に水が入らないように柵を立てかけないと。 でも、明永のことだけが気掛かりだった。 その不安は的中する。俺は彼を行かせてしまったことを、死ぬまで後悔することになる。 いいや……死んでからも。 戻ってきたら、今度はちゃんと彼に告白するつもりだった。 好きだ。これからは伴侶として、お前を守ると言うつもりだった。 何でもっと早くに言わなかったのか。 翌朝、主のお告げ通り村は土石流に飲み込まれた。 だが村で亡くなった人間はひとりもいなかった。直前に村に到着した明永が村人達に避難するよう声をかけて回ったから。 足の悪い御年寄もいたが、最後のひとりが脱出するまで彼は村に留まった。 明永は帰ってこなかった。 どれだけ呼んでも、捜しても……俺は最後まで、彼の片鱗を見つけ出すことはできなかった。

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