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約束(やくそく)

視界に飛び込んでくるのは、巨大な水槽の中で悠々と泳ぐたくさんの魚達。暗い館内で青が映える。匠は鮫を見つけ、子供みたいにはしゃいでみせる。 「おい見ろよ!サメ!!ジョーズだ!!」 「……可愛いな」 「は?サメはかっこいいだろ!」 微妙に会話が噛み合わず苦笑する遙。水槽に釘付けの匠の手を取り、少し強引に繋ぐ。 「な、何だよ」 「今日はデートなんだろう?……だったらこうするのが普通だ」 赤くなって顔を背ける匠。返事の代わりに、繋いだ手の力が強まる。 「チッ……今日だけだかんな…」 「……それは残念」 いつもと変わらない遙に、やれやれと思いながらも今この状況を一番楽しんでいるのは匠自身のように見える。次のエリアに進もうと遙を急かすように繋いだ手を引っ張る。先程よりも更に巨大な水槽ゾーンへ。アクリル越しに無数の魚達がゆったりと泳ぐ。青い光が水面で揺れて、まるで水の中にいるような錯覚を覚える。匠は大水槽に手を添え、釘付けになったまま目を丸くしている。 「へぇ……あんなデカい魚もいるんだな」 ポツリと漏れる声は、驚きと純粋な興味が混ざったものだった。 「食ったら美味いかな……」 そう言いながらも視線は真剣そのもの。隣でその横顔を眺める遙は、静かに笑みを浮かべる。 「……こんなに熱心に見るとは思わなかったな。初めて来た訳でもないだろう?」 「は?べ、別に普通だろ……」 匠は慌てて視線を逸らすが、耳まで赤く染まっているのが分かる。 「まるで子供だな」 遙がそう言いながら、そっと匠の肩に触れるほど近づくと、ビクッと震える匠。 「近ぇよ……っ!」 「このくらい普通だろう。恋人同士ならな」 低く落ち着いた声に、匠は思わず動きを止める。水槽のガラスにうっすらと映る、自分と遙の姿。並んだ二人の影が、本当に恋人同士のように見えて思わず息を呑む。 (……何だよこれ……まるで本当に……) 胸の奥がざわつく。楽しいはずなのに、何処かで楽しんではいけない、と自分に言い聞かせる声が響く。 「……お前、何て顔してるんだ」 ふと、遙が囁く。 「楽しいなら、それで良いだろう」 その声はいつになく柔らかく、でも奥底に冷たい独占欲が潜んでいるようだった。 「う、うるせぇ……」 顔を背け、繋いだ手をギュッと握り返す匠。遙は小さく笑い、離そうとしない。匠がふと別の水槽に目をやると、無数のクラゲが光に照らされながら静かに漂っている。 「すげぇ、綺麗だな……」 無意識に零れた声に遙はただ穏やかに微笑む。その瞳には、水槽の魚ではなく隣に居る匠だけを宿していた。 水族館内のカフェに座る二人。匠はカップを片手に、ぼんやりとクラゲの余韻を引きずっているように見える。 「……こんな所にカフェあったんだな」 「匠、お前が何処を見ていたとしても、俺はお前だけを見ている」 「……は?いきなり何言ってんだよ気持ち悪ぃな!つうか、よくそんなクセー台詞がポンポン出てくるな!感心するぜ全く!!」 カップを強めに握る匠。顔は赤いが、それ以上言い返せず飲み物で口を誤魔化す。遙はそんな匠の仕草を楽しむように静かに笑う。カフェの席は程よく埋まっていて、カップルや家族連れ、小さな子供達が水槽を指差してはしゃいでいる。 「うわ〜クラゲだ!」 「パパ見て見て!」 そんな楽しげな声があちこちから響く中、匠は視線を逸らしカップを弄る。 「……何だよ、周りほとんど家族連れじゃねぇか」 「気にするな。……俺には匠しか見えていない」 「……お前もう喋んな」 匠は周りのざわめきと遙の視線に挟まれ、ますます赤くなる。 館内を出ると空は既に茜色に染まっていた。水族館を堪能した二人。匠は鮫のぬいぐるみを抱き、嬉しそうに歩く。 「そんなに鮫が好きなのか」 「え?あぁ、だってかっけーじゃん」 「なら……俺は?」 「はぁ!?し、知らねぇ!少なくとも、サメのぬいぐるみに嫉妬するような奴はかっこわりぃよ!」 遙は低く笑い、匠の持つぬいぐるみを少し恨めしそうに見る。遙の黒のセダン車に着くと、遙はドアを開け匠を優雅にエスコートする。 「そういうの本当にムカつく。手慣れてる感が特に」 「ふふ……嫉妬か?」 「……バーカ」 小声で文句を言いながらも、結局乗り込む匠。助手席に座りシートベルトを締める。その動作を確認すると、遙が緩やかにアクセルを踏む。 「今日は……楽しかったか?」 小さな子供に尋ねる父親のように聞く遙。匠は拗ねたように視線を逸らす。 「別に、普通……」 (……くそ、ガキ扱いしやがって) そこから少しの沈黙。車を走らせるうち、空はどんどん濃い群青色に変わっていく。匠は窓の外を見つめてボーッとしていた。遙は運転しながら時折横目で匠を盗み見ると、突然呟いた。 「……少し寄り道しないか?」 「はぁ!?もう帰りてぇんだけど」 もう帰ると思っていた匠は驚き、ついていた肘がずり落ちる。そんな匠を見て微笑んだ後、真剣な声で続ける遙。 「どうしても夜景が見たい。お前と一緒に」 「わ、分かったよ……本当に強引だよな、お前」 文句を言いながらも結局了承してしまう匠。赤く染まる顔は西日が落ちた今、空のせいには出来ない。それを隠すように再び外を見つめるが、反射した窓に映ってしまっていた。 「今更だけど、変な事したらぶっ飛ばすからな……」 「……期待してるのか?」 「どうしてそうなるんだよ!!」 慌てて更に顔を真っ赤にする匠。照れ隠しのつもりだったのに墓穴を掘ったようだった。その姿に遙は小さく笑い、何も言わずに視線を前に戻す。 地名は分からない、だけど何処か山頂近くの駐車場に着いた。フロントガラス越しでも分かる、夜空には満天の星。匠は思わず外に出る。 「すげぇ……」 街灯一つ無い、一面に広がる星の海。都心に住んでいると見れない絶景だった。遙は後ろからそっと近づいて距離を詰める。 「……俺は星よりも、匠の方が綺麗で可愛いと思うがな」 「はぁ……もう何でもいいや」 匠は溜め息をつき、星空に背を向けるようにして肩をすくめた。遙はまた一歩近づき、匠の隣に並ぶ。 「俺、恋愛はそれなりにしてきた。お前と違って、俺はちゃんと女の子としてきたから、こういうの……よく分かんねぇ……」 匠は小さな声で苦しそうに呟く。 「お前といると、何かムカつくし……意味分かんねぇし……でも……」 言葉が詰まり、顔を背ける匠。遙はその後頭部を優しく見つめる。 「……無理に言わなくて良い」 静かにそう言うと、遙はそっと匠の手を握った。 「バカ……」 小さな声で返す匠。その口元が、ほんの僅かに上がった気がした。再度夜空を見上げると、琥珀色の目に星の光が瞬き輝きを帯びる。遙はその小さな表情の変化を逃さず、そっと横顔を見つめる。 「……送る」 「……頼んだ」 短い返事。でも、いつもよりずっと穏やかで柔らかい。二人は静かに車に戻り、エンジンを始動させる音が夜の静寂を破った。走り出してすぐ、車内は心地良い沈黙に包まれる。街の灯りが近づくにつれ、匠は少しだけ顔を俯けていた。 「……今日は、その……ありがとな、遙」 信号待ちの一瞬、匠がポツリと呟く。遙は初めて名前を呼んでくれた事に一瞬驚き、すぐに笑みを浮かべてゆっくりと顔を向ける。 「……もう一度言ってくれ」 「にっ……二回も言うかよ、バカ!」 赤くなった顔を逸らす匠。だが、窓に映るその表情には、これまでに無いほどの温かい笑顔があった。やがて匠のアパート前に到着する。匠が車のドアノブに手をかけた時、遙は小さく声を掛けた。 「また、直ぐに会えるか?」 匠は一瞬動きを止めると、深呼吸してから振り返った。 「……気が向いたらな!」 そして、バタンとドアを閉める。去っていく背中を見送りながら、遙は笑みを浮かべた。 「ふふ……楽しみだ」 車内に一人残された遙の青灰色の瞳は、また静かに、しかし底知れない光を宿していた。 「但し……約束を破ったらどうなるか……お前の身体に教えてやるからな……」

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