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束縛(そくばく)
匠はいつもの帰り道を歩いていた。昼間の友人達の声が頭の中で何度も反響している。
(週に一回は少な過ぎ?十回戦?……アイツらやっぱり性欲お化けだ……)
思い出すたび心臓がギュッと締め付けられる。まるで自分だけが別の世界に取り残されたような疎外感。
(……違う、俺は別に……でも……)
自分の気持ちを整理しようとすればするほど、脳裏に遙の顔がチラつく。あの余裕に満ちた青灰色の瞳。まるで「お前はもう俺のものだ」と言いたげに笑う顔が、しつこく頭から離れない。
(……まぁ実際、一番の性欲お化けは遙なんだけどな……)
やっとの思いで部屋に辿り着き、靴を脱いで小さく息を吐く。昨日の遙との散々な行為で匠の身体は悲鳴を上げていた。今日くらいはゆっくり寝たい。何も考えずに、ただ静かに眠りたい。だが、ポケットの中のスマホが震えた瞬間、血の気が引く。画面に表示された名前を見て喉が詰まった。
「遙……」
躊躇いながら指が画面を覆いかける。けれど最終的には通話ボタンを押さず画面を伏せ、枕の下にそっと忍ばせた。
「出るワケねぇだろ……もう今日は疲れた……」
小さな声で吐き捨てる。スマホは無情にもまた震える。震えが止まっても、すぐにまた振動音が鳴り響く。無視しても無視しても止まらない。
「くそ、うるせぇ……」
頭にきたので電源を切ろうとした、その瞬間。玄関の扉が開く音がした。全身の毛が逆立つような感覚に襲われ慌てて玄関を見る。そこに立っていたのは、見慣れた長身の男。
「は……遙っ!?」
暗がりに浮かぶ銀髪。その奥の青灰色の瞳が静かに、妖しい光を宿していた。
「なかなか出ないんでな、心配で来た」
平然と言い放つ遙に、匠は声を失う。心臓の鼓動が早くなり、耳障りな音を立てる。
「な、何で……鍵……いつ……そういや昨日も……」
掠れた声で問い掛ける。遙はその問いを完全に無視。
「……今日は俺の家に来い」
一歩、遙が踏み出すたびに匠の身体が硬直する。まるで獲物を追い詰める狼のように、にじり寄ってきた。
「ふ、ふざけんな!!まず勝手に作った合鍵の話を……!」
遙は答えない。ただ一方的に匠の腕を掴み軽々と引き寄せる。
「行くぞ」
「やめろ!!今日は、俺、もう……っ」
「お前に拒否権など無い」
静かで抑揚の無い声。その中に潜む冷たく圧倒的な支配色に、匠の背筋が凍りつく。
「……離せっ!!」
力任せに振り解こうとする匠。だが、遙の指は鋼のように硬く微動だにしない。
「くそっ……!」
視界が滲む。悔しさ、恐怖、情けなさが混じり合って、何も言葉にならない。
「……大丈夫だ」
遙は唐突に匠の柔らかい茶髪を撫でる。優しい仕草のはずなのに触れられた瞬間、背筋に氷が這うような冷たさを感じた。
「今日は、ちゃんと甘やかしてやる」
「い、いらねぇよ!そんな事より寝かしてくれ!」
荒い息を吐きながら匠は必死に抵抗する。しかし遙の手は揺るがない。匠がどんなに抗っても、遙の決めた結末は変わらないのだ。
(……何で、いつも、こうなるんだよ……)
その疑問は、もう何度繰り返しただろう。今も声にならない叫びが喉の奥で絡みつく。結局、引きずられるように匠は遙の後に続いていくしかなかった。
玄関の扉が遙の手によって開かれた瞬間、ヒンヤリとした空気が匠の頬を撫でる。外の蒸し暑さが嘘のように、空調の整った心地良い空気が漂っていた。白く磨き上げられた大理石の床が、間接照明を柔らかく反射している。廊下には余計な装飾が一切無く、整然とした静けさが広がっていた。
「……入れ」
「っ……」
進むごとに、微かに漂うコーヒーの香りが鼻をくすぐる。リビングに入ると壁一面の大きな窓から都会の夜景が見渡せる。遠くに瞬くビルの光、車のヘッドライトが細い筋になって流れていく。無駄の無い、シンプルで上質な家具が並ぶ空間。大きな白いソファは、まるでホテルのラウンジのように落ち着いた存在感を放ち、黒いガラステーブルには余計な小物一つ置かれていない。
(何だよこの部屋……遙ってすげぇ金持ちだったのかよ……)
間接照明の淡い光が部屋全体を柔らかく包み込み、影すらも美しく見せる。まるで生活感を取り入れた美術館のような空気。その静けさは何処か張り詰めていて、呼吸さえも慎重にしなければいけないような錯覚に陥る。
「遠慮するな、楽にしていろ。……何か飲むか?」
「あ、あぁ……」
圧倒的に自分とは住む世界が違うと痛感し、呆然と琥珀色の目で夜景を映す匠。遙は特に気にせず、キッチンへ消える。何故か無駄に緊張しつつ、白いソファに腰掛けた。ふわりと身体を包み込むような柔らかさで、まるで雲の上にいるようだった。座面に身を預ければ、自然と肩の力が抜けていく。傍らに置かれたクッションは手のひらを添えた瞬間に、もっちりと沈み思わず頬ずりしたくなるほどの弾力を持っている。肌触りも良くて、指先がいつまでも離れない。
(普通に、ここで寝れる……)
途端に睡魔が匠を襲う。自分でも気づかないほど、疲労困憊していたようだ。瞼が重い。今横になればすぐに夢の世界へと行ける自信しかない。しかし、もし今寝てしまったら、また遙の機嫌を損なう恐れがあると危惧した匠は必死に意識を保とうとする。だが、頭が揺れ、何度も頬を叩いては揺れる。
「……そんなに眠いなら寝かせてやる」
「……ほ、ほんとに……?」
アイスコーヒーを持ってリビングへ戻ってきた遙。カラカラ、と氷が当たる音が心地良い。緊張していたのもあり喉が渇いていたが、もう意識を失う寸前だった。
「ふふ……寝かせてやる、とは言ったが……今、とは言っていない」
低く淡々とした声が響く。
「はっ……。な、なに……」
テーブルに二人分のグラスが置かれる。寝ぼけ眼で遙を見る匠だったが、その表情を見て内臓が凍りつくような恐怖で眠気が醒める。月光が照らすのは不敵に笑う遙の美しい顔。銀髪は絹のようで、その青灰色の瞳は妖しく光っていた。
「昨日の事、俺はまだ許していない……」
驚くほど冷たい声に、匠の身体は激しく震えた。まるで、逃げ場のない檻に閉じ込められたよう。
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