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逃走(とうそう)

バイトを終え溜め息を一つ。しかし、スマホの通知を見てのんびりしてる場合では無くなり急いで店を後にする匠。 【今日も家に来い。待ってる】 (くそ、何が待ってるだよ。ほとんど命令じゃねぇか……) 全力で夜の街を駆け抜ける。夏の湿った空気が身体にまとわりついてくるが、そんな事を気にしている暇もなく、匠はひたすら遙の待つマンションへと走った。 汗だくになりながら、ようやく辿り着いた。初めて来た訳ではないとはいえ、この明らかに自分には一生縁の無い高級感に戸惑うばかり。ポケットからスマホを取り出し、そこに送られていた部屋番号を一度見てからインターホンに手を伸ばす。指先が一瞬躊躇うが、覚悟を決め数字を押す。ピッという電子音と共に、無人のエントランスの扉が開いた。冷房の効いた空気が肌を撫で、外気との温度差に一瞬ゾクッとする。 「相変わらず凄ぇな……」 小さく呟きながら、静まり返ったロビーを抜け、エレベーターへと向かう。扉が閉まり上昇を始めると同時に、匠は深く息を吐いた。ここからは遙のテリトリー。少しでも平常心を取り戻さないと、あっという間に飲み込まれてしまう。乱れた呼吸と鼓動を整えるように天井を見上げて、数回ゆっくり深呼吸。やがて目的の階に着き、少し進んで遙の部屋の前に立つ。迷いなくインターホンを押すと数秒の間も無くロックが外れる音がして、静かに玄関が開いた。 「早!待ち構えてただろ、絶対……」 「……遅い」 そう不機嫌そうに低く呟く遙に腕を引っ張られる匠。バランスを崩し、遙の胸元へ抱きつくように中へ入る。 「これでも急いで来たんだけど……」 不満げにポツリ。遙は微笑み、匠の身体を強く包み込んだ。 「逢いたかった……」 「あ、あちぃ……離れろよ」 本当はメッセージを無視して自分のアパートに帰ろうかと迷っていた。しかし、帰ったところでこの目の前の男はどうせ連れ去りに来る。無駄だと分かっていたし、怒らせてはいけないと思い、素直に遙の元へ来たのだ。今日こそは寝かせてくれと願いながら、遙の腕の中で目を伏せる。すると、匠の汗ばんだ首筋に口付ける遙。そのまま舌を這わせ、耳朶を甘噛みされる。 「や……やめろ!」 「朝、我慢してやっただろう……」 「腹減ったんだよ……メシ食わせろ……」 行為がエスカレートする前に遙の胸板を押すと顔を上げ、抗議の目を向ける匠。やれやれ、といった表情をして匠の額にキスすると、名残惜しそうに離れた。 「仕方ない。もう用意してある。食事が終わったら続きをするからな……」 そう告げると匠の手を取り、リビングへと向かう。匠は、とりあえず助かった……と胸を撫で下ろす。遙の後に付いていく、その足取りは少し軽い。 ダイニングテーブルの上、食べ残した皿の横で小さく拳を握り締める匠。意を決して、声を掛ける。 「……なぁ」 遙はワイングラスを傾け、赤い液体を揺らしながら視線を落とす。 「……何だ」 「今日は、普通に寝たい……っ」 言い切ると喉が震え、琥珀色の目には薄く涙。静かにグラスを置き、音を立てずに椅子から立ち上がる遙。 「寝たい、か」 「そ、そうだよ……ここ最近ずっとヤってばっかで、ロクに寝てねぇじゃん。俺も……お前も」 遙の影がテーブルを跨ぎ、匠の前に迫る。 「で……夢の世界で何がしたい」 「夢の世界って……ただ普通に寝たいって言ってるだけなんだけど……」 遙はゆっくりと笑う。しかしその笑顔は冷たく、底知れない深さを孕んでいる。 「……それがお前の本心か?」 「あ、当たり前だろ!」 遙は匠の顎に手を添え、指で強く上を向かせる。 「だったら、俺を満足させてみろ」 「は……何……何でそうなんの……」 「平穏な眠りにつきたいんだろう?……ならばやる事は一つだ」 「その発想がおかしいんだよ!」 遙はそっと唇を寄せ、匠の頬に触れる。 「……でなければお前に安眠の日は永遠に来ない」 「っ……!」 「……お前は、俺だけのものだ」 その瞬間、身体が引き寄せられ睡眠を求める言葉ごと、深く唇を奪われた。匠は顔を背けるも、遙の強い力で顎を固定されてしまう。そしてそのまま、遙の熱い舌が匠の口内に侵入する。 「んんっ……!」 静かな部屋が低い吐息と甘い声で響く。しかしそれも束の間、匠は目一杯の力で遙を押し退けた。 「この……ドS変態鬼畜絶倫モンスターが!!」 振り絞るような怒鳴り声と共に、匠は玄関を勢いよく開けて飛び出した。走りながら、喉が焼けるほどに荒い呼吸。 (クソ!もう話し合いなんて無理だっ!) 目には涙、足元はふらつき、心臓は早鐘のよう。 (遙なんか、もう知らねぇ!!) 遙から離れれば離れるほど、胸の奥に冷たい穴が空くような感覚。家の中では、涼しい表情をした遙が静かに立ち尽くす。唾液に濡れた唇を舌で舐めると、青灰色の目を細める。 「ふふ……逃げたか」 口の端が小さく吊り上がる。 「……可愛い」 瞳の奥に潜む、獣のような光。 「さて、食後の運動の時間だな……」 冷笑を浮かべ、遙の指先はゆっくりと、匠の熱が残った唇に触れる。 温い夜風が吹く中、匠は一心不乱に駆けた。息が切れるほど走った先。ふと視界の端に飛び込んできたのは、まるで時代に取り残されたような空き地。都内の片隅に、こんな場所が残っていたとは知らず匠は驚き立ち止まる。半壊したフェンスの奥、草が伸び放題の地面には、今にも崩れそうなコンクリート製の土管が転がっている。開発予定地だったのか、ただの放置された空間なのか、それすら分からない。とにかく今はここに身を隠す。切羽詰まった今の匠には、それしか考えられなかった。 (ここなら、流石の遙も分かんねぇだろ……) 全身を夜風に晒しながら、匠は土管の中に滑り込む。冷たいコンクリートの壁に背を押し当て、喉からは掠れた息。 (スマホ忘れた……まあいいか) 汗と涙が混じる中、乱れた呼吸を整える。同時に痛み出す心と身体。何故こんな事になってしまったのか考えてみる。しかし答えは出ない。どうにもならない問題が匠の頭をもたげる。汗で濡れた髪をかきあげて、大きく溜め息をついた。 (つい勢いで飛び出しちまったけど、これからどうしよう。遙、怒ってるだろうな……) 無意識に遙の事を考えてしまい、首を横に振る。頭を抱え、湿気を含んだ猫っ毛の茶髪をくしゃりと掴んだ。心から嫌悪したいのに出来ない。否定も拒絶も、本心では無いのだ。出会った当初は純粋に変な人だな、と思っていた。強引で、何故か何処にでも現れて、恐怖すら感じた。しかし、いつの間にかこんな自分に激しく執着してくる、あの美しい銀髪の彼に惹かれていた。気づいたのはいつだったか。 (何で……俺なんかを……) ここ最近ずっと睡眠不足だったので、ついウトウトする匠。とりあえず今だけ、ちょっとだけ寝ようと考え目を閉じる。暗闇の中、出てくる遙の顔。あんな容姿端麗で才色兼備な男が、自分のような普通の、しかも同じ男に執着心剥き出しでいる事自体よく分からない。安眠妨害してくる遙は、今最も理解出来ない。 呼吸が整い寝息を立てていると、不意に足音がし、土管の入り口に影が差す。 「……やっと見つけた」 「っ……!?」 その声は聞き慣れた低音。全身に刻み込まれた支配者の響き。遙が土管の入り口にしゃがみ込み、獣のように笑う。背景に映る月が、やたらと眩しく見えた。 「随分と古典的な隠れ場所を選んだな」 「な、なんで……どうして……」 「まさかここに居るとは……万が一に備えて来てみて正解だった」 遙の指がコンクリートを撫で、爪の音がヒリつくように響く。 「今から青い猫型ロボットと遊ぶ約束でもしてるのか?」 「そんなワケ、ねぇじゃん……」 遙の手がゆっくりと伸びる。匠は後ろに逃げようとするが、土管の奥にはもう行き場が無い。 「……逃げるな、匠」 「くっ……来るな!!」 遙の指が頬に触れ、顎を優しく、しかし強制的に持ち上げる。 「声が出なくなるまで、ここで躾けた方が良いか?」 その冷たい笑みと狂愛の光。土管の中に、匠の震える吐息と遙の低く冷たい囁きが響き渡る。 「やめろ、離せぇっ!!」 遂に土管から引きずり出された匠は、泥だらけで必死にもがき、抵抗する。 「駄々をこねるな」 遙は低い声で言い放ち、乱暴に匠の腰を抱え上げる。冷たい気配に晒され、匠の身体は震え出す。 「……やだっ……本当に、嫌だ!」 「自業自得だ。諦めろ」 「や、やめろってば!」 爪がしっとりとした肌に食い込み、耳に熱い吐息が絡む。 「……抵抗しても無駄だ」 「こんなとこで……やだ……」 泥まみれの手で必死に遙を押し返す。しかし遙の腕は鉄のように硬い。 「頼むよ……後生だから……」 「そんなに必死になって……俺には逆効果だとは思わないのか?」 「うぅ……っ」 青灰色の目が鋭く細められる。もう一度、腰を引き寄せられそうになる。 「……わ、分かった……家で罰でも何でも受けるから……」 「ほう……良い心構えだ」 「ここだと他の人に見られちまうかもしんねぇだろ……俺、お前にしか見られたくねぇよ……」 一瞬、遙の指の力が緩む。諦め顔の匠の口から出た言葉が遙にとって意外だったのか、少し驚いた顔をする。 「外で、なんて冗談じゃねぇ……出ていったのは謝るから、とにかく家に帰ろうぜ……」 静寂。遙の瞳から狂気の光が微かに揺れる。 「……俺にしか見られたくない、というのは本当か」 「そりゃそうだろ……っ」 遙は、匠の涙で濡れた頬をゆっくりと撫でる。 「……そんな顔で、そんな事を言うな」 「え……?」 「今すぐここで犯したくなるだろう?」 「な、何でだよ……」 遙の腕が再び強く締まり、匠の唇を深く奪う。 帰宅し玄関を開け中に入ると、遙は迷わず匠を抱えたまま浴室へ直行する。 「な、何だよ、離せっ!」 「大人しくしていろ。泥だらけだ」 匠は必死に暴れるが、遙の腕は微動だにしない。浴室の湯気が、ふわりと白く立ち上る。匠の服を全部脱がせると遙はスーツ姿のまま蛇口をひねり、温かいシャワーを流す。 「……おい、自分で出来るから……あっち行ってろよ……」 「……ダメだ」 お湯が泥と血と涙を流し、床に落ちると排水口へと吸い込まれていく。匠の髪をゆっくりと濡らし、乱れた前髪を指で分ける。 「……暴れるな」 「うっ……」 遙の手がシャンプーを泡立て、優しく、しかし強引に髪を洗う。時折、首筋を撫でる指がわざとらしくて、匠の身体がピクリと反応する。 (俺は野良猫か……!!) 全て洗い流し終えると遙は静かにバスタオルで匠を包む。浴室を出て匠を椅子に座らせ、遙は無言でその隣に座った。 「ふふ……」 低く、小さく、吐息混じりの声。 「……馬鹿だな、本当に……」 ほんの一瞬、遙の瞳に柔らかい光が揺れる。匠は何も言えず、ただタオルを握り締める。遙は自嘲気味に笑うと、そっと匠の顔を見つめた。 「俺は……お前の全部が欲しいんだ。どうしようもなく。ただ、それだけなんだ」 「……え?」 風呂の余韻でまだ頭はぼんやり。それでも苦しそうに話す遙の目を逸らす事は出来なかった。青灰色が揺れている。てっきりすぐに無慈悲な行為が始まるとばかり思っていたので、拍子抜けする匠。だが、同時に心が少し温かくなった。 (怖い、はずなのに、遙と居ると安心する……何で……?) 「……今日は、普通に寝るか」 低く落ち着いた声。その言葉に、匠の表情がほころぶ。 「……うん」 「確か、ドS変態鬼畜絶倫モンスター……だったか?」 「っ……!」 顔を引き攣らせる匠に、ゆっくりと優しい眼差しを向ける。青灰の瞳が、いつもと違って柔らかい色。 「ふふ……まぁ、事実だからな。お前の可愛さに免じて許してやる。それと、言わなくてはいけない事がある」 「な、何?」 遙は立ち上がり、匠に近づくと額にキスをした。 「……済まなかった」 「何だよ急に、気持ちわる……」 「……好きだ、匠。もう一生離さない」 匠は目に涙を溜めながら、ぎゅっと手を握る。 「……バカ」 「あぁ……俺はお前だけの馬鹿だ」 静かに、でも確かに指と指が絡み合う。額を合わせ、深く呼吸を揃えながら。切なくて、温かくて、尊くて、これ以上無いほどの仲直りが、そこにあった。

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