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微熱(びねつ)
匠がまだ眠りの中、安堵に溺れているほんの一瞬。遙は匠の柔らかい髪を梳きながら小さく、しかし底冷えするほどの低音で呟く。
「次、もし今日と同じ事をしたら……」
耳元に熱い吐息。
「罰としてセックスは毎日最低でも五回、それを一ヶ月間、必ず行う。俺も大変だが、お前はもっと大変だろうな……」
眠る匠には届かないはずの声。それでも、何かを感じ取ったかのように眉がピクリと動く。遙は薄く笑う。喉の奥でくぐもるように響く、凶悪な笑い声。
「無論、その五回は俺の五回だ、上限も無い。ふふ……お前が何処まで耐えられるか、はたまた壊れるか、是非とも見てみたいものだ……」
指がそっと匠の顎のラインをなぞる。その動きは甘やかしのようでいて、背筋が凍るほどの支配を帯びている。
「尤も、良い子にしていれば心配無い話だがな……」
唇が匠の耳殻を軽く噛む。
「お前は、俺だけのものだ……」
まだ暗い、静かな明け方に溶ける狂気の甘い囁き。匠はその言葉に返事をするように、寝ぼけた声を出しながら微かに身を捩る。その無邪気な仕草すら遙の狂愛に飲み込まれていく。
朝の光が、そっとカーテン越しに射し込む。
「ん……」
匠が微かに瞼を動かす。少しずつ意識が戻り、昨夜の残滓が脳裏をよぎる。ぼんやりとした頭で呼吸を整えようとした瞬間。
(毎日最低五回、一ヶ月)
幻聴のような低音の囁きが、耳奥に焼き付いて離れない。心臓が跳ね、背筋がゾクッと冷える。
(う、嘘だろ!?)
ビクッと身体が震える。強く回された腕に拘束され、逃げる事はおろか動く事も出来ない。
(夢じゃない?……いや、気のせいだよな……)
布団の中で僅かに首を動かす。視界の端には遙の端正で静かな寝顔。眉間は微かに寄り、寝息はゆっくりと深い。それだけに、いつ目を覚まして襲いかかってくるのか分からない恐怖が滲み出てくる。大袈裟ではあるが、匠は死刑執行前の囚人の気分になった。
(もしそれが現実になったら、本当に殺されるぞ……)
胸がドクドクと脈打ち、手足の先が痺れる。微かに唇を噛むが、震えは止まらない。
(と、とにかく、しばらくは大人しくしとこ……)
だが、耳にはまだあの声の残響が絡みついている。まるで目覚めを待っているかのような声。
「ふふ……起きたか」
遙の声が低く、微かに笑みを含む。けれど、その奥にある底無しの暗い熱が匠の背骨をゾワリと這う。恐怖に怯えながらも、いつの間にか二度寝してしまっていたようだった。既にキッチンには香ばしいトーストの匂い。食卓には綺麗に並べられた朝食。一見すると平和で、穏やかなはずなのに。
「……ほら、アイスコーヒー」
遙は、スッとグラスを差し出す。匠は小さく頷くしかない。
「ん。あ、ありがとう……」
グラスを持つ手は震え、微かに氷が中で揺れる音を立てる。その音だけが恐ろしいほど耳に響く。遙は自分のアイスコーヒーを一口飲み、ふっと口元を緩める。
「朝はやはりコーヒーに限るな」
「そ、そうだな……」
無理やり笑顔を作ろうとする匠。しかし、視線は下がり口元は強張る。
「……どうした?」
「いや、別に何も……」
「ふふ、そうか……」
遙は目を細め、ゆっくりとパンにバターを塗る。その刃がパンに沈む音が、まるで刃物のように鋭く響く。
「うっ……」
「様子が変だな、具合でも悪いのか」
「いや!全然平気!!」
匠は慌ててパンを噛み締める。味は感じない。喉が渇き、心臓がドクドクと鳴り続ける。アイスコーヒーを一気飲みしたが渇きは癒えない。遙は優雅にナイフを置き、ふんわりと微笑む。
「……じゃあ、今日も一日……良い子にしていろ」
匠はグラスの結露を拭っていた手を止め、小さく頷く事しか出来なかった。
食卓での地獄のような時間を終え、匠は何とか大学に向かう。リュックの肩紐をギュッと握り締める手は冷たく、指先は微かに震える。朝の通勤、通学で並ぶ人の波。視線を感じるたびに背中をビクッと震わせる匠。
(遙、今夜も何もしてこないよな……昨日だけ、なんて事ないよな……しばらくは、俺はちゃんと寝たいんだよ……)
一歩一歩、階段を上る足が重い。身体中に一昨日までの痛みと熱の名残が疼いている。
(遙の言う、良い子の定義が分かんねぇけど、友達と普通に喋って、授業受けて、そんだけだろ……)
大学の正門をくぐった瞬間、胸の奥で鼓動が大きく跳ねる。友達に手を振られるが、ぎこちなく笑顔を作るだけ。
(普段通りに行動してれば、何も問題無い……)
そう必死に願いながら、ゆっくりと一限が始まる講義室へ向かう。扉を開けると、いつものざわめきが耳に入る。けれど、その中で何処かに遙が潜んでいるのではないかという疑心暗鬼に陥る。一回思い込んでしまうと、なかなか消えてくれない。匠の背筋を流れる冷たい汗。
(今日は、せめて平和でありますように……)
小さな祈りが、虚しく胸の奥に響く。
昼下がりのオフィス。静かな書類の擦れる音、キーボードの打鍵音。遙はデスクに肘をつき、淡々と資料に目を通す。だが、その鋭い青灰の瞳の奥では全く別の光景が渦を巻く。
(……匠は今頃大学だな)
書類に目を落としながら、ペン先が無意識にカリカリと震える。
(良い子にしていてくれてると良いんだが……)
思わず、フッと小さく笑みを漏らす。
(いや、寧ろ……)
ページをめくる指が一瞬止まる。
(また何かしら変な事をしてくれた方が面白いか……俺にとっても好都合だ)
胸の奥で黒い熱がゆっくりと渦を巻く。再び動き出す指先。だが文字を追う瞳には一切集中の色は無く、ただ匠の姿だけが焼き付いている。
(震えて泣く顔も、必死に許しを請う声も全部、俺だけのものだ……)
顎に軽く指を当て、静かに思案。
(昨日は我慢してやった……)
次の瞬間、その瞳は冷たい光を帯びる。
(今夜はいつも通り、抱かせて貰う……絶対に)
書類にペンを走らせながら口元に微かに浮かぶ狂気の笑み。誰も近づけないその空気に、同僚たちは思わず背筋を凍らせた。
キャンパスの中庭。夏の強い日差しが照りつける。周囲には友達の笑い声、冷たい飲み物を片手に談笑する姿。しかし匠の顔には笑顔が無い。
(……あの声、まだ耳から離れない……)
背中を丸め、リュックの肩紐を握る。いくら若いとはいえ、連日の営みで内腿に走る疼痛が歩くたびに小さく響いていた。
(その五回は俺の五回、上限は無い)
「っ……!!」
遙が囁いた、まるで呪いのような言葉が匠をじわじわと追い詰めていく。そんな状態とは露知らず、友達が気さくに声を掛けてくる。
「おい、匠、今日昼どうする?」
「あ、あぁ……今日はあんま腹減ってねーから、パンでいいや」
無理やり笑顔を作るが、声が掠れているのが自分でも分かった。友達は笑いながらも、何処か心配そうに首を傾げる。
「何か、顔色悪くね?寝不足か?」
「だ、大丈夫……」
頭の奥では、氷のように冷たい幻聴が渦を巻く。
(俺以外の人間と楽しそうに話すな……)
「う……っ」
冷や汗が首筋を流れ、着ている服が酷く重く感じる。小さく深呼吸を繰り返しながら、友達の後ろを必死に追う。でも、何処かでまたあの影が現れるのでは。そんな恐怖が、ずっと匠の心を蝕んでいく。
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