22 / 30

逼迫(ひっぱく)

遙の家の玄関が静かに閉まる。そろそろ自分のアパートに帰りたかったが、許可無く勝手に帰ったら今の遙が何をしてくるか分からないので、匠は泣く泣く断念した。それに加え、今朝自分でしばらくは大人しくすると決意したばかりだ。 「ただいま……」 声はか細く、喉の奥で擦れた音になる。靴を脱ぐ手は小刻みに震え、指先の力が抜ける。 (無事に……帰ってこれた) 家の中に漂うコーヒーと洗剤の混じった匂い。それが妙に温かく、同時に冷たくも感じる。リビングへ一歩踏み出すたびに重い荷物が少しずつ下ろされるような感覚。胸がじわっと熱くなり、張り詰めていた呼吸が少し緩む。 (遙が居ないと、この部屋も平和だなぁ……) 廊下の壁に手をつき、ゆっくり息を吐く。 「はぁ……」 鼓膜には、まだあの低い声が貼り付いていて完全には振り払えない。 「だ、大丈夫……俺は何も悪い事してない」 小さな声で何度も自分に言い聞かせる。その声が、広い部屋に静かに反響する。 (後は……遙が帰ってくるのを待つ……でも、帰ってきたら……?) そう思った瞬間、少しだけ背中を丸め肩が僅かに震える。 「いやいや、今日は勝ち確だろ……」 密やかな安堵と止まらない恐怖の入り混じった、匠だけの小さな願い。不意にポケットの中身が振動したので急いで取り出し確認してみると、スマホ画面に浮かぶ短いメッセージ。 【今日は残業で遅くなる】 その文字を見た瞬間。 「ま、マジか……」 匠の全身から一気に力が抜ける。肩が落ち、吐息が床に溶けるように流れる。 (やったぜ……今日は安心して寝れる!) 時計を見ると、まだ19時過ぎ。遙の帰宅までは十分時間があると何故か確信した。 (久しぶりの自由だっ……!!) リビングのソファに座り込み膝を抱える。心臓の音がやっと落ち着いてきて全身に微かに安堵の熱が広がる。 (アイツが帰ってくるまで時間あるよな……せっかくだから好き勝手してやる!) 頬が緩み少しずつ笑みが戻る。しかし頭の奥では、遙の低く冷たい声が残響する。 (……俺が居ないのがそんなに嬉しいか) 一瞬、背中に寒気が走るがすぐに首を振る。 「大丈夫、奴はどうせまだ帰ってこない……!」 小さな声で何度も何度も自分に言い聞かせる。その声は、暗いリビングにポツンと落ちていく。 (ん……もうこんな時間かよ……) 何かやろう、と意気込んだが結局、某動画サイトに夢中になって、いつの間にか時計の針は午前1時を回っていた。 (……動画観て終わっちまったよ……せっかくの一人満喫タイムだったのに、俺のバカ……) 疲れ切った身体をゆっくりと起こし、寝室へ向かおうとしたその時。 玄関の開く音。 (うっ……帰ってきた……) ドクンッと心臓が跳ね、呼吸が止まる。足元がふらつくほどの恐怖と緊張で膝が震えた。意を決して廊下へ向かおうとしたその刹那。スマホのバイブレーションが唸りを上げる。突如鳴った振動音にビクッと肩が跳ね上がった。画面を恐る恐る覗くと、そこには【バカ遙】の文字。 (な、何で電話!?今帰ってきたんじゃねぇの?) 背後では玄関の扉がゆっくりと閉まる音がし、もう逃げる事は不可能、と宣告されている気分になった。空気が冷たく、重く、背筋に張り付く。指先が震え過ぎて、なかなか画面に触れられない。 (ワケ分かんねぇけど……とりあえず出るか……) 思い切って通話ボタンを押す。 「も、もしもしっ……?」 声は掠れ、喉の奥で詰まる。 『……やっと出たな』 低い声が、スマホ越しに響く。思わず背骨を這い上がる冷気に匠の指先に力が入る。頭が真っ白になり膝が小さく震える。 『……どうした』 「な、何で……」 言葉を吐くたびに喉が痛い。呼吸が荒く肺が押し潰されそうになる。 『ふふ……』 沈黙。一秒が永遠のように長い。背後では玄関を閉めた音がまだ耳に焼き付いている。 『……振り返れ』 「え……」 匠の手からスマホが滑り落ちそうになる。声を出そうにも、喉が硬直して動かない。そっと首を動かし振り返った先。そこには、スマホを片手に微笑む遙の姿。闇に溶け込み、青灰の瞳は深い底無しの狂気と甘い毒に満ちていた。 『……良い子にしていたか?』 耳に残る声と、目の前の声が重なる。 「う、うん……」 匠の声は震え、途切れ途切れに漏れる。喉の奥からやっとの思いで搾り出すような涙混じりの声。 「何も、無かった……いつも通り、大学行って……特別な事は何も……!」 顔は青ざめ目尻には薄い涙の光。細かく震える指が、ギュッと服の裾を握り締める。 「あ、そういえば……か、課題あるんだった……しばらく絵も描いてないし……でもアパートに戻らないと道具が無いから……だから……」 にじり寄る遙から逃げるように後ずさりしながら必死に言葉を重ねる。背中が壁にぶつかり、もう逃げられない。少なくとも眼前の男は逃がしてくれない。 「……だから?」 「た、たまには帰らないと、課題が出来ない……」 遙は静かに笑みを浮かべながら電話を切った。青灰の瞳が細まり、琥珀の瞳を射抜くような視線。 「……そうか」 「う、うん……ほんと……本当だって……!!」 遙は一歩ずつ近づく。足音が静かに軋むたびに匠の膝がカクカクと震える。 「……なら、一緒にアパートに帰って、必要な物を取ってきて、ここでやればいい。そんな事より……」 「っ……」 遙の手が顎に触れる。冷たく、逃げ場の無いその感触に匠は喉を詰まらせて息を呑む。 「ちゃんと良い子にしていたか、本当かどうか……証明して貰う……」 遙の声が、低く甘い毒を孕んで匠の鼓膜に絡みつく。 「えっ……」 匠の唇から情けなく漏れる声。掠れ、震えきった、思わず落ちた一言。 「なにそれ……どうすればいいんだよ……」 視線が彷徨い瞳孔が震える。喉が詰まって呼吸が浅くなり、肺の奥で細かく波打つ。遙の手が顎をしっかりと固定し、逃がさない。その冷たい手のひらに包まれた瞬間、匠の膝がガクッと揺れる。 「ま、待ってくれよ……俺、本当に……」 「……服を脱げ」 遙は、ほんの少しだけ顔を近づける。鼻先が触れるほどの距離、視界が遙の冷たい青灰に埋め尽くされる。 「は?……何言って……」 喉奥から、もう一度か細く搾り出される声。その声は全てを拒絶したいはずなのに、どうしても抗えない甘さを孕んで震えていた。

ともだちにシェアしよう!