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告白(こくはく)

「っ……うっ」 額に浮かぶ汗が夕暮れの光を鈍く反射する。荒い息が細く震え指先がシーツを掴む。 (……良い子でも……悪い子でも……ヤる事には変わらねぇ……) 呆然とした琥珀の瞳が虚空を彷徨う。何度考えても同じ結論にしか辿り着かない。喉の奥がきゅっと詰まり、掠れた吐息が漏れる。頬を伝うのは涙なのか汗なのか、それすら分からない。 「……うぅっ」 視界が滲み瞳が震える。全身を駆け巡る熱の余韻。そして、遙の冷たい声が何度も脳内で再生される。 (終わらない。お前が、良い子になるまでは……) 震える唇を噛む。押し寄せる羞恥と絶望の狭間で脳が揺れるような感覚。 (俺……もう……どうすればいい?) シーツに額を押し付け、小さな声が溶ける。 「……詰んでるじゃん……」 遠く感じる廊下。そこから一瞬でも音が響けば身体はまた勝手に震え、待ち受ける支配の温度に囚われる。 (誰かと話したい……) 震える指先でスマホの画面を操作する匠。緑のアイコンを押すだけで息が詰まって胸が苦しくなる。震えきった指先で、ようやく発信ボタンを押す。耳に当てた瞬間、明るい声が鼓膜に届いた。 『もしもし?電話なんて珍しいねー!!どうしたの?』 「いや……うん……」 『えっ……本当にどうしたの?何かあった?』 「俺……もう、どうしたらいいか……」 声は擦れ、泣き声混じりに崩れる。 『うん……落ち着いて、ゆっくり話してみて』 「も、もう俺……良い子でも……悪い子でも……どっちでも……!!」 涙が一筋、頬を伝う。そこからは決壊したダムの如く、溢れ出て止まらなくなった。男としてのプライドも一緒に流れるように、萌に縋る匠。 「……何をしても……結局、俺……もう分かんねぇっ……!!」 『匠くん……』 電話の向こうで萌は何かを感じ取ったのか、声を落ち着かせる。 『まずは深呼吸して。ほら、吸って……ゆっくり、長く、吐いて……』 少し過呼吸気味になっていた匠は、呼吸を落ち着かせようとする。しかし横隔膜が刺激され、しゃっくりが出てくる。 『大丈夫だよ、今横になれる?楽な姿勢になった方がいいよ』 「うっ、ひっ、ご、ごめん……っ」 『辛いね。話してくれてありがとう。でも、どうしてそんな状況になったの?』 「うっ……」 『言いたくないなら無理に聞かないよ。今、匠くんが凄く辛い事だけは分かった』 「うん……」 電話越しの優しい声に匠の心が少しだけ弛む。指先の震えは止まらないが、呼吸が徐々に落ち着いてきた。 「いきなりごめん……パニクっちゃって……」 匠の声は掠れ、喉奥に詰まるように細い。 『少しは落ち着いた?』 「多分……」 『うん、それならいいんだけど。……でさ、今の匠くんにとって一番大事なのは、自分がどうしたいか考える事かもしれないね……』 「え……でも……俺、怖い……」 『……うん、怖いのは当然だよ。でもね、それをちゃんと認めるのも、凄く大事な事だと思うの』 萌の声は、まるでふわふわの毛布みたいに柔らかくて暖かい。 『匠くんは、匠くんのままでいいんだよ』 「でも……遙はっ……!」 『……そっか。やっぱり、はるかさん絡みなんだね。よく知らないけど……強くて、怖くて、逃げられない!って感じがするかも』 「う、うん……」 思わず出した遙の名前。ギクリとしながら、萌にはお見通しなんだな、と思った。 『でもやっぱり、言葉にして伝えるのは大事。直接言えなかったら紙に書いてもいいよ。スマホのメモに打ち込むだけでもいい』 「……メモ……?」 『うん、それで十分なんだよ。それを見せるだけでも伝わるから、きっと』 「俺に出来るかな……」 『大丈夫、匠くんなら出来るよ!ちゃんと私とこうやって話せてる今の時点で、もう凄く頑張ってる!』 萌の明るい声に、匠の目に再び涙が浮かぶ。 『私は匠くんの味方だよ!……別に、はるかさんの敵って訳でも無いけど。何かあったら、また電話して。何回でも聞くから』 「ありがと……」 『えへへ、どういたしまして。今度、同人誌即売会あるから付き合って!荷物持ちとして!』 冗談っぽく言う萌に、小さく笑いながら了承して電話を切った。 通話を終えると、匠は震える手で自分のリュックの中からノートとボールペンを取り出す。そっとページを開いてみる。ペン先が紙に触れると指先が細かく揺れ、胸の奥が熱くなり喉が詰まる。再び呼吸を整えようとするが、全然上手くいかない。額から汗が伝う。 (でも、遙に直接言うのはもっと無理だ……) ゆっくりと掠れた文字で書き始める。 【怖い】 文字は歪んで滲み、涙の跡が紙に染み込む。 【嫌いじゃない、本当は嬉しいかも、けど苦しい、何でそんなに俺に執着してるか分からない、もうどうしたらいいか分からない】 書きながら、ペン先が止まるたびに呼吸が乱れる。 【それでも、こんな俺を好きと言ってくれる遙が、好き、なのかもしれない】 書き終えた瞬間、匠はペンを手から滑り落とす。肩が震え、胸の奥から小さな嗚咽が漏れる。 (……書いちゃった……) ノートを乱暴に閉じ、抱え込む。紙に書いて言葉にした事で、溢れ出す感情が胸を締め付ける。それでも小さく微笑むような、泣き笑いの表情が浮かぶ。 ひとしきり泣いた後、匠は震える指先で、ぐちゃぐちゃに泣きながら書いたページをゆっくり破る。その音が、やけに大きく部屋に響く。破いたページを両手で包むように抱え胸に押し当てる。心臓の音が、まるで鐘のように響く。 (……これで、もう後戻りは出来ねぇ) 机の上に殴り書きした紙をそっと置く。一歩離れて見つめると、文字が涙の跡で滲んでいた。しかし、もうそんな事はどうでもよかった。まるで絵を描き終えた後の達成感に似た気持ちで満ちていた。 (遙、読めるかな、これ……) 滲むインク、歪んだ文字。それは匠の全ての感情が詰まった、言わば最後の砦。部屋の空気が途端に重く感じる。呼吸するたびに喉が詰まり胸が痛い。ソファの端に座り込み、膝を抱え込む。出し切ったと思ったはずの涙が頬を流れ、静かに滴る。カーテンの外はすっかり夜の気配。時計の秒針の音が、やけに大きく響く。 夜の街を、白いワイシャツ姿で颯爽と歩く遙。高い位置で結われた長い銀髪がさらさらと揺れる。道行く女性がその姿に見惚れるが、遙の青灰の瞳には一切映らない。 (匠はちゃんと家に居るだろうか……) 昨夜も途中で理性が飛び、匠を殺してしまうのではないかと思うほど身体を重ねた。抑えようと思うのは最初だけ。いざ始まってしまうと抑えが効かない。僅かな罪悪感を胸に抱きながら、足早に家へ歩いた。 (今日こそは優しく……いや、しかし……) 暗いビル街を抜け、やっとマンションの前に辿り着く。エントランスを抜けエレベーターに乗り、上へ。匠が家に居る時、この待っている時間が酷く長く感じる。上層階に着き、自分の部屋の玄関を開ける為ポケットから鍵を取り出し、差し込む。静寂の中、扉を開く音がやけに大きい。中に入ると匠の気配をすぐに感じ取り、胸がドクン、と大きく跳ねる。 (早く抱き締めたい、触れたい……) 靴を脱ぎ、リビングへ向かう足取りは荒々しく重い。ふと、視界の端に机の上の破れた紙。何故か息が詰まり、足が止まる。 「匠……?」 呼吸が浅くなる。荒い息の間から漏れる声は低く震える。くしゃくしゃの紙を手に取り、書かれているのは滲んだ文字。遙の瞳がそれを捉えた瞬間、細かく青灰が揺れた。

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