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溺愛(できあい)

「……はるか……」 匠の声は掠れ、喉奥で割れるように呟く。頬にはまだ涙の跡が生々しく残り、濡れた睫毛が小さく震えている。ソファに座ったまま、膝をギュッと握り締める。琥珀の瞳で、視線だけが迷いなく遙をまっすぐに射抜く。薄暗い部屋の中、二人を包む静寂が心臓の音だけを際立たせていた。胸が詰まり、呼吸が乱れる。 「み、見た……?」 声が涙に滲む。脳裏では自分で書いた言葉が朧気に再生される。遙は無言で机の上の殴り書きのページを握ったまま立ち尽くす。微動だにせず、その青灰の瞳が細かく揺れている。匠の視界は霞んでいても遙の輪郭だけは何故か、はっきりと焼き付いていた。 「俺……もう、どうしていいか分かんなくなった……」 涙がまた一粒、落ちる。 「でも……遙が、好き……かも……」 破裂するような心臓の鼓動。濡れた瞳は、恐怖も苦しみも甘さも全部を抱え込んでいる。匠は少しの後悔に気づき、流れる涙を拭ってみせる。殴り書きの紙が遙の手の中でくしゃりと音を立てた。 「っ……はる、か……」 呼吸が引っかかり、上手く舌が回らない。その瞬間、遙がようやく一歩、二歩と匠に近づき、その身体をゆっくりと抱き締める。 「あ……っ」 言葉は一切無い。ただ遙の広い胸に包まれる。耳元に響くのは、穏やかに鳴る心臓の音。匠の身体が遙の腕の中で小刻みに震える。もう逃げる事も、抗う事も出来ない。しかし不思議と、拒絶の感情は何処にも無かった。 「う……っ……」 熱い涙がまた一粒、遙の着ている白いワイシャツを濡らす。遙の手はゆっくりと匠の背中を撫で、更に強く抱き寄せた。 (……あったかい……) 喉が詰まり、息が詰まり、胸が苦しいのに、そこにあるのは恐怖と安堵が溶け合ったような甘い痛み。遙の顔が匠の頬に触れ、低い吐息が耳に掛かる。 (な、何で何も言わねぇんだ……やっぱり読めなかったのか……?) 遙の腕の中で、息を詰まらせたまま震える事しか出来ない匠。背中を撫でる遙の手が酷く心地良い。遙はゆっくりと肩口に顔を寄せると低く、深い声で匠の耳奥を抉るように囁く。 「……結局、お前自身はどうしたいんだ?」 「……え……」 震える匠の喉から、か細い声が漏れる。 「俺がどうしたいとか、俺がどうするかじゃない。匠がどうしたいのか。それだけだ」 遙の声は静かで冷たい。その問いは、まるで氷の刃のように匠の胸を切り裂く。 「お、俺は……っ」 息を吸うたびに胸が潰れそうになる。指先が小刻みに震え、背中が小さく波打つ。遙に振り回されてばかりで、ずっと考える暇も無かった、自分の本当の望み。ただ流されるだけ、ただ恐れるだけ、ただ……欲しがるだけ。 「……おれ……っ」 声にならない声。潤んだ琥珀が、青灰を見上げる。遙は表情を変えず、ただ匠を抱き締めたまま視線だけで答えを待っている。遙の鋭い問いが、胸の奥に突き刺さったまま。浅い呼吸を繰り返しながら、脳内で必死に言葉を作る。匠は震える唇を必死に動かす。視界はずっと揺れて、頬を伝う涙が止まらない。 「ど、どうしたいか……わ、分かんない……っ」 ひたすら考え、頑張って紡いだ言葉は小さい。 「……で、でも……遙が……す、好き……」 更に蚊の鳴くような、か細い声で続ける。しかしそれは嘘偽りの無い本音だった。 「う、う……っ……」 指先が遙のワイシャツをギュッと掴む。震えながら、それでも離さない。 「…………」 遙は何も言わない。ただ、眉を僅かに動かして視線の奥で小さく何かが揺れる。 「ひっ……うっ……」 匠は涙を流しながらも、震える手を遙のシャツから離そうとしない。胸の奥から、ぐしゃぐしゃの愛と不安が溢れ出す。遙の手が、匠の震える肩をそっと包む。その瞳は青灰色に深い闇を湛え、微かに揺れている。 「……俺は、お前が思う好きとは違う」 低く、胸に沈むような声。優しさと残酷さが入り混じる響き。匠の身体が小さく跳ねる。睫毛が濡れ、視線が宙を彷徨う。 「……それでも良いか?」 静かな問い。けれど、その裏には変わらず支配と執着と狂気の愛が潜んでいる。 「っ……」 匠の唇が何度も開いては閉じる。喉奥がひくひくと震え、声にならない息が零れる。 (……同じじゃない……?) その言葉の奥にあるのは、唯一無二の遙だけの温度。 「それでも……いい……」 小さく掠れた声で、匠が絞り出す。 「……な、何となく分かってたし。それに……お前、異常だもんな……」 涙がまた一粒、頬を伝い落ちる。指先が遙のシャツを掴む力が強くなる。その言葉を聞くと遙はフッと笑い、ゆっくりと瞼を伏せる。 「……そうか」 短く、ただそれだけを呟き、更に強く匠を抱き締めた。 夜のリビング。ダイニングテーブルには匠がよそった温かいお味噌汁と、遙が作ったメイン料理。二人で向かい合って箸を動かす。 「……ん、美味い……」 匠がもぐもぐと頬を膨らませ、少し照れたように笑う。遙は無言で見つめながら小さく頷くだけ。食後は冷凍庫からアイスを取り出す匠。棒付きの、みかんの果肉がたっぷり入ったアイスキャンディーを口に入れて幸せそうに声を漏らす様子を、遙はじっと見守る。 「そんなに見んなよ……食う?」 「……口移しなら」 「……バカ」 匠が照れつつアイスを差し出すと、遙は無言で口を開け、舐める。その仕草に匠がクスッと笑う。その後、お互いに入浴を済ませてリビングに戻ると自然と隣に座り、ソファに寄り掛かる。 「今日は……何か、変な感じ……」 「……そうだな」 ただそれだけの会話。でも空気は柔らかく、暖かい。やがて、ゆっくりと寝室へ移動。ベッドに並んで横になると、匠が無意識に遙の胸元に頭を預ける。 「……おやすみ、遙……」 「……お休み」 夜の静寂の中、穏やかな寝息が重なっていく。何も壊さず、何も奪わず。ただ、一緒に息をする。そんな平和な夜が、深く溶けていく。 ……かと思われた。 二人同時に就寝してからしばらく経った。泣き疲れたのか、匠はもう既に、すやすやと気持ち良さそうに寝息を立てている。一方遙は、呼吸は一定だが理性の鎖を必死に繋いでいた。 (今日くらいは……寝かせてやろう……寝かせてやらないと……) 小さく息を吸っては吐き、何とか抑えようと毛布を力強く握る。しかし。 「……ん……」 小さな声が、闇の中で漏れた。寝返りを打つときに無意識に喉から溢れたそれは、あまりに甘く、柔らかい音。遙の背筋に稲妻のような震えが走る。 「……はるか……」 再び、寝言のように小さな声が響く。眉を寄せ、頬を赤らめ、毛布をキュッと掴む匠。 (……こいつは……本当に……) 遙の喉がひくりと上下し、熱された理性が徐々に音を立てて崩れ始める。目を閉じる匠の唇が僅かに開く。そこに遙の視線が突き刺さる。 (……誘ってる……いや、試してるのか?この俺を……) その場にあったはずの理性が完全に吹き飛ぶ音がした。匠の無意識の甘い声がトリガーとなって、遙の胸が欲を燃料に、真っ赤に燃える。 (本人は無意識……誘ってる訳ではない……) そう理解した。 (……だから何だ。無意識だろうが何だろうが、もう無理だ) 遙の身体が一気に動く。毛布を退かすと匠の顎を持ち、口付けた。 「ん、ふ……!」 唇が重なる。浅く触れるだけではない、遙の舌が匠の口内を支配するように絡み、奥の奥まで貪る。 (……ああ、堪らない……好きだ……) 鼻先が擦れ合い、荒い呼吸が混ざり合う。唇と舌が互いを引き寄せ、吸い合うたびに匠の背筋が震える。 「……はぁ……ん……やっ」 小さな抵抗の声は、遙の低い唸り混じりの吐息で掻き消される。遙の指が匠の顎を固定し、舌を更に深く差し入れる。匠の唇の端からは甘い唾液が零れ顎を伝って濡らす。青灰の瞳は細く鋭く光り支配の熱が滲む。目を覚ました匠が目尻に涙を溜めて酸素を求める。しかし遙のキスは更に深く、激しくなる。静寂を突き破る水音と熱い呼吸だけが部屋を満たす。 「はぁっ……んんっ!」 荒く乱れる二人の呼吸。身を起こした匠の唇は赤く濡れ、琥珀の瞳は潤んでいる。遙の手は匠の顎を掴んだまま。 (起こしてしまった……まぁ当然か) 遙の胸に、ほんの僅かの罪悪感が走る。 「っ……!」 匠は目を瞬かせている。呼吸は小さく引き絞られ、喉の奥でひゅっと空気を呑む音。 「……は、遙……?」 震わせた声。いつもの鋭いツッコミや反論は無く、ただただ驚きに塗り潰されている。遙は匠の唇を見下ろし、微かに噛み締める。 (優しいキスにすれば良かったか……いや、しかし……) 目を伏せる遙。ほんの少しだけ理性が戻り、胸の奥に微かな後悔の冷気が広がる。 「……済まない……寝かせてやろうと努力はしたんだが……」 低い声が掠れ、匠の頬に触れた指がゆっくりと離れる。一方で匠は頬を赤く染め、唇を震わせる。 「はるか……」 目を逸らす事も出来ず、ただ呆然と遙を見つめる。 「び、びっくりした……」 まだ余韻に揺れる匠の小さな声。呼吸が浅く、声が震える。それでも、一語ずつ絞り出すように続ける。 「けど……したいなら、してもいい……」 目は潤み視線は揺れながらも、まっすぐ遙に向かう。 「いっつも無理やりだったし……それに……俺達、両想い……なんだろ?」 最後の一言が、掠れてはいたが確実に遙の耳に届いた。その瞬間、遙の理性の「り」の字も残らず消し炭になった。 (……この可愛い生き物め……) 青灰の瞳が見開かれ、指先が震える。今にも匠を貪りたい衝動と、溢れる愛情が入り混じって暴れ回る。 「匠……」 低く憂いを帯びた声。まるで呻くような、抑えきれない感情が遙の心を満たしていく。喉が上下し、眉が寄る。次の瞬間、堪えていた腕を伸ばし匠を強く抱き締め、ベッドに組み敷く。匠の胸に顔を押し付けると、激しい心音が遙の耳に響いた。 「……そうだ。お前は俺のものだ。今日は優しく抱いてやる……」 遙の手が匠の頬を包むと、そっと優しいキスをした。

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