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第3話 知らない顔
書斎の隠し通路を抜けた先は、ひんやりとした空気が漂う、古い子供部屋だった。壁紙は月明かりに照らされ、かつては鮮やかだったであろう花模様が、今は亡霊のように白く浮かび上がっている。床には打ち捨てられた木馬や、埃をかぶった人形が転がり、まるでこの部屋の主が突然消えてしまったかのような、生々しい時空間の断絶を感じさせた。
部屋の奥、次の部屋へと続く小さな扉の前で、一人の少女が座り込んでいた。
半透明の、幼い亡霊。彼女は、膝を抱えて、声を殺して泣いている。その小さな手には、美しい彫刻が施された黄金の鍵が、強く握りしめられていた。
「次の鍵は、あれか」
蓮は、これは対話によってフラグを解除するタイプのイベントだと分析した。内心で「面倒だ」と舌打ちしつつも、最短でクリアするために、ゆっくりと少女に近づく。
そして、プログラムに打ち込むコマンドのように、感情を排した声で尋ねた。
「状況を説明しろ。なぜ泣いている? 目的の達成――つまり、その鍵を入手するために、俺たちが満たすべき条件は何だ?」
その、あまりにも事務的で、人の心に寄り添うことを放棄したかのような問いかけに、少女はびくりと肩を震わせ、さらに顔を膝に強く押し付けてしまった。
蓮は、眉間に皺を寄せる。
「おい、こちらの問いが理解できないのか? では、質問を変える。お前のその『悲しみ』という感情を解消するための、具体的な解決策を提示しろ」
蓮の、絶望的に下手なコミュニケーションに、陽はとうとう我慢の限界を迎えた。
「お前、こんな小さい子に怖すぎだから!ポンコツハッカー様は下がってて!」
陽は、蓮を強引に押しやると、今度は自分が少女の前にしゃがみ込んだ。その腰の落とし方は、驚くほど自然で、威圧感を全く感じさせない。
「ごめんね、怖いお兄ちゃんで。君、どうしたの?そんなとこで泣いてると、ママが心配するよ?」
陽が、いつもの人懐っこい笑顔で話しかける。その様子を、蓮は腕を組んで、冷ややかに観察していた。
少女は、陽の声に初めて、か細い声で答えた。
『……だから、だめなの』
「え?」
『わたしが泣いてると、ママが悲しくなっちゃうから……。だから、ここで、こっそり泣いてるの』
その言葉を聞いた瞬間、蓮は、陽の表情がわずかに変わったのを見た。
いつもの、人を食ったような軽薄な笑みが消え、一瞬だけ、何か遠い場所を見つめるような、蓮の知らない顔が、そこにあった。いつもと違う。軽薄な笑みの下に隠された、別の何かが、今、確かに顔を覗かせた。
(……なんだ、あの顔は)
蓮がその表情の変化をデータとして解析するよりも早く、陽は、ふっと、息を吐いた。そして、まるで壊れ物に触れるかのように、そっと包み込むように囁いた。
「……ママのこと、大好きなんだね」
『うん。大好きだから、ママには笑っててほしいの』
「そっか……。でもさ、ママは、君が我慢して泣いてくれなかったら、もっと悲しいんじゃないかな?」
『そうなの?どうして?』
少女が、不思議そうに小さな顔を上げる。その問いに、陽は、まるで世界で一番大事な秘密を打ち明けるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「君の心はさ、宝箱みたいなものなんだ。嬉しい気持ちも、楽しい気持ちも、全部、君だけの大事な宝物。もちろん、今みたいに『悲しい』っていう気持ちも、ね」
陽は、自分の胸を指差してみせる。
「ママは、その宝箱の中身を、君と一緒に見たいんだよ。嬉しい宝物が出てきたら一緒に笑って、楽しい宝物が出てきたら一緒に遊んでくれる。……じゃあさ、もし君が『悲しい』っていう宝物だけ、ずっとママに見せないで隠してたら、ママはどう思うかな?」
『……かなしい?』
「そう。きっと、すごく悲しい。『私のこと、信じてくれてないのかな』って、君が泣いているのを見るより、ずっとずっと、悲しくなっちゃうと思うんだ」
陽の言葉は、まるで優しい光のように、少女の心を包んでいく。少女は、握りしめていた鍵を少しだけ緩め、陽の目をじっと見つめ返した。
『でも……ママ、泣いちゃわないかな』
「大丈夫」
陽は、力強く、しかし、どこまでも優しく頷いた。
「ママは、君が思うより、ずっと強くて、優しいから。君が涙を見せてもきっと、『辛かったね』って、抱きしめてくれるよ。……だから、見せてあげな。君の、一番大事な、宝物を」
その言葉が、少女を縛っていた最後の呪いを解き放った。
少女の瞳から、それまで我慢していた大粒の涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。だが、その表情は、もう悲しんではいなかった。安堵と、感謝に満ちた、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「……ありがとう、おにいちゃん」
少女の身体が、ふわりと光の粒子に変わり、暖かな風のように部屋に溶けていく。
カラン、と音を立てて、黄金の鍵が床に落ちる。
陽は、鍵を拾い上げると、呆然と立ち尽くす蓮に向かって、これ以上なく得意げな顔で、鍵を掲げて見せた。
「どうだ、見たか!この、ど素人ハッカーが!」
書斎での蓮の台詞を、そっくりそのまま、意趣返しする陽。
「こういうのはな、理屈じゃないんだよ。心で! 解くんだよ、心で!」
蓮は忌々しげに舌打ちをした。認めたくはないが、今回ばかりは、陽のやり方のほうが、圧倒的に早く、そして「正しかった」らしい。
しかし――。
蓮は陽の顔をじっと見つめた。
「?なんだよ。なんか言えば?」
「……いや。てめえの無駄によく回る口も、たまには役に立つんだな」
「はあぁ?なんだその上から目線!素直に参りましたって言え!」
陽の文句を聞き流しながら、蓮は先ほど確かに見た、陽の表情を思い返していた。
一瞬見せた、遠い目。
あの表情が頭から離れない。
演技か? あの亡霊を攻略するための、計算された表情だったのか?
いや、違う。蓮の分析能力が、瞬時にそれを否定する。あれは、演技などという表層的なものではない。もっと……無防備で、こちらの胸がざわつくような、生の感情の断片だった。
蓮は、「ノンデリハッカーにはこの問題は早すぎたな!」と勝ち誇っている陽の横顔を、探るように見つめた。
鍵を掲げて得意げに笑う、今の陽の顔。その上に、先ほどの、全てを諦めたような、それでいて、何かを切に願うような、あの遠い目が重なる。
二つの表情が、頭の中で混ざり合う。
論理では、決して解くことのできない、矛盾。
(……何なんだ、これは)
解けない謎は、苛立ちと共に、蓮の心に奇妙な熱を残していた。
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