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第4話 共闘の回廊
二つの鍵を、目の前の重厚な扉に設けられたそれぞれの鍵穴に差し込む。蓮が持つ、冷たい質感の「論理の鍵」。陽が持つ、どこか温かみを感じる「感情の鍵」。二人が、無言のまま、同時に鍵を回した。
長い間動かされることのなかった蝶番が悲鳴を上げる。目の前に現れたのは、出口の塔へと続く、一本の古い石橋だった。眼下には、光も届かない奈落が口を開けている。
橋へ一歩足を踏み入れた、その瞬間だった。
背後で、地獄の釜が開いたかのような、凄まじい咆哮が響き渡った。
子供部屋があった場所から、壁を突き破って巨大な影が躍り出る。獅子の頭、山羊の胴体、そして蛇の尾を持つ、神話上の怪物――キマイラ。それは、この館の最後の番人だった。
キマイラの巨体が橋に着地した途端、その重みに耐えきれず、橋の一部が轟音と共に崩れ落ちた。ここは、戦うための舞台であると同時に、崩壊寸前の危険地帯でもあった。
陽が震える声で叫ぶ。
「やばい……でかすぎだろ、あいつ!あれと戦うわけ?勝てないって!」
「俺が奴の攻撃パターンと弱点を分析する。それまで時間を稼げ!」
「は!?オレが?!」
「てめえ、役者だろうが。アクションの一つや二つこなしやがれ!」
「無茶だって……ああもう!」
陽は腹を決めた。
「……やってやる!」
陽は、キマイラの注意を引きつけるべく、橋の上を駆け回った。獅子の口から放たれる灼熱の炎を、蛇の尾が薙ぎ払うのを、紙一重で見切っていく。
その間、蓮は橋の入り口に佇み、微動だにしない。その瞳は、猛り狂うキマイラの全ての動きを、驚異的な速度でスキャンし、分析していた。
「……見えたぞ、陽!」
蓮が叫んだ、まさにその時だった。
分析に集中する蓮という「脅威」に気づいたのか、キマイラの三つの口が、一斉に、彼に向かって開かれた。次の瞬間、炎と、呪詛の塊のような闇のブレスが、蓮が立つ一点へと集中する。陽が今まで避けてきた攻撃とは、比べ物にならないほどの、必殺の一撃。
「蓮ッ!!」
陽は、思考するより早く、蓮の身体を突き飛ばしていた。
「ぐっ……!」
蓮は、陽に突き飛ばされる形で、辛うじて攻撃の範囲外へと転がる。だが、その代償はあまりにも大きかった。
陽が立っていた場所の足場が、キマイラの攻撃によって完全に消し飛んでいたのだ。
「……あ」
体勢を崩した陽の身体が、宙を掻く。そして、なすすべもなく、奈落の底へと吸い込まれていった。
「――陽ッ!!」
蓮の口から、自分でも聞いたことのないような、剥き出しの絶叫が迸った。
彼は、転がった勢いのまま、地面を蹴って橋の縁へと跳躍する。落ちていく陽の、伸ばされた手。それを、蓮は、祈るような思いで、その指先で、かろうじて掴み取った。
「……っ、ぐ……!」
全体重がかかり、蓮の腕が軋む。橋の縁が、彼の身体の重みで、ギリギリと嫌な音を立てて崩れていく。
「蓮、手、離せ!二人とも落ちる!」
「……黙れ!」
蓮は、奥歯を食いしばり、ありったけの力で、その腕を引き上げた。陽の身体が、再び橋の上へと転がり込む。
二人は、肩で息をしながら、至近距離で、互いの瞳を見つめ合った。ゲームであることなど、とうに忘れていた。
「……奴の弱点は、山羊の胴体だ」
蓮は、今までとは違う、熱を帯びた声で言った。
「獅子が炎を吐いた直後、三秒間だけ、コアが露出する!そこを叩け!」
そこから先は、完璧な共闘だった。
蓮が「次が来る!右に二歩跳べ!」と叫べば、陽が炎を避ける。
「今だ!」と蓮が叫べば、陽が橋に落ちていた石礫を拾い、剥き出しになったコアへと、寸分の狂いもなく投げつける。
キマイラが苦悶の咆哮を上げる。その繰り返し。
蓮の完璧な分析と予測。陽の驚異的な直感と実行力。二つの才能が、今、完全に一つになっていた。
「次で、終わりだ!」
キマイラの最後の突進。蓮の指示に従い、陽は橋の欄干へと跳躍する。そして、空中から、最後の石礫を、怪物の心臓部へと、力強く叩きつけた。
断末魔の叫びと共に、キマイラは眩い光の粒子となって霧散した。
勝利の余韻と、死闘の疲労。二人が橋の上で肩で息をしていると、世界が、その姿を劇的に変え始めた。
それまで続いていた地響きが、ぴたりと止む。奈落の底へと崩れ続けていた橋は、その場で静止した。不気味に垂れ込めていた暗雲は、まるで早送りのように流れていき、その向こうから、現実ではありえないほど美しく、荘厳なデジタルの夜明けが顔を出す。荒れ果てた古城の風景が、光の中に輪郭を失っていく。どこからともなく、悲壮なBGMから、勝利を祝福するかのような、壮大なオーケストラのファンファーレへと音楽が変わっていた。
「……すご……」
陽が、呆然と呟く。
やがて、目の前の空間に、洗練されたデザインの文字が浮かび上がった。
『TUTORIAL CLEAR』
『- CONGRATULATIONS -』
その文字を最後に、世界は真っ白な光に包まれ、二人の意識は、急速に現実へと引き戻されていった。
プシュー、と軽い音を立ててポッドの蓋が開く。現実の、無機質なドーム状の部屋に、二人の荒い息遣いだけが響いていた。
先に口を開いたのは、陽だった。その声は、興奮で上ずっている。
「やばい……マジでやばいって! おい蓮、見たかよ今のエンディング! 映画の世界じゃん!」
ソファに倒れ込みながら、彼は子供のようにはしゃいだ。
「グラフィックも、空気感も、全部が本物だった! あのキマイラの質感とか、マジで鳥肌立ったんだけど!」
蓮もまた、ポッドからゆっくりと身を起こす。その瞳には、陽とは違う種類の、しかし、同じ熱を帯びた興奮が宿っていた。
「……ああ。物理演算の精度が、異常だ」
彼は、自分の指先を見つめながら分析する。
「AIによるプロシージャル生成とは思えねえ。サーバーの応答速度も、ほぼゼロレイテンシだった。崖から落ちたお前を引き上げる時の、あの腕にかかる負荷のフィードバック……一体、どんなエンジンを使っているんだ……」
「それな! だからあんなギリギリの連携もできたのか!」
価値観も、物事の捉え方も全く違う二人。だが、「とんでもないゲームを体験した」という、ゲーマーとしての純粋な感動だけが、今、この瞬間、二人を強く結びつけていた。
アンケート用紙には、二人とも、全ての項目に最高評価をつけ、感想欄には伝えきれない興奮を書きなぐった。ロビーを抜け、外に出る。先ほどまでの喧騒が嘘のように、二人の間には、同じ冒険を乗り越えた者同士の、心地よい沈黙が流れていた。その時だった。
「――お二人さん、ちょっとええかな」
背後から、穏やかな声がかけられた。
振り返ると、そこに上質なツイードのジャケットを着こなした、人の良さそうな老人が立っていた。
「今日のテスターの中でも、君らのプレイは特に目立っとったで。ほんま、見事なもんやったわ」
ゆったりとした関西弁。突然現れた重要人物らしき男に、陽は素直に頭を下げる。
男は満足そうに頷くと、悪戯っぽく片目を瞑った。
「わしは、こういうもんや」
そう言って差し出された名刺には、ただ一人の名前と、『プロジェクト・キマイラ 作者』という肩書だけが記されていた。
「作者……?」
「君らみたいなプレイヤーを、ずっと探しとったんよ」
男は、にこりと笑う。その笑顔はどこまでも優しげなのに、蓮には見えていた。男の瞳の奥で、決して消えることのない好奇心と、そしてほんのわずかな狂気の炎が、静かに揺らめいているのを。
「帰る前にもうちょっとだけ、わしの道楽に付き合ってもらえへんやろか?」
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