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第6話 追跡

(……このまま、行かせるかよ) 数秒の硬直の後、蓮の思考は内省から、冷徹な追跡(ハント)へと切り替わった。今、この場で感傷に浸っているのは、最も非合理な選択だ。目の前の、壊れかけている男を、まずは安全な場所へ隔離する。そして、敵の尻尾を掴む。やるべきことは、明確だった。 「陽」 蓮は、背後で震えるルームメイトに、短く、しかし強い口調で告げた。 「先に寮に戻れ。いいな、誰とも話すな。部屋から一歩も出るな」 「え……、れん……?」 「いいから行け!」 有無を言わさぬその声は、突き放すような響きとは裏腹に、陽をこれ以上危険な領域に留めておきたくないという、焦りそのものだった。陽はびくりと肩を揺らし、おびえたような目で蓮を見つめた。だが、今の蓮に、彼を気遣う言葉をかける余裕はない。陽がこくりと頷いたのを確認すると、蓮は踵を返し、ためらうことなくビルの外へと駆け出した。 ガラス張りのエントランスを飛び出すと、夕暮れに染まる街の雑踏の中に、ツイードのジャケットを着た老人の後ろ姿を捉えた。男は、大通りに滑り込んできた一台の黒いセダンに、悠然と乗り込もうとしている。 (逃がさねえ……!) 蓮は、周囲の視線も気にせず、車道を横切り、セダンの数台後ろで、空車のランプをつけた別のタクシーのドアに手をかけた。 「前の、あの黒いセダンを追ってください」 息を切らしながら告げると、運転手は、高校生のただならぬ様子に、面倒くさそうに眉をひそめた。 「はぁ? 冗談だろ、坊主。ドラマの見すぎか?」 「冗談じゃありません」 蓮は、運転手の言葉を遮るように、財布から万札を抜き出して、助手席のコンソールに叩きつけた。 「あれに乗ってる男に、連れが……酷い目に遭わされた。お願いします。言い値で払いますから」 蓮の目に宿る本物の殺気に、運転手は何かを察したのか、短く舌打ちをした。 「……チッ、面倒なことに巻き込むなよ、坊主……。シートベルト、しっかり締めとけ」 文句とは裏腹に、その足は、静かに、しかし力強くアクセルを踏み込んだ。 追跡が始まった。 黒いセダンは、都心の複雑な道を、まるで熟練の逃亡者のように滑らかに進んでいく。時折、不自然な車線変更を繰り返す。明らかに、追跡を警戒している動きだった。 (……素人じゃねえな) 蓮は、タクシーのシートに深く身を沈めながら、冷静に状況を分析する。あの男の背後には、相当な規模の組織がついている。今回の接触も、計算され尽くした計画の一部なのだろう。 30分ほど走っただろうか。セダンは、高層ビルが立ち並ぶビジネス街の一角で、とあるビルの地下駐車場へと、吸い込まれるように消えていった。 「ここまででいいです」 蓮はタクシーを降りると、紙幣を運転手に渡し、足早に駐車場の入り口へと向かう。だが、その入り口は、契約車両以外は入れない、頑丈なゲートで固く閉ざされていた。監視カメラが、赤い光で、不審な侵入者を睨めつけている。 「……チッ」 万事休すか。 だが、蓮は諦めなかった。スマートフォンのカメラで、ゲートのシステム、そして、遠目に見える範囲の駐車場の構造を、数枚、写真に収める。今は、これが限界だ。 重い足取りで、寮への道を戻る。手に入れた情報は、あまりにも少ない。だが、ゼロではない。そして何より、蓮の心には、あの男への明確な敵意と、解き明かすべき「謎」への、昏い興奮が生まれていた。 自室のドアを開けると、部屋は、しんと静まり返っていた。 電気もつけず、真っ暗な部屋。ソファの隅に、陽が膝を抱えるようにして座っているのが、窓から差し込む月明かりでぼんやりと見えた。その姿は、まるで世界から切り離されてしまったかのように、ひどく小さく、脆く見えた。 蓮は、無遠慮に部屋の電気をつけると、そのソファへとまっすぐに歩み寄った。 「陽」 名を呼ばれ、陽の肩が、小さく震える。だが、彼は顔を上げない。 蓮は、そんな陽の様子を意に介することなく、淡々と告げる。それは決定事項であり、議論の余地はないという響きを持っていた。 「あの男……『作者』と名乗るあの野郎の身元を割り出す。目的も、俺たちの情報をどこから手に入れたのかも、全部だ」 「手始めにお前からだ。家庭環境について、詳しく話せ。お前の家族構成、最近の身の回りの変化。どんな些細なことでもいい。それが、奴への唯一の侵入口(エントリーポイント)になる」

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