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3.クズ彼氏から逃げ出したい ※
「遥、お前……どこ行ってたんだよ」
低く押し殺した声に、思わず立ち止まる。
背中越しに視線を感じた。振り返る気にもなれない。
「……別に」
それだけ答えると、すぐさま声が返ってきた。
「は? “別に”ってなんだよ」
「……」
「言えねえことしてたってことか? ――だったら、ちゃんと罰受けろよ」
そう言った彼の目は、まったく笑ってなかった。冗談のニュアンスも、優しさも、どこにもなかった。
「ほら。さっさと脱げよ」
その瞬間、背筋に冷たいものが這い上がる。
脅しでも冗談でもないことは、長く一緒にいた自分が一番よく知ってる。
「やだよ、今日は……」
かすれた声でそう言って、一歩だけ身を引いた――
その瞬間、腕を乱暴につかまれて、バランスを崩す。
気づいたときには、背中がベッドに叩きつけられていた。
「やめろって……!」
精一杯の声で叫ぶ。でも、彼はまるで聞いていなかった。
「うるさい。お前は黙って抱かれてりゃいいんだよ」
吐き捨てるような声に、背筋が凍る。
いつものことだとわかってるのに、心臓はまだ慣れてくれない。
逃げようとしても、手首をがっちりと押さえつけられて、身動きが取れない。
重くて、苦しくて、言葉が喉に詰まった。
「や、やめ……ろって……」
「ほら、こうすれば気持ちいいんだろ?」
「……やめろっつってんだろ……!」
なんか――目がヤバい。
冷たくて、どこか狂ってる。見てるこっちの方が息が詰まりそうになる。
「い、いやだってば……!」
かすれた声が震える。視界の端が滲んで、じわっと涙が浮かんだ。
でも彼は、そんなの見ても何ひとつ変わらない。聞く気なんか、最初からない。
叫び声と怒鳴り声がぶつかり合って、部屋の空気がどんどん濁っていく。
「……俺の言うこと聞かねえと、もっとひどい目見るぞ?」
低い声。無感情なようでいて、その奥に滲む何かが、ただただ怖い。
わかってる。いつもこうだ。
でも今回は、特に――胸の奥がひやりと凍る。
動こうとしても、押さえつけられた身体はびくともしない。
ただ、ぎゅっと目を閉じて、耐えるしかなかった。
どっか遠くで、時計の針が進む音がした気がした。
時間なんて止まってしまえばいいのに――そう思ったくせに、ちゃんと過ぎてるのが妙にリアルで、嫌だった。
天井をぼーっと見上げながら、俺はただ震えてた。
何にも考えたくなくて、考えられなくて。
心のどこかで、「早く終われ」って、そればっか願ってた。
……静かになったのは、少しあと。
怒鳴り声も、暴れる音も、もうしない。
代わりに残ったのは、重くて気まずくて、やけに静かな空気だけだった。
*
翌日も、同じことが繰り返された。
「……やめろっ、痛い……って!」
「なんで抵抗すんだよ?」
恋人の声は低くて、どこかヒステリックに震えていた。
その手が、俺の首にかかる。息が詰まりそうで、全身が固まった。
「お前が黙らねぇからだ。ちゃんと、俺のルール思い出せよ」
ぐっと首を締める力が増して、
視界がぼやけ、苦しさに思わず肩が跳ねた。
「ほら……顔見せろよ」
その顔が近づくたびに、心臓がバクバク鳴って、怖くて目を逸らした。
――何かを壊そうとするみたいに、奥へ奥へと入り込んで、俺のすべてを無理やり引き裂いていく。
どれだけ時間が経ったのか、わからない。
苦しさも、痛みも、とうに通り過ぎて、感覚が薄れていく。
静まり返った部屋の中で、俺はただ、空っぽのまま横たわっていた。
何もできず、ただこの絶望に押し潰されそうになりながら――
抗う気力すら残っていない自分が、そこにいた。
――翌朝。
ぐったり横たわる俺を一瞥することもなく、彼は無言で出かけていった。
ぼんやりとシャワーを浴びようとバスルームに向かい、何気なく鏡を覗いた瞬間、息が詰まる。
赤く腫れた痕、爪が食い込んだような引っかき傷。
胸元に散らばったその跡は、生々しすぎて、思わず目をそらした。
「っ、くそ……」
身体の節々が鈍く痛んで、だるさが骨にまで染みる。
肺の奥がギュッと締めつけられるみたいで、呼吸も苦しかった。
心のどこかが、じわじわと崩れていくのがわかる。
音もなく、でも確実に。
限界なんて、もうとっくに通り過ぎてたのかもしれない。
――お前の恋人さ、好きな相手にそんな顔させてて、平気なのかな。
なぜか、あいつの言葉が頭に浮かんだ。あのイケメン、カッコつけ野郎。
――俺だったら、大事な人にはそんな顔させないけどな。やっぱ、笑っててほしいし。
初対面であんなこと言えるなんて、マジで変わってる。だけど、妙にまっすぐで、ずるいくらい優しかった。
――なぁ遥。……またなんかあったらさ、ちゃんと言えよ。俺、力になるから。
助けてほしいなんて、きっと言えない。
でも、もしもう一度だけ会えたら――
そのときは、俺の話、また聞いてくれんのかな……なんて。
俺の恋人は――クズだ。
そんなの、とっくにわかってた。見ないふりしてただけだ。
……やり直せるのかも、なんて。
ほんの一瞬、そんな期待が頭をよぎる。
でもすぐに、それを打ち消すみたいに口が動いた。
「――無いな」
その言葉が、自分で思った以上に冷たくて、やっと実感が追いついた。
スーツケースに最低限の荷物を詰め、無言で部屋を出た。
手の中の合鍵が、妙に重たく感じる。
玄関の鍵を閉めると、「ガチャン」という音が小さく響いた。
その音を聞いた瞬間、胸の奥で何かが静かに、はっきりと終わった気がした。
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