4 / 36

4.偶然って、たまには悪くない

マンションを出て、大通りへ。 足が勝手に前へ進むけど、行き先なんて決まってない。 ――さて、どこ行こうか。 電車かバスで、適当に郊外まで逃げるか……。 仕事は辞められない。生活は続けなきゃならない。 でも、貯金はもうない。あいつに全部、吸い取られた。 財布に残ってるのは、ほんのわずかな現金だけ。 頼れる人も、帰る場所も、今はどこにもない。 「……ネカフェか。まあ、しばらくはそれだな」 自分に言い聞かせるように呟く。乾いた笑いが喉の奥で消えた。 とにかく、駅まで行こう。それから先のことは、その時に考える。 駅前の広場に出た瞬間、じっとり蒸し暑い風が顔をなでた。 行き交う人、どこかみんな、よそよそしい。 自分だけがこの世界から少しズレてしまったような、そんな感覚に襲われる。 少し離れたベンチに目をやると、胸の奥にわずかなざわめきが走った。 そうだ、あの時も、あのベンチだった。 「……なんで今、思い出すんだよ」 ぼそっと呟く声は、自分でも驚くくらい、かすれていた。 明るい髪に、場違いなくらいキマったスーツ。 思わず二度見するレベルのイケメンで―― なのに、声をかけてきたときはやけに気さくで、でも目だけがどこか優しかった。 無遠慮なくせに、やたらとこっちの様子を見てきて。 あの夜、あの人に全部見透かされた気がしたんだ。 ほんの少し話しただけなのに、あの人の言葉は、まっすぐ胸にきた。 優しくされたのなんて、いつぶりだったっけ。 ……あーあ、結局、俺こんなとこに立って何やってんだか。 そんなふうに自嘲しかけたとき、ふと耳に入ってきたのは、ちょっとした揉め事の声。 タクシーの脇で、運転手と誰かが言い合いしてる。 周りの人たちはみんな気づかないふりで通り過ぎていく中――なぜか、俺だけが立ち止まってた。 ――どうでもいいや、って気持ちが、逆に人を動かすこともあるんだな。 なんとなく足が向いて、そのまま声をかけてた。 「すみません、何かあったんですか?」 「ん? ああ、このバアサンが無賃乗車しやがってよ。降りた瞬間に逃げようとしたんだ」 「……え?」 運転手が怒気まじりに言い放ったその横で、小綺麗で品のあるお婆さんが、少し困ったようにこちらを見つめた。 「逃げるつもりなんかないのよ。お財布、家に忘れちゃって……孫がすぐそこの会社で働いてるの。そこに行って借りてくるって言っただけなのに」 「そんな話、誰が信じるかよ。あんた、言い訳してそのまま消えるつもりだったんじゃねぇの?」 ――なんとなく、話の流れは読めた。 けど、このお婆さんが“逃げようとした”ってのは……どうにもピンとこない。 服装もちゃんとしてて、どこか上品な雰囲気。 ちょっと天然っぽさはあるけど、話し方はハキハキしてて、なんだか可愛らしい。 それに、嘘をついてる人の目じゃない。 「運転手さん、料金はいくらですか?」 「……4600円ですけど」 「わかりました。俺が払います」 財布から五千円札を一枚抜いて、運転手に手渡した。 「はい。これで。お釣りは要らないんで」 「えっ、あ、……ありがとうございます!」 さっきまでとは打って変わって、運転手はペコペコ頭を下げてから車に戻り、さっさと走り去っていった。 残されたのは、俺とお婆さんだけだった。 「まあ……本当に助かったわ。ありがとねぇ。すぐそこの会社に孫がいるのよ。ちゃんとお金、返すから」 「……いや、大丈夫ですよ。そんな困ってるわけじゃ……」 「だーめ。それは私の気が済まないの。さ、こっちこっち!」 そう言って、お婆さんは思った以上に軽やかな足取りで、俺の腕をぐいぐい引っぱって歩き出した。 「孫はね、とっても真面目で良い子なの。でもちょっと変わっててね……」 「はあ」 「今日も怒られるかしら。あっ、着いたわ。ここ」 目の前に現れたのは、見上げるほど大きなビル。 ガラス張りの立派な建物には、有名な映像制作会社のロゴが掲げられている。 「ここで、お孫さんが働いてるんですか?」 「そうよ。この時間なら、きっと中にいるわ」 出入りする社員らしき人たちが、ちらりとこちらに視線を向けながら通り過ぎていく。 エントランスの中へ入ると、明るくて清潔感のある空間に、企業紹介のパネルや映像が並んでいた。 お婆さんは受付の人に何やら手慣れた様子で話し、すぐこっちに戻ってくる。 「ちょっとだけここで待っててね。すぐ呼んでくるから」 そう言って、笑顔のままエレベーターに乗り込んでいった。 俺は近くのソファーに腰を下ろして、ふぅっと息をつく。 ……にしても、すごい会社だな。設備もデザインも、まるでドラマのセットみたいだ。 なんだか、場違いなとこに来ちまった気もするけど。 けど、もし今日あの場所に行かなかったら、お婆さんとも出会わなかった。 タクシー代を肩代わりするなんて、普段の自分じゃ考えられないけど。 でもまあ、たまにはこういう偶然も悪くない。 そんなふうに思えた自分に、少しだけ驚いた。

ともだちにシェアしよう!