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5. 通りすがりに心、奪われました

side 神谷 拓実(かみや たくみ) 俺は、|神谷 拓実《かみや たくみ》。都内にある大手映像会社の社長をしてる。 秘書は雇ってない。スケジュール管理も資料作成も、できる範囲は自分でやる主義だ。 もちろん手が回らない時は、信頼できる部下に任せるけど―― まあ、それなりに回ってる。多分。 今日も朝からバタバタしてて、気づいたら時計の針は16時を回っていた。 「神谷社長、あの件、僕がやりますよ」 「……いや、大丈夫。俺がやる」 つい、いつもの癖でそう返してしまう。 人に任せるの、得意じゃないんだよな。 社長って立場になってから、頼られることは増えたけど―― 不思議なもんで、それに反比例するみたいに、“誰かに頼る”のがだんだん難しくなってきた。 「社長、たまには人に甘えてくださいよ。余計なことまで背負いすぎですって」 以前、若手社員にそんなことを言われたっけ。 あの時は笑って流したけど、実はちょっと刺さってた。 ……甘える、ね。 できるもんなら、とっくにやってる。 コーヒーをひと口。立ち上がって、窓際に歩く。 ビルのガラスに、沈みかけた空と、自分の疲れた顔が映っていた。 ふと――思い出す。 あの夜のこと。 ――駅前のベンチで、眠ってたあいつ……遥。 コンビニの帰り道、なんとなく駅前を通ったとき、視界に入った。 うずくまるように座ってる男。顔はよく見えなかったけど、どう見ても普通じゃない空気だった。 最初は酔っ払いかと思った。 「……ちょっと、おにいさん?」 声をかけると、ゆっくり顔を上げた。 疲れ切った目。けど、その奥にあるものが妙に気になった。 なんていうか――無防備すぎて、ほっとけなかった。 「寝てたけど、大丈夫?」 なるべく柔らかい声で言うと、彼は少し戸惑いながらも答えた。 「……あ、俺……疲れてただけ。ごめん、声かけてくれてありがとな」 その瞬間、なにかが引っかかった。 ただの偶然だったのに、俺はその場を離れられなくなってた。 「俺も座っていい?」 「ああ、どうぞ」 隣に腰を下ろして、さりげなく様子をうかがう。 なんか、限界きてる感じがした。顔色も悪いし、目の奥が焦げてるような疲れ方。 「……で、なんかあったの? 悩み事とか」 訊いた瞬間、表情が一瞬だけ曇った。 「……まあ、ちょっとな」 そう答えたあいつは、どこか諦めたみたいな声だった。 こんなふうに誰かに話しかけられるのを、ずっと待ってたんじゃないかって思えるくらい。 レジ袋から缶チューハイを取り出して、ひとつ差し出す。 「そうだ、酒飲める?」 「……ありがと。ちょっとだけ、もらう」 肩の力が抜けてく様子を見て、なんとなく安心する。 こいつ、多分めちゃくちゃ繊細で、でも自分を押し込めてきたんだろうなって――そういう匂いがした。 「えっと、お前、名前は?」 「俺? 拓実。開拓の“拓”に、“実る”でタクミ。そっちは?」 「……|遥《はる》」 “はる” その名前を聞いた瞬間、ちょっと驚いた。 柔らかくて、どこか遠くまで続いていきそうな響き。 「“遥”って響き、柔らかくて優しそうでいいじゃん。字も、なんか綺麗だし」 心からそう思ったし、自然に口に出てた。 会話の流れで、遥の恋人の話になった。 最初は普通に話してたけど、だんだんと表情が変わっていくのが分かった。 「……でも気づいたら、相手の顔色うかがって、機嫌損ねないように、って……」 それって、たぶん、かなりしんどい状態だよな。 何も言わずに聞いてると、遥が少しだけ目を伏せて言った。 「……俺、自分が我慢してれば、うまくいくと思ってた。でも……酷いこと言われたり、されると……」 聞いてて、正直腹が立った。遥にじゃなくて、そんな顔させる相手に。 「お前の恋人さ……好きな相手にそんな顔させてて、平気なのかな」 ぽつりとそう言うと、遥は言葉を失ってた。 たぶん、自分でも思ってたことなんだろう。 「俺だったら、大事な人にはそんな顔させないけどな。やっぱ、笑っててほしいし」 これも、素直な本音だった。俺が惹かれてるのかもしれない、なんてことをこの時はまだ認めたくなかったけど。 遥は少し戸惑ったあと、小さく笑った。 それが、思った以上に――可愛くて。 「お、やっと笑ったじゃん。……かわいい顔」 言ってから「やべ」って思ったけど、遥のツッコミは意外と軽くて、空気が少し和らいだ。 帰ろうとする遥の表情を見て、思わず声が出た。 「……遥、本当に、大丈夫か?」 返事を待たずに、気づいたら――抱きしめてた。 ふわっと香る匂い、少し固まる身体。 でも、逃げなかった。 「なんかさ……気になっちゃって。お前のこと」 ごまかすつもりで軽く言ったけど、本音だった。 スマホを忘れて連絡先も交換できず、ちょっとだけ残念そうな顔をした遥。 でも、その夜は、ふたりで笑って、少しだけ肩の荷を下ろしたみたいな顔をしてくれた。 ほんの偶然だった。 でも――あれは間違いなく、心に焼きついた夜。 まさか、あんなふうに一瞬で人を気にする日がくるなんてな。 ……正直、自分でもびっくりだよ。 と、その時―― コンコン、と控えめなノックの音が社長室に響いた。

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