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8.家出スーツと、名前のない逃げ道

「……俺、ちょっとまだ、頭が追いついてねえんだけど」 「あはは。そうだよな」 遥がふと思い出したように、鞄から封筒を引っぱり出す。 「……あ、そうだ。これ、気持ちはありがたいけどさ。御礼にしちゃ多すぎるし、やっぱ受け取れねーわ」 封筒を差し出してきた遥の手を、そっと押し戻す。 「いいんだって。遥がばあちゃん助けてくれなかったら、警察呼ばれて、俺が現場に駆けつける羽目だったんだ」 なるべく軽く言ったつもりだけど、タクシーで揉めてる映像でも流されたら――笑えねぇどころか、会社の命取りだった。 「そうなのか」 「……うん。会長がタクシー無賃乗車とか、マジで洒落になんねーの。会社の信用、一発で吹き飛ぶからな」 そう言いながら遥の顔を見ると、そいつは小さく唇を引き結んでた。なんとも言えない、微妙な表情。 「だからさ、遥は俺のことも助けてくれたんだよ。その御礼」 「……うん。拓実……あのさ、」 「なに?」 「この前はありがとな」 少し間が空いて、遥がぽつりと呟く。 「いや、いいよ」 軽くそう返したけど、俺の視線は自然と、さっきから気になってたスーツケースに向いてた。 「それよりさ、その荷物……この前言ってた恋人とは、別れたの?」 訊いてから、少し後悔した。余計な詮索だったかもしれない。 でも遥はしばらく黙ってから、小さく口を開いた。 「……いや、別れたわけじゃない。ちょっと色々無理になって。逃げてきたっていうか……黙って家、出てきた」 「……そっか」 それしか言えなかった。いや、今は何も言うべきじゃない気がした。 「……このスーツもさ、家出するとき、わざと着たんだ」 「え?」 「私服だと、いかにもって感じで目立つからさ。スーツなら、仕事帰りっぽく見えるし、どこ向かってても誰も気にしねーかなって」 「なるほどな……確かに、言われてみりゃ自然かも」 思わず頷きながらも、胸の奥が少しだけ苦くなった。 そこまで考えて、計算して、黙って家を出たってことだ。見つからないように、気づかれないように。 「……バカだろ、俺」 遥がぽつりと笑って言った。けど、目はまったく笑ってなかった。 「逃げてるくせに、格好だけまともに整えてさ。中身ぐちゃぐちゃなのに」 「いいじゃん、それで。ぐちゃぐちゃな時ぐらい、見た目だけでも整えておけば、ちょっとはマシに見えるだろ」 そう言ってやったけど、自分の声がやけに軽く響いた気がした。 遥は一瞬、俺の顔を見たあと、またふっと目をそらした。 「……拓実、マジでいいヤツだよな」 「うん、惚れてもいいよ?」 冗談っぽく言ったら、遥が「ふはっ」と笑った。 全部を聞いたわけじゃない。けど……スーツケース引いて出てくるなんて、そう簡単な話じゃない。 ただのケンカして、一晩二晩、頭冷やそうってレベルじゃねぇだろ。 「行くとこ、あんの?」 そう訊いたら、遥の顔がまたあの時みたいな、張りつめた感じになった。けど、今はもっと深いとこで沈んでる目をしてた。 「……あるよ、友達んとこ」 声は静かで落ち着いてたけど、なんか、無理して出してる感じ。 ――嘘だな。 頼れる人がいるなら、なんでこの前、ひとりで駅前のベンチにいたんだ。 「さすがにあの部屋には戻りたくねえしな……」 遥がぽつっとこぼした。軽く流したつもりなんだろうけど、全然笑えてねぇ。 声の奥に滲んでたのは、諦めと……もういろいろ疲れきってる感じだった。 「……っ、」 何か思い出したのか、遥が胸のあたりを無意識に押さえたのが目に入って、思わず息をのんだ。 さっきからちょっと顔色悪いなとは思ってたけど――急に苦しそうに息を詰めて、肩が震えてる。 「おい、遥、大丈夫か?」 反射的に駆け寄って、隣に腰を下ろした。そっと手を伸ばして、肩をさすってやる。 「ごめん……」 遥が絞り出すような声でそう言った。 「スーツ、苦しくない? シャツも……ちょっと前、開けた方が楽かもな」 無意識にそう口にしながら、俺はそっと遥の胸元に手を伸ばした。 少しでも楽にしてやりたかった。暑さか、締めつけか――どっちにしても、このままじゃちゃんと息もできなさそうだった。 「っ、…め、」 止めようとしたのか、遥がかすれた声をもらす。でも、うまく言葉になってない。 ボタンを二つ、三つ――外したところで、俺の手が止まった。 「……っ」 目に飛び込んできたのは、胸元に残るいくつもの痣。爪か、打撲か……いや、それだけじゃない。鬱血したような色、皮膚に刻まれた傷跡。 ……なにがどうなったら、こんなふうになるんだ。 無意識に眉間に皺が寄った。やばい。顔に出た。 すぐにハッとして、ボタンを留め直す。俺の手が見たこと全部を隠すように、丁寧に。 「……ごめん、見たくなかったよな」 そう言った遥が目をそらす。 「いや、こっちこそ悪かった」 遥はたぶん、限界だったんだ。ただ、ひたすら耐えてる。吐きそうなほど苦しいくせに、誰にも頼らず、一人で。 「落ち着いたら、送ってくよ」 遥の呼吸が少し落ち着いてきたのを見て、そう声をかける。まだ顔色は悪いけど、さっきよりはマシだ。 「え? いや、そこまではいいって」 慌てたように手を振る遥。でも、無理して笑ってるのがバレバレだった。 「じゃあさ、とりあえず飯でも食わね?」 「……は?」 キョトンとした顔で見上げてくる。ほんの少しだけ、肩の力が抜けたように見えた。 「帰るついで。付き合えよ、晩飯くらい。腹減ってんだろ?」 遥はちょっとだけ目を泳がせて、でもすぐに視線をそらした。 「……まあ、食えなくはないけど」 「だろ。なら決まり」 俺は立ち上がって、遥に手を差し出した。なんも言わずに、そいつはその手を取った。 無理に笑わせようとか、元気づけようとか、そういうんじゃない。 俺ができることなんて、たかが知れてる。 でも、せめて――これ以上、こいつが一人で震える時間だけは、終わらせたかった。

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