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9.高層階の夢と地上の現実
side 一ノ瀬 遥(はる)
高級ホテルのレストランなんて、今まで一度も縁がなかった。
しかも高層階。思ってた以上に静かで落ち着いていて、窓から見下ろす街の灯りがまるで別世界みたいだった。
「……やば、普通に緊張してきた」
「ふはっ、大丈夫だよ」
ドアマンがいて、店内は静かで、照明も程よく落ちていて――
最初は完全に場違いだと思って、正直、逃げ出したかった。
「なんか落ち着かねえ……。なぁ拓実、俺、浮いてねーかな」
「ちゃんとスーツ着てるから、誰も気にしてないって」
拓実は落ち着いた口調でそう言って、俺の背中を軽く押した。
なんだろう、こういう場所に来慣れてる感じっていうか――
所作ひとつひとつが無駄にかっこよく見えるのが悔しい。
……悔しいってのも変か。
けど、あの余裕のある空気を身にまとって、自然に人を守るみたいに振る舞えるのってすげぇなって思った。
「とりあえず、食事は楽しむもんだよ」
「……あ、うん」
しかし、だ。
メニューを開いた瞬間、思わず目が泳いだ。
ワインが一杯数千円。コース料理なんて、俺の一週間の食費より高い。
「……なあ、ここ、普通に高すぎじゃね?」
「俺が出すって言ったろ」
「そうだけどさ……」
出版社で働いてるとはいえ、俺の部署は地味な編集管理部。取材に出るわけでも、記者会見に行くわけでもない。
ずっと社内でデスクに向かって、校正やら進行管理やら、そういう作業ばっかだ。
こんな、煌びやかな店には似合わない。
……なんて思いつつ。
「わ、うま……」
「うん。美味いね」
出てくる料理は文句なしに美味くて、久しぶりに“食べる”ってことにちゃんと向き合えた気がした。
食事中も、拓実は特別なことは何も言わなかった。
ただ、料理の説明に少し反応して笑ったり、俺が緊張して水ばっか飲んでたら「ワインにしとけ」って、さりげなくフォローしてくれたり。
会話はあくまで普通。でも、心が少しずつほぐれていく感覚があった。
食べてる間はちょっとだけ――色々、忘れられた。
けど、会計で拓実がブラックカードを出してあっさり支払うのを見て、また現実に引き戻された。
……こいつは、俺と住む世界が違いすぎる。
そして、レストランを出たその瞬間、地獄は始まった。
「あれぇ? 一ノ瀬じゃん、お前こんなとこで何してんの?」
振り返らなくても、誰の声かすぐにわかった。
俺が最も関わりたくない上司。
……主任の佐野。
やたら声がでかくて、人を見下すのが日課みたいな男。
うちの案件にもよく口を出してくるくせに、締切も仕様もろくに理解してない。
どこにでも現れる癖に、よりによってこんな場面で遭遇するとか、運が悪すぎる。
俺が配属された頃からずっと、何かと目をつけられていた。
指示が二転三転するくせに、確認すると「聞いてないのか?」「空気読めよ」が口癖。
言い返すと「生意気だな」「可愛げがない」とくる。
「お前、こんなとこで何やってんの?」
「……夕飯、です」
「へぇ、こんな高級ホテルで? お前が?」
佐野主任の目が、露骨に俺の足元から頭の先まで這うように動く。
自分より下だと思ってる人間には、好き勝手に出るタイプの男だ。
「こんなとこ、お前の給料じゃ来れないだろ。誰のおごり? あ、そっちのイケメンの彼氏? ホストか何かなの?」
「違います」
「おーおー、反応だけは早いな。お前、編集部の人間だよな? 地味な進行管理のくせに、こんなとこでねえ……」
その声は周囲の客にも普通に聞こえるレベルで、俺は一瞬、店に戻りたいくらいだった。
「何も出来ないやつがなぁ。この前も、提出した校正ミスあったよな? あれ、俺が部長にフォロー入れといたけど? 」
「……」
嘘だ。
あのときは、俺が部長に直接謝って、資料を再提出してる。
佐野は何もしてない。なのに、こうやって外でも“恩”をちらつかせてくる。
「ってか、一ノ瀬って普段すげえ真面目ぶってるけど、こういうとこで奢ってもらってデートしてんだ? 分かりやすいよな、顔さえ良けりゃついてくるって」
「……やめてください」
佐野は笑ってる。でも、その目は笑ってない。完全に“下に見てる目”。
「冗談だって、冗談。ていうか、そんな怖い顔しなくても。まさか、このイケメンにだけは好かれたいとか思ってんの?」
「……」
その瞬間――拓実が俺の腕を軽く引いた。後ろにそっと隠すように。
「すみません、こちら、プライベートなので」
拓実は淡々と、でも冷たく言い放った。
「なんだお前――」
「失礼します」
俺の背中をそっと押して、拓実は佐野を無視して歩き出す。
「ちょ、なに、無視かよ? お前、名前なんていうの? え、なんか名刺とか――」
「遥、行こう」
そう言って、拓実が俺の腕を引いた。
「一ノ瀬って、結局あれだろ? 守ってくれる男がいないと無理なんだよな」
佐野の声が響く。本人は“冗談”のつもりらしい。言っていいことと悪いことの区別がつかないタイプだ。
「なんか、家とか行ったらすげー大人しくしてそう。想像つくわ」
俺の手は、さっきからずっと震えていた。
悔しくて、腹が立って、でも何も言い返せなくて。
「……遥」
俺の名前を呼んでくれた。手のひらには拓実の温度が残ってて、少しだけ……泣きそうになった。
――拓実って、なんかズルいな。
涼しい顔して、スマートに守ってくれるとか、マジでずるすぎる。
俺の惨めさが、なんか逆に浮き彫りになった。
けど、少しだけ――救われた気もした。
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