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10.優しさの重さに、泣きそうな夜
シティホテルのロビー。
高い天井に、ほどよく抑えられた照明。
スーツ姿の人間が忙しなく行き交う中で、俺だけがぽつんと浮いてる気がして、落ち着かない。
「ここで待ってて」
そう言って、拓実はフロントの奥へと消えていった。
……ああいう場所、さらっと歩けるの、やっぱすげぇな。
数分後、戻ってきた拓実は、カードキーを俺の手に押しつけるように渡した。
「遥はしばらく、ここに泊まって。部屋取ったから」
「はぁ?」
思わず変な声が出た。けど、拓実はまったく動じずに続けた。
「住む場所、ないんだろ? しばらくって言っても、数日程度でいい。落ち着いたら出ればいいから」
「……ちょ、待って、なんで」
思いっきり顔に出たんだろう。拓実は小さくため息をついて、俺の目をまっすぐ見た。
「顔に出てた。行くとこもない、帰りたくないって」
「……そりゃ、帰っても……地獄なだけだから」
つい、口をついて出た言葉に、自分で驚いた。
言いたくなかった。言うつもりもなかった。
けど――わかってたんだ、拓実は。
「……恋人と別れたら?」
「今それ言う? ……てか、そんな簡単じゃねえんだよ」
彼氏がクズなのはわかってる。でも、今すぐ全部投げ出せるほど強くもない。
あいつから離れたら、行く場所なんてひとつもないって、バレてるのが悔しかった。
「……一時避難ってことでいいよ。別に、引っ越せって言ってるわけじゃない」
淡々と、でも突き放す感じでもなく、拓実の口調は妙に心地よくて――そのまま、逆らえなかった。
……たぶん、俺が拒めないの、わかってて言ってるんだろうな。
部屋のカードキーを受け取って、エレベーターに乗る。
「ここだよ」
広くて綺麗な部屋。ホテルなのに、無人のモデルルームに放り込まれた気分だった。
「じゃ、俺は帰るな。何かあったら連絡して」
拓実が踵を返した、そのとき。
「……待って」
気がついたら、そう言ってた。
「せっかくだし……もう少しだけ、話さね?」
背中に向かって投げた言葉に、拓実がゆっくり振り返る。
「話すって、何を?」
「……別に、なんでも。静かすぎて、落ち着かねえんだよ。広いし」
笑うでもなく、言い訳でもなく。ただ、それだけの理由で引きとめた。
けど――
「……わかった」
拓実はあっさりと、ドアの前から戻ってきた。
「ちょっとだけな」
その返事が、なんか少しだけあったかく感じた。
*
ソファーに腰を下ろして、少しだけ深く息を吐く。
拓実は部屋のテーブルにミネラルウォーターを置いて、壁にもたれるように座った。
「……遥の彼氏、お前のこと探してないか?」
「さあな」
少し黙ってから、ぽつりと続けた。
「俺がどこで働いてるかも知らないし。たぶん、興味がないんだと思う」
「……」
拓実の視線が、一瞬だけ鋭くなった気がした。
「俺の趣味も、仕事も、好きな食べ物も聞かれたことねぇし」
「そういうの、恋人って言わないだろ」
低い声でそう言われて、なんとも言えない気持ちになった。
「俺、男と付き合ったの初めてだったし。なんかさ、あいつ、俺の顔が好みだって……」
「あー……お前、顔可愛いもんな。だから変なの引き寄せちゃったか」
……いや、拓実みたいなイケメンに言われたかねえし。
「でも、別れようとするとすぐ怒鳴るからさ……なかなか切れなくて」
「怒鳴られたくないから、黙って耐えてたのか」
図星を突かれて、何も言い返せなかった。
「……正直、もうあそこには帰りたくない」
「帰らなくていい。だから、ここ取った」
「……でもさ、こんなとこ泊まるの、もったいねえよ。落ち着かねえし」
「その話、実は先の事も考えてある」
「……え?」
拓実が視線を外しながら、さらっと言った。
「マンスリーマンション、借りる。お前のために」
「は!? ……ちょ、待って」
「家具とか揃ってるし、設備もある。荷物少ないならすぐ移れるだろ。ネカフェよりマシじゃね?」
一気にまくし立てるように言われて、頭がついていかない。
「いや……そこまでしてもらう理由、なくない? 俺、お祖母さん助けたくらいしか……」
「それはもう関係ない」
拓実の声が、少しだけ優しくなった。
「……あれとは別。お前のこと、気に入ってるだけ」
一瞬、時が止まったような気がした。
目を見開いたまま言葉が出てこなくて、気まずい沈黙が落ちる。
「気に入ってるって……どういう」
「そのまんまの意味」
少しだけ笑って、拓実が水を一口飲む。
「俺、別に優しいわけじゃないよ。どうでもいいやつに、ここまでやらない」
……心臓がうるさい。なんか、変な汗出てきた。
「……ほんとに、感謝してもしきれないな」
「別に感謝はいい。でも、頼るのが下手なままだと損するぞ、お前」
「……っ」
拓実の言葉が、やけに胸に刺さった。
少しだけ泣きそうで、でも泣きたくなくて、視線を逸らす。
そんな俺に、拓実は何も言わず、ただ黙って横に座った。この静けさが、今はありがたかった。
「……拓実」
気づけば、名前を呼んでいた。
「ん」
拓実は俺の方を見ない。なのに、気持ちはぐっと引き寄せられる。
「さっきの、気に入ってるってやつ……あれ、冗談じゃない?」
静かに、けど冗談に聞こえないように訊いた俺に、ようやく視線が向けられる。
「冗談で、部屋借りたりしない」
「……だよな」
俺はソファーの背に肘をかけて、少しだけ体を拓実に向けた。距離が、数センチだけ縮まる。
「拓実って、こういうの……慣れてる?」
「どういうの?」
「……人に、優しくするの。こんなふうに、何も言わずに助けてくれるの」
拓実は少し眉を上げて、それからふっと笑った。
「そう見える?」
「見えるっていうか……ズルいよな」
ぼそっと言った俺の言葉に、拓実はすぐ返さず、ふっと鼻で笑った。
「ズルいって、何が」
「タイミングとか、距離感とか……全部うまい」
「お前が鈍いだけだと思うけど?」
「は?」
「俺、最初からけっこうわかりやすかったと思うけどな」
まじまじと顔を見てくるその目が、真っ直ぐすぎて、また心臓がざわつく。
「それに……お前が泣きそうなの、俺だけが気づいてるって思うと、ちょっと嬉しい」
「……っ、なんだよ、それ、最低」
「そう?」
拓実は、やっぱり少しだけ笑って、俺の髪にそっと手を伸ばした。指先が、軽く耳の横をなぞる。
「お前って……泣く前、目が潤むんだな」
「見んなよ……」
「泣いてもいいよ? 俺、平気だし」
「……泣かねえよ」
強がって答えると、その指がふっと離れて、代わりに肩に手が置かれる。
「じゃあ、泣かない代わりに、甘えていい」
「……はぁ。だから、そういうの。言い慣れてるだろ」
「いや、遥限定だけど」
「……!」
冗談かと思ったのに、目がマジだ。
やばい、恥ずかしくて逃げたい。でも逃げたら、触れてくれたこの手のぬくもりまで消えてしまいそうで――
「……ちょっとだけ、こうしてて」
無意識に、拓実の肩にもたれる。
拓実は驚いたように一瞬だけ動きが止まったけど、すぐに当たり前みたいに背中に手が回ってくる。
「うん。わかった」
耳元に響いた低い声に、胸の奥がじん、と熱くなった。
黙ったまま、俺はその手の中に、自分を預けた。
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