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②すり減る心と、見て見ぬふり

夜、拓実が部屋に来た。 ソファーに並んで座って、俺は缶チューハイを片手にぽつりと話し始める。 「佐野ってさ、例のシティホテルで俺らのこと見下してきたやつ。あの主任のことなんだけど」 軽く言ったつもりなのに、口にしただけでムカつきがぶり返す。 「……で、今日の朝会でさ。俺、構成ミスって怒られたんだよな」 「へぇ、お前が?」 拓実は隣で静かにグラスを揺らしてて、氷がカラカラと鳴ってた。 「でも、ほんとは俺のせいじゃねえのに」 「……どういうこと」 背もたれに体を預けながら、ゆっくりと喉を潤す。 「本当の原因は佐野なの。『先頭ページ変えろ』って指示してきたんだよ、メールで。そしたら段組崩れて、入稿遅れた。でもそれ、全部俺のせいにされてた」 言葉にしながら、だんだん腹の底がじんじんしてくる。 「言い返そうとしたんだけどさ……空気、あるじゃん。“もう喋るな”って圧。ひとこと発しただけで、逆ギレしてるとか思われんのも目に見えてるし」 視線は、テーブルの上から動かせなかった。 拓実は何も言わず、俺を見てる。 「……正直、ムカつくってより、“あ、無理だこれ”って思った。怒る気力すら湧かないのが一番しんどいって」 拓実はしばらく何も言わなかった。 そして、ぽつりと一言。 「……スマホでもなんでもいいから、録っとけよ、次から」 「録音てことか?」 「うん。メールの指示もスクショで残しときな。証拠さえあれば、いざって時に黙らせられる。周りがどう見ようと、事実があれば逆転できるから」 その静かな声に、不意に覚悟を突きつけられた気がした。 「お前、完全に舐められてる。……悔しいよな。だから、準備だけはしとけ。ちゃんと反撃できるように。」 慰めでも、怒りでもない。 ただ“味方の言葉”だった。まっすぐで、あったかくて、刺さらないで沁みてくるやつ。 「……拓実、ありがとな」 「礼なんかいいよ。……でも、ちゃんと見返してやれよ」 静かな夜に、缶を置く音が、コトンと響いた。 *** 今日もまた、佐野主任に何も言い返せなかった。 帰り道、スマホを入れたポケットをずっと握りしめてた。 手のひらがじっとり濡れてるのに、それでも離せなかった。 録音アプリは起動してた。ちゃんと音も入ってて、証拠になる。それは、わかってる。 ……でも、全然スッキリなんかしなかった。 帰ってきてドアを閉めて、すぐソファーに倒れ込んだ。息が詰まりそうで、大きくひとつ、空気を吐き出す。 気づいたら、スマホを手に取ってた。 通話履歴の一番上にある名前。 ──拓実。 指が止まったまましばらく動けなかったけど、何かが溢れそうで、通話ボタンを押した。 「……もしもし」 「ああ、遥? どうした」 その声を聞いた瞬間、張り詰めてたものが、ぷつんと切れた。 言葉を選ぶ余裕なんてなくて、気づいたらこぼれてた。 「今日……また、主任にやられてさぁ……」 「……うん」 いつもより優しい声だった。一度、ぐっと息を吐いてから続けた。 「……録ったんだ。全部。“自覚ない奴は病気”だの、“顔だけはいいから営業行け”だの……俺に聞こえるように、わざと言いやがった。全部、スマホに入ってる」 拓実は何も言わずに、じっと耳を傾けてくれてた。 「……そうか。えらいじゃん。よく頑張ったな」 たったそれだけの言葉なのに、不意に、喉が詰まった。 頑張ったなんて思ってなかった。むしろ、情けなくて、悔しくて。 でも、“えらいじゃん”って言われた瞬間、どうしようもなく、涙がにじんだ。 「録ったって……だから何だよ、って思っちゃって。証拠にはなるけどさ、あの空気も、バカにされた感じも……俺の中からは、消えてくれねえんだよ……」 感情を押し込めるように、唇を噛んでた。 でも、声が震えるのは止められなかった。 「誰も助けてくれなかったしな。聞いてたのに、目そらして、見なかったふりしてさ……。“ああ、また一ノ瀬か”って、そんな顔してた」 スマホを持つ手がかすかに揺れる。 「なんで俺だけが、こんなに責められるんだよって。ミスもしてねえのに、“空気”だけで全部背負わされてさ……」 息が苦しかった。言葉にするたび、胸の奥がじくじく痛んで。 「……なあ、拓実。 “うまくやる”って、どうやんの? 傷つかないようにって、どうすればいい? 強くならなきゃって、毎日思ってんのにさ……俺、全然強くなれねぇよ?」 それは、ただ誰かに聞いてほしかっただけの声。弱音なんかじゃなくて、本音だった。 沈黙のあと、拓実の深く落ち着いた声が返ってきた。 「……遥、それ、明日渡せ。録音」 「え……?」 「……いいのか?」 「いいも悪いもない。お前がこれ以上我慢すんの、俺が無理。潰れそうになってんの、見てらんねぇよ。絶対、なんとかする」 その言葉が、一瞬だけ胸に染みた。 拓実ってこういうとき、感情ぶつけてこないけど、ちゃんと“向かって”くる。 「……ありがとな」 その一言を絞り出したあと、スマホをぎゅっと胸に抱きしめた。 少しだけ、息がしやすくなった気がした。 俺の言葉を、まっすぐ聞いてくれるの、たぶん拓実だけだ。

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