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③まだ見ぬ戦いの、始まりの夜

「一ノ瀬、ちょっと来い」 昼休みが終わって間もないタイミングで、またあの声がかかった。声の主は言うまでもなく――佐野主任だ。 俺は、机の上の資料に目を落としたまま、ほんのわずかに眉をひそめる。 ……またかよ。 内心で舌打ちしながらも、無言で書類を整えて立ち上がった。 ようやく午後の特集案に集中しようとしていた矢先だったのに。 指示も理由もなく、ただ「来い」と言われて従わされることに、もはや驚きも反発もなかった。ただ、鬱陶しい。そう思いながら、佐野主任のあとをついていく。 向かった先は、会議室でも上司のデスクでもなかった。 佐野がまっすぐ進んだ先――そこは給湯室だった。狭くて、人目も少ない“密室”だ。 「お前さぁ、最近ちょっと図に乗ってね?」 いきなり、それだった。 「……は?」 反射的に声が出た。 「いやさ、俺の指示に素直に従ってるように見せかけて、裏じゃ編集長に直接報告してるだろ? “佐野主任の指示は不明確で困ってます”って」 「……いえ、そんなことしてません」 確かに最近、編集長と話す機会が増えていた。 でも、それは編集長の方から「ちょっと最近の進行どう?」と声をかけてくれたからで、決して佐野を告げ口したわけじゃない。 「俺に内緒であれこれやるの、癖になってんの? お前みたいな新人以下のやつが、俺を出し抜けるとでも思ってんの?」 佐野はさらに一歩踏み込んできて、距離が一気に縮まった。 狭い給湯室だから、少し寄られるだけで壁が背中に当たる。 「お前さぁ、世の中の仕組みわかってねぇよな。上と直接やり取りできるのは、俺みたいな立場のやつだけなんだよ」 「……そう、ですね」 声のトーンを落として、反発しないように返す。 ――でも、わざわざ人目のないところで、こんな話をするあたりが姑息すぎる。 「そうですね、じゃねぇんだよ」 佐野の声が低くなり、すぐ耳元に落ちた。 息がかかる距離に、背筋がわずかにこわばる。 「俺を敵に回すと、どうなるか……わかってんのか?」 内心では“くだらない脅しだ”と吐き捨てている。でも、顔には出さない。 「……気をつけます」 佐野は鼻で笑い、にやりと口角を上げた。 「それでいいんだよ」 そう言い残し、佐野は先に出ていった。 バタン、とドアが閉まる音が響く。 給湯室にひとり残された俺は、目の奥が熱くなるのを堪えながら、深く息をついた。 * 夜。 玄関のインターホンが鳴り、仕事帰りのスーツ姿のまま、俺は少し疲れた表情で顔を上げた。 「お疲れ様、遥。入っていい?」 インターホン越しに聞こえる、あの穏やかな声。 ドアが開き、拓実が現れる。 リビングで俺の姿を見ると、少しだけ目を細めた。 「会いたかった、遥。あ、“お邪魔します”が先か」 「……お疲れ」 「お前、マジで疲れてんな。せっかくの可愛い顔が台無し」 「は? 何言ってんだよ、いきなり……」 顔が熱くなるのをごまかすように視線を逸らしたけど、拓実は平然とソファーに腰を下ろして俺の方を見てくる。 「んで、今日は何があった?」 「……別に、いつもと同じ。佐野主任にちょっと言われただけ」 「“ちょっと”って顔じゃなかったけどな」 拓実の声はいつも穏やかだ。でも、こういう時だけ、少し低くて真っ直ぐになる。 その目を正面から見られると、嘘がつけない。 「……“お前、調子に乗んな”とか、“逆らったら終わりだぞ”とか。まぁ、いつもの感じ」 「あいかわらずだな。ちょっとで済ませていい内容じゃないんだけど?」 そう言って、拓実が俺の隣に座る。 肩に回された腕が、ぐいっと俺を引き寄せてきた。 「……ちょ、待っ……汗かいてるし、スーツのままだし……」 「知ってる。でも、今日くらい黙って甘えとけ」 「甘えるとか、別にそんなんじゃ——」 「遥」 名前を呼ばれて、言葉が止まる。 「……俺はお前に無理してほしくねぇの。頑張るのも、耐えるのも、もう十分やっただろ?」 静かに囁かれて、胸の奥がきゅうっとなった。 「少しだけ、俺に任せてくんねぇかな?」 「え……?」 「職場のこと。直接何かするわけじゃねぇけど……佐野ってやつには、ちょっと礼儀を教えないとな」 「……それって、どういう意味で?」 「秘密。けど、いつかあいつの顔色が変わる瞬間、ちゃんと見せてやるよ。俺の隣で」 拓実はそう言って、俺の頭に軽くキスを落とした。 驚いて顔を上げると、にやっと笑った拓実が、冗談みたいなトーンで言う。 「ていうかさ、遥。もっと俺に頼れよな? 強がってるのも可愛いけど、俺は甘えてくれる方が、正直もっと好き」 「……うるさい。そういうとこだよ、マジで」 軽口のつもりだったのに、拓実はまったく動じず、むしろ笑っている。 「で、どうする? 今日はさ、俺が帰るって言ったら、“行くな”って言って引き留める?」 「……言わねーよ」 「言わないんだ?」 拓実の唇が、こめかみにそっと触れる。 「……言うかも」 その瞬間、拓実が満足そうに笑った。 俺の背中に回された腕が、少しだけ力を込める。 ふっと息を吐いて、身体を預けた。 ——壊れる前に、こうして拓実がいてくれるって、すげー安心する。 夜はまだ終わらない。 けど、こいつがそばにいるだけで、不思議と、心の中に光が灯る気がした。

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