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⑥反撃、始動

社内に、一通の封書。差出人はわからない。 宛名は編集部の上層部――その時点で、ただ事じゃないと感じた。 中には、佐野主任によるパワハラや業務妨害を告発する文章。 しかもそれは、感情的な訴えではなく、日付や状況、会話の内容まで細かく記された“確実な証拠”だった。 同じタイミングで、複数の社員から過去の音声データや記録が提出されたという。 そしてその中に、俺が密かに録音していた会話の一部が混ざっているのを見つけた。 知らないうちにそれは丁寧に編集され、わかりやすい形にまとめられ、裏付けの資料として仕上げられていた。 ……拓実だな。 こんな手際で動けるのは、あいつしかいない。 さらに追い打ちをかけるように、神谷メディアの関連会社から「労働環境に関する企業調査を行いたい」という申し入れが届いた。 その企業名を見て、俺は息を止める。 ――神谷ホールディングスの傘下だった。 「調査」と聞いただけで、会社は慌てて対応を始め、佐野主任には即座に“自宅待機”の指示が下る。 「一ノ瀬、お前まさか……何かやったのか?」 帰りがけに同僚がこっそり訊いてきた。 「いや、俺は何も」 ほんとに何もしてない。ただ、拓実に話しただけだ。 辛かったことも、過去のことも、あの時震えてた自分のことも。 それを覚えてて、全部拾って、こうやって仕返ししてくれた。 ……てか俺、マジで何もできてねえよな。 それが、情けなくて、ちょっと悔しい。でも。 同時に、嬉しかった。 *** 佐野が呼び出されたのは、翌週の月曜。 向かった先は、神谷メディア本社ビルの応接室だった。 あとで人づてに聞いた話だが―― そこにいた黒いスーツの男が、無表情のままファイルを開き、低く落ち着いた声でこう告げたらしい。 「この件について、確認したいことがいくつかあります」 そのファイルには、佐野の発言が日付ごとにびっしり並んでいた。 暴言、職権乱用、部下への圧力、業務妨害…… 本人は“無意識”だったつもりでも、全部証拠付きで押さえられていたらしい。 「お、俺は……そんなつもりじゃ……!」 「では、こちらをご覧ください。あなたの発言が録音されたデータです」 ……そのやり取りのあと、佐野は真っ青な顔で部屋を出たそうだ。 そして今日――編集部では、こんな声が飛び交っている。 「……なあ、聞いたか? 佐野主任、異動っつーか……左遷らしい。こっちには戻ってこないって」 机に向かいながら、その言葉を聞いて、俺は心の中で小さく息を吐いた。 ……全部、拓実の仕込みだ。 編集部の休憩室が、朝からざわついていた。 「一ノ瀬くんも関係あるらしいよな?」 「いや……特に何もしてないって」 曖昧に笑って、紙コップのコーヒーをひと口。 こうなることはなんとなく予想してたけど、想像以上にあっさりだった。 あの横暴だった佐野が、背中ごとスッと消えたみたいに。 ……拓実、マジでやったんだな。 駅前のベンチで見上げた、あの冷たい夜空と、拓実の声を思い出す。 たった一言で、どれだけ救われたか――今でも忘れられない。 「すみません、一ノ瀬さん……ちょっと、応接室へお願いできますか?」 「……俺?」 「はい。来客が。神谷 拓実さんという方です」 その名前を聞いた瞬間、危うくコーヒーを吹き出しそうになった。 「た、拓実が!?」 慌てて席を立ち、心臓をバクバク鳴らしながら応接室へ向かう。 ドアを開けた瞬間――そこには、スーツ姿の拓実が静かに立っていた。 わずかに口元をゆるめ、俺を見ている。 「今日はちょっと、社としての話もあって来たんだ」 「……え?」 「うちのグループで、新しい雑誌媒体の立ち上げを計画してる。出版部門の編集長に、遥、お前の名前を挙げた」 「はあああっ!? ちょ、待て待て待て!」 「もちろん今すぐってわけじゃない。でも、移籍も視野に入れてって伝えてある。会社間でも話は進んでる」 ……頭を抱えた。 なんでこう、いきなり人生動かすようなことをサラッと言うんだ、こいつは。 「勝手すぎるだろ! 俺の意見、聞いてねえし!」 「遥が今の職場にそこまで未練あるなら、止めないよ。ただ――」 拓実の目がすっと細くなる。 「今のお前を潰すようなやつを放置する場所に、これ以上いさせたくねえ。それだけだ」 言葉が喉の奥に引っかかって、返せなかった。 「俺の立場使って、やりたい放題って思ったかもしんねえけど……遥が助けを求めない限り、俺は動かない」 「……じゃあさ、今の話。これはなんだよ」 思わず問い返すと、拓実は口元だけで笑った。 「お前さ、自覚ないだろうけど――顔に書いてあったよ。“助けてくれ”って」 そう言いながら、拓実は俺の頭を軽くくしゃっと撫でた。 ……ズルい。本当に、こういう時の拓実は反則だ。 「遥、お前……もっと自分のこと、ちゃんと大事にしていい」 「……」 「俺に助けられたとか思わなくていい。ただ、俺は――お前に、笑っててほしいだけだから」 心のどこかが、じんわりと熱くなる。 「……ありがとう」 たった一言しか、返せなかった。 だけど、きっとこいつには――全部、伝わってる気がする。 *** 拓実が帰ったあと、編集部はもう大騒ぎだった。 「神谷メディアの社長って……あの人だったのかよ!? マジで超イケメンじゃん!」 「一ノ瀬、すごくね? どんな関係なんだよ!」 「誰だよ、芸能人とかホストとか言ってたやつ……社長だったじゃん!」 俺は苦笑いしながら、自分のデスクに戻った。 “なんかあったらさ、ちゃんと言えよ。俺、力になるから” あの夜、拓実がくれた小さな約束。 次のステージに向けて、ちゃんと準備しなきゃな。 ただ逃げるだけじゃなくて、自分の力で立つために。 そんな気持ちを抱えながら、スマホを見ると拓実からメッセージが届いていた。 “佐野には気をつけろ。まだ終わってない。俺たちの戦いはこれからだからな” ……まだ終わってない、か。 確かに、これで懲りるような奴じゃない気がする。 “遥には俺がついてる。絶対守るから。落ち着いたらゆっくり会おう” 画面をじっと見つめていると、胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じた。 ……ああ、やっぱり俺は、拓実のことが…… 大好きだ。

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