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⑦はじまりの名刺、くすぶる炎
数日後。
俺は編集部のデスクで、新しいプロジェクトの資料をぱらぱらめくっていた。
神谷メディアが動かしてる雑誌企画――
それを本格的に知ったのは、拓実から名刺が届いた時だ。
【神谷メディア/出版事業部 編集企画室 客員編集担当 一ノ瀬遥】
“客員”って肩書きは、すぐ移籍しなくていいようにっていう、拓実の気遣いらしい。
いきなり今の会社を辞めるわけにもいかないし、俺自身まだやり残した仕事もある。
でも――次のステージが、ちゃんとそこに用意されてるってことは分かった。
名刺を見つめてると、ふっと肩の力が抜けた。
……やっと、俺にもちゃんと居場所ができるのかもしれない。
「おーい、一ノ瀬! なんだその顔、ニヤけてさあ。恋でもした?」
「してねぇよ。うるさい」
同僚の軽口を適当にいなしつつ、名刺をそっと机の引き出しへ。
まだ誰にも見せたくない、小さな“希望”だから。
*
その日の午後、打ち合わせから席に戻ると、机の上に茶色い封筒がぽつんと置かれていた。
宛名は俺。差出人は開ける前から分かった。
あの、やたら力強くて角ばった独特の字――佐野だ。
嫌な予感がしながら封を切ると、中には便箋びっしりの文字。
《一ノ瀬へ
あの件について言いたいことはいろいろあるが、お前の態度にも非があったことは理解していると信じたい。
俺の異動も、社長直々の通達だった。お前から見れば“左遷”かもしれんが、そういう事ではない。
この業界は狭い。噂はすぐ回る。今回の件でお前の名前も多少は知れ渡っただろうが、それは必ずしもプラスになるとは限らない。
敵を作れば、いずれしっぺ返しを食らう。世の中は、そんなに甘くない。
……忠告しておく。調子に乗ると、いずれ足元をすくわれるぞ。
元・編集主任 佐野》
はあ。まだこんなこと書いてくるのかよ。
最後まで上から目線で、責任転嫁して捨て台詞。結局、何も変わってない。
“忠告”なんて、もう要らねえ。
その手紙を机の引き出しの一番奥に押し込んだ。
二度と、開けるつもりはなかった。
*
夜、マンションのドアを開けた瞬間、ポケットのスマホが震えた。
画面には、拓実から「今日、少しだけ顔出していい?」という短いメッセージ。
仕事帰りだろうかと頭に浮かべながら、「別に、いいけど」とだけ返す。
五分もしないうちにインターホンが鳴った。
ドアを開けると、スーツ姿の拓実が袋を片手に立っている。
「今日もお疲れ。はい、差し入れ」
「何これ……また高級なやつ?」
「いや、今日はジャンク系。カップ麺とコンビニ弁当」
「ギャップがすげえな」
笑いながら袋を受け取ると、拓実は勝手に入ってソファーに腰を下ろした。
「編集長の名刺、届いた?」
「……ん、届いたよ」
テーブルに名刺を置くと、拓実がそれを見てニヤリと笑った。
「似合ってるじゃん」
「まだ何もしてねえし」
「これから、だろ?」
その目、やっぱ真っ直ぐで嘘がない。
ずっとそう。軽口っぽくても、言葉の奥はいつも本気だ。
「……なあ拓実。俺、変わりてぇんだよな」
「うん」
「何かの“せい”にして、流されるだけの毎日じゃなくてさ。今度こそ、ちゃんと立っていたいっつーか」
「そう思えるなら、もう一歩進んでるよ」
拓実はそれだけ言って、立ち上がった。
「じゃあ、またな。無理すんなよ」
「……あ、ちょっと待った」
「ん?」
慌てて、名刺を拓実に差し出す。
「今さらだけど……これ」
拓実は受け取ると、軽く目を通してふっと笑った。
「やっぱいいじゃん。大事な一枚だな」
「……ああ」
たった一枚の名刺。
でも、それがすべての“はじまり”。
*
「一ノ瀬さん、これ、先方からの初校です。ご確認お願いします」
「ありがとう。内容はだいたい目を通してあるから、すぐ返すよ」
客員編集委員として神谷メディアの編集室に席を構えてから、一週間。
うちの出版社とはまったく違う空気。
ピリピリしすぎてないし、ちゃんと緊張感はあるし、みんな人の話をちゃんと聞いてくれる。
そのおかげで、俺もようやく肩の力が抜けてきた。
……これが、普通なんだよな。
いちいち顔色をうかがいながら話さなくていい。“主任の機嫌”で、一日が左右されることもない。
それがこんなに楽で心地いいんだなって思った。
「一ノ瀬さん、例のコラムの監修、来週から入れそうです。ご都合いかがでしょう?」
「はい、大丈夫です」
社内に自分の名前が自然に溶け込んでいる、それだけで嬉しい。
それに――拓実がくれたこの場所を、裏切るわけにはいかねえし。
「遥、お疲れ。だいぶ慣れてきたか?」
昼休み、拓実がふらっと現れた。社員たちが自然と道を開けて頭を下げる姿から、拓実の“格”が伝わってくる。
「お疲れさま、って……わざわざ見に来るほどのことか?」
「近くで打ち合わせがあってさ。ついでにちょっとつまみ食いに来たんだ」
「ふはっ、社長が“つまみ食い”って、やめてくんねえかな」
二人で社員食堂の隅に座り、軽く食事をとった。
拓実はいつも通り気さくで、スーツはきっちりしているのに、堅苦しくない。
それでいて、社内にいると明らかに空気が変わる。
何より――俺をまっすぐ見てくれるその目が、あの日のままなのが嬉しい。
「そういえば、あっちの様子はどう?」
「あー、佐野主任が異動してからはだいぶ落ち着いた。今はちょっと気まずいけど、まあ平和かな」
「そっか。……でも、あいつ、たぶんまた絡んでくると思う」
拓実の声がちょっと低くなった。
「え……」
「俺の調査チームが調べたんだ。あいつ、お前が神谷メディアと裏で繋がってる、って噂をあちこちで流してる」
「はあ? なんでそんなことするんだよ……」
「嫉妬とか執着だろうな。人って、手のひらから逃げた相手を自分の支配下に戻したがるからさ」
拓実の横顔はいつもより冷たくて鋭かった。
でも、それは俺を守ろうと本気で怒ってくれてる証拠だって、すぐにわかった。
「でも俺、ちゃんと仕事で認めてもらえるよう頑張るからさ。変に裏で手を回さないでくれよ」
「……ああ」
その目を見て、拓実は小さく息をついた。
「わかった。なるべく表立ったことはしない。でも、何かあったら、俺に黙って背負うなよ?」
「……うん」
拓実は、俺のカップスープに手を伸ばして勝手に飲みながら、軽く笑った。
いつか、自分の足でちゃんと立てるようになったら、もっと自然にこいつの隣にいられる気がした。
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