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⑧再出発、ビルの影と君

佐野が異動になってから、俺の職場、編集部の空気は驚くほど澄んだ。 彼の存在がいかに圧力であり、ストレスであり、抑圧だったか―― 正直、いなくなって初めて、空気が軽いと実感した。 「一ノ瀬、今度の文芸フェスの件なんだけど」 「うん、スケジュールと登壇者の調整な。分担して進めようか」 同僚たちが以前よりずっとリラックスして仕事しているのが、はっきり分かった。 俺も自然と気持ちが軽くなって、資料に集中できる時間が増えた。 ページをめくる手が止まるのは、ため息のせいじゃなく、アイデアを整理するためだけ――そんな当たり前が、やっと戻ってきた。 パワハラ上司がいないだけで、こんなにも仕事がスムーズに進むなんてな…… 正直、これまでどれだけ無駄な緊張に縛られてたのかと思うと、少し悔しい。 ……でも、浮かれてばかりはいられなかった。 あの騒ぎの余波はまだ残ってて、表向きは何も言われなくても、周りでは噂が広まってる。 “神谷メディアの社長のお気に入りだってさ” “コネで客員編集になったんじゃないの?” そんな小声が、廊下や給湯室でふと耳に入ってくる。笑ってやり過ごせばいいのに、どうしても一瞬、胸の奥がざらつく。 けど、大丈夫。あの日、拓実がはっきりと言ってくれた。 “遥は実力でここまで来たって、俺はちゃんと知ってるし、見てきたから” その言葉が、胸の奥で何度もリピートしている。耳ではもう聞こえないのに、心の中ではずっと流れっぱなしだ。 ――だから、頑張れる。 今日は久しぶりに夜のオフィスに一人残って作業していた。 作家から急に届いた原稿の修正と、フェス関連の細かい事務処理がまだ終わっていなかったからだ。 集中していると、時間の感覚がどんどん薄れていく。 ふと時計を見ると、もう夜十時を回っていた。 窓の外に目をやると、ガラス越しの夜景がキラキラ瞬いていて、肩の力が少しだけ抜ける。 「……そろそろ帰るか」 その時、デスク脇のスマホが小さく震えた。 画面には《神谷 拓実》の文字。 ――なんだ?と思いながら開くと、 "まだ会社?外にいるから、よかったら少しだけ寄っていい?" ほんの数秒、指が止まった。 胸の奥がじわっと熱くなり、変な笑みが漏れそうになる。 でも、迷ってる自分がなんだか馬鹿みたいで、すぐに打ち込んだ。 "いいよ、待ってる" * 15分後、エントランスに現れた拓実は、いつも通りスーツがきっちり決まってて、夜の街の景色に自然に溶け込んでた。 かっこいいよなあ、こいつ。 遅い時間なのにちゃんと品があって、でも肩の力が抜けてて、なんかあったかい雰囲気だった。 「遅くまで頑張ってるな」 「仕事溜まっててさ。佐野がいなくなって、逆に全部こっちに回ってくるっていう……まあ、前よりやりやすいけど」 「疲れてる?」 「まぁ、ちょっとな。でも、今の方が楽しいよ」 拓実が、俺の顔をじっと見て笑った。 「前より、いい顔してるじゃん。……遥」 その言葉が妙に素直に入ってきて、少し照れた。 「お礼、言ってなかったな」 「何に?」 「……あんなふうに、俺のために動いてくれてたこと」 拓実は少し目を細めて笑った。 「礼なんかいらねえよ。俺がやりたくてやっただけだし」 「……でもさあ」 「でもじゃない。お前がちゃんと前に進んでるなら、それで十分」 拓実はそう言って、紙袋を出して俺に手渡した。 「これ、差し入れ。近くのホテルのカフェで買ってきた。甘いの、嫌いじゃないよな?」 「うん、ありがとな。……って、これ高いやつじゃん。拓実さあ、庶民の感覚忘れてね?」 「忘れてないって。けど、遥に食べてほしいと思ったから」 その言い方が、なんかずるかった。 ずるくて、優しかった。 俺はそっと紙袋を受け取りながら、思う。 ……こいつがそばにいてくれるだけで、だいぶ世界が違って見えるんだな。 「来週、文芸フェス見に行ってもいいか?」 「え、拓実も来んの?」 「だって、お前が仕切ってる企画だろ?興味あるに決まってんじゃん」 「……うん、じゃあ、受付に名前入れとくわ」 なんでもないやりとり。けど、それがすごく嬉しかった。 夜風が少し強く吹いて、拓実の髪がゆれる。 俺はその時、ふと思った。 こいつは、誰かの上に立ってる社長でも、どこか“守ってくれる人”であり続けてくれる。 「ありがとな、拓実」 ふと漏れた声に、拓実は穏やかに笑った。 「どういたしまして。……じゃあな、遥。がんばれよ」 「あ……」 「ん? なに」 気づいたら呼び止めてた。 「もう少し……話していかね?」 拓実が一瞬だけ目を細めて、苦笑する。 「……うわ、マジ可愛いやつ」 意味わかんなくて、慌てて紙袋を抱え直す。 「だって、せっかく来てくれたのに、すぐ帰るなんてもったいないだろ」 自然に出た一言に、拓実が小さく息を吐いた。 「……そういうとこだよ」 そして、拓実はわざと視線を外して、俺の頭をポンと軽く叩いた。 「でも今日は帰る。俺も我慢してんだ」 「我慢って……何を?」 聞き返そうとした瞬間には、もう拓実は背中を向けてた。 夜風にスーツの裾がふわっと揺れる。 ――よし、ちゃんと前に進もう。 スーツの裾を握り直して、ビルの中に戻った。

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