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⑨文芸フェスの逆転劇

文芸フェス当日。 自分が担当している作家が登壇する企画の会場前には、開場30分前だというのにすでに長蛇の列ができていた。 「一ノ瀬さん、メディア受付、一覧こちらです」 「ありがとう。登壇者の控室、飲料補充お願いできる?」 「了解です」 普段ならイベントの緊張で胸が高鳴るはずなのに、今回はなぜか心が落ち着いていた。 佐野の圧から解放されて、ようやく自分のペースで考え、動けるようになったからだろう。 会場内の最終チェックを終え、来場者の流れを確認するためにエントランス近くへ移動すると―― 「あれぇ? 一ノ瀬?」 背後から声をかけられた。 聞きたくなかった、よく知っている声。 ……うわ、最悪。 振り返ると、やはりそこには――佐野元主任。 胸にはイベントの関係者バッジ。どうやら別支社から“営業”として来ているらしい。 「うわあ、びっくり。まさかこんなとこでお前に会うとは思わなかったよ」 「……お久しぶりです」 自然と声が低くなる。 「へえ……一ノ瀬がねえ。こんなちゃんとしたイベントに関われるくらいには出世したの~?」 営業スマイルを張り付けたまま、やんわりと嫌味を差し込んでくるあたり、相変わらずだ。 異動先でも威張っているとの噂は聞いていたけど、やはり懲りていないってことか。 「文芸フェスって、案外ゆるいんだなあ。お前でもこういうポジション務まるんだー。 あ、あんまりバタバタしすぎると、“できない感”出るよ?」 「……お気遣いどうも」 適当に受け流し、その場を離れようとしたとき――背後からしつこく声が飛んできた。 「まだ神谷社長のとこ、囲ってもらってんの?」 「囲ってもらってるわけでは……」 「え、でもうちの会社と神谷メディアを行ったり来たりしてんだろ?」 それは――客員編集員なんだから当たり前だろうが。 口には出さず、眉間に皺が寄る。 しかし、佐野の口は止まらない。わざと周囲に聞こえる声量で、皮肉を垂らす。 気づけば、近くにいたスタッフや関係者が、ちらちらとこちらを窺い始めていた。……まずい。 「いやぁ~、いいよなあ。権力のある人に守られてる奴は。ちょっと顔が良けりゃ、世の中うまくいくもんだな」 ……なんだ、その言い方。 胸の奥がじわっと熱くなる。ムカつく。 だが、俺はこのイベントの運営責任者。この場で揉めれば、被害は全部こっちに降りかかる。 深呼吸をひとつ、感情を押し込めて立ち去ろうとした、その瞬間。 「遥」 控室前に現れたのは――拓実だった。 黒いジャケットにシンプルなシャツ。派手さはないのに、なぜか人の目を惹きつける、不思議な存在感のある男。 「あ、来てくれたんだ」 「言っただろ? 遥が頑張ってる姿、ちゃんと見に来たいって」 「……うん、ありがとな」 するとそこへ、佐野がぬっと現れた。 「あれ、君……どこかで見た顔だな。あ! あの時のホストのイケメン彼氏か。まさか一ノ瀬がプライベートで呼んだのか?」 「……」 「彼氏知ってる? こいつ、神谷メディアの社長に取り入って、そっちに移籍しようとしてるらしいぜ」 周囲がざわつき、さっきまでの和やかな会場の気配がじわじわと濁っていく。 「でもさあ、社長って随分年上だろ? すごいよな、そんなオッサンと寝たりして。欲しいもののためなら何だってやるんだな」 ……下卑た笑い声が耳を汚す。 周囲からも、抑えきれないくすくす笑いが漏れ始めた。視線が、じりじりと俺に突き刺さる。 「神谷社長も、とんでもない人間だよなぁ」 その瞬間、胸の奥で何かが外れた。怒りというより、もはや殺意に近い熱が込み上げる。 だけど―― 拓実がすっと俺の隣に立った途端、空気が一変した。 さっきまで無遠慮に響いていたざわめきが、まるで一瞬で凍りついたように静まり返る。 「あなたはどちらの企業の方ですか?」 拓実は礼儀正しく問いかける。周囲の視線がさらに集まる。 「あー、俺は一ノ瀬とは別の支社の営業。異動する前にこいつと同じとこで働いててね。……まあ、色々指導もしたけど、全然ダメダメでさあ。今も甘やかされてるみたいで」 拓実が少しだけ笑った。その目は、獲物を見据えるように鋭い。 「そうですか。“指導”を?」 「まあ、こいつ、うちではちょっと扱いに困ってね。でも今は、こうしてイベントスタッフもどきとして頑張ってるみたいで。よかったよかった」 ……もどきって何だよ。 次の瞬間、拓実は胸ポケットから名刺を取り出し、さらりと差し出した。 「初めまして。株式会社アークメディアホールディングス、代表取締役社長の神谷です」 「……は?」 佐野の口元が、ひきつった笑みに崩れた。 「あ、あの……アークメディアホールディングスの代表ってことは……」 「はい。神谷メディアの社長でもありますが。今日はこのフェスの視察と、一ノ瀬の仕事ぶりを見に来ました」 淡々と答える拓実の声は、会場のざわめきにも負けずはっきり響く。 周囲で耳をそばだてていたスタッフやメディア関係者が、一斉にこちらを見た。

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