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⑫距離ゼロの余韻と、警鐘

ドアを開けた瞬間、ふわっとコーヒーとシトラスの香りが鼻をくすぐった。 この匂い。拓実の家って感じする。 「……来たな」 ソファーにラフな部屋着姿で座っていた拓実が、リモコンをぽんと置いて立ち上がる。 「拓実、遅くなって悪い。編集長に捕まって……」 「いいよ。今日は主役なんだから」 そう言って、テーブルに置かれたグラスを二つ、コトンと鳴らす。 琥珀色の液体がゆらゆら揺れて、ランプの光を反射していた。 「……乾杯?」 「もちろん。勝利のな」 グラスが触れ合う音が、やけに心地よく耳に残る。 一口飲んだ瞬間、アルコールの熱と今日一日の解放感が一気に広がった。 「……あー……ほんとに終わったんだな」 「ん、お疲れ様」 気づけば、拓実は当たり前みたいに俺の隣に座っていた。肘が触れるくらいの距離。 胸の奥が、じわっと落ち着かない。 「……お前さ、俺が職場まで来たの、ちょっとは驚いた?」 「ちょっとどころじゃねえよ。……心臓止まるかと思った。でもあの時の佐野の顔、マジ忘れらんねぇわ」 「はは、だろうな」 笑ってるのに、俺の手をいつの間にか包み込んでくる。 温かくて、反射的に握り返してしまった。 「……遥の手、冷えてんな。悪ぃ……冷房効きすぎかな」 「ちがう。緊張しててずっと冷たかったんだよ」 「じゃあ……温めるか」 そのまま手を離さず、ぐっと引き寄せられる。 肩口に額が触れて、体温ごと飲み込まれるみたいだった。 「……ほんと、よく頑張ったな」 低く、耳に残る声。撫でられるたび、息が詰まる。 「……なんか、泣きそう」 「泣いていいよ。俺んとこでだけ、な」 顔を上げたら視線がぶつかる。近い。 口角だけで笑って、拓実が言う。 「……キスしていい?」 「……っ……」 答える前に額が軽く触れて、唇がかすめた。心臓が暴れる。 「今日はそれだけな」 そう言う割に、目はまるで我慢していない。 熱が伝わってきて、今夜の行方を想像してしまい、思わず視線を逸らした。 ——危ねえな、これ。 拓実は片腕をソファーの背に置き、逃げ道をふさぐ。 肩越しの熱が近すぎて、息が落ち着かない。 「……俺が我慢するって言ったの、覚えてるか?」 「覚えてる」 「そっか。俺さ、ああいうとき自分に嘘つくの下手なんだよな」 指先が首筋をなぞって、鳥肌が走る。 「……ちょ、拓実」 「動くなよ」 命令みたいな声。 耳の後ろに唇が触れて、ふっと息がかかる。背筋が熱くなる。 「……今日のお前見て、余計に守ってやりたいって思ったし……同時に、めちゃくちゃ欲しくなった」 危なすぎる……でも、飲み込まれそうだ。 「……我慢するって言ったくせに……」 「言ったな。でも……限界近い」 耳元で吐き出された声に、呼吸が詰まる。 背に回された手が、腰で止まって小さく動く。本気で我慢してるのが伝わってくる。 「……遥、顔、赤くなってる」 「……うるさい」 「可愛い」 顎を軽く持ち上げられて、逃げられない。視線が唇に落ちて——意地悪みたいに笑う。 「……お前が“やめろ”って言えば、やめる」 わざとゆっくり顔を近づけ、唇ギリギリで止まって、俺の反応を待つ。 ——ずるい。本当に、限界なのはこっちだ。 「拓実、俺は……お前になら……」 小さく吐き出した声。その瞬間、強く抱き寄せられた。 唇が重なり、深くためらいのないキス。 昼間の緊張も怒りも、守りたい気持ちも、全部ぶつかってくる。 「……っ、ん……」 息継ぎも惜しむように角度を変えて何度も重ねられる。 唇が離れた瞬間、空気が一気に胸の奥まで流れ込む。息がうまく吸えない。 「もう、限界……」 低い声と一緒に、ソファーに背が沈む。 そのまま頬に指先が触れ、親指で唇の端をなぞられる。 「遥、大好きだ」 その一言で、何かがふっとほどけた。拓実のシャツを握る手に、力がこもる。 「うん。俺も」 拓実はそれを見て薄く笑い、また唇を重ねた。 舌先が触れて、思わず息が漏れる。ゆっくりと、でも確実に熱を深くしていく。 「……っ……」 そして拓実の視線は、俺を逃さないように、真っ直ぐ。 「……そんな顔されたら、ほんとに止まんねぇ」 囁く声が、もう限界なんてとっくに超えてるのを教えてくる。 首筋に熱が落ち、軽く噛まれた場所がじんわり熱くなる。 怖さなんてない。ただ、安心と高鳴りが混じってどうしようもない。 拓実の手がシャツの裾のあたりで止まる。 布の感触越しに、指先の熱がじわりと広がっていく。 部屋の中の時間が、溶けてなくなっていくみたいだった。 ――そのとき、リビングのテーブルの上でスマホが震えた。 静かな部屋に、着信音が妙に大きく響く。 ちらっと見たが、発信者はわからない。知らない番号だ。 胸の奥に冷たいものが滲んでいく。 ……まさか、な。 もう忘れかけていた、元彼の存在。 拓実の腕の中で、鼓動が熱から冷えへと変わっていく。 「遥、大丈夫だから」 「……うん」 ——全てが、静かなまま終わるとは限らない。

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