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第三章 ① 逃走

 全裸の男が、鼻血を噴いて伸びている。迅がやった。  人の皮を被った獣。物音に気づき、襖を蹴り倒して飛び出してきた。迅は咄嗟に、落ちていたビール瓶を握りしめ、振り上げた。それがたまたま、男の顔面に命中した。男は鼻血を噴いて倒れ、折れた歯がばらばらと飛び散った。  まだ、手が震えている。迅は、自分で自分の手を握りしめた。  碧は、むくりと体を起こした。転がっていたビール瓶を拾い上げ、頭上へ大きく振りかざす。  男は、まだ息があった。大量の血に溺れ、変な音を立ててはいたが、息はしていた。  碧は、振り上げたビール瓶を、男の顔面に真っ直ぐ振り下ろした。  ぐしゃり。と、骨が砕け、肉の潰れる音がした。瓶は割れ、ビールが溢れ出す。部屋中が、血とアルコールの、ひどいにおいに満たされる。  碧は、男の体をまたいで、キッチンに置いてあった包丁を手に取った。それから、男の傍らに膝をついて、深く包丁を突き刺した。  何度も、何度も、何度も刺した。皮膚が破れ、肉の裂ける音が響いた。噴き出す血が、碧の白い肌を濡らし、流れ出た血は、碧の足元に血だまりを作る。血の海にひざまずいて、とっくに事切れた男の体に、碧は刃を突き立て続けた。  もはや、血も出ない。刺す場所もない。飛沫を跳ねて、包丁が血の海に沈んだ。  碧は、笑っていた。血だまりに座し、両手を血に染め、返り血を浴びて血まみれになりながら、笑っていた。哀しい笑顔だった。  血の海に沈んだ、粉々に砕け散ったガラス瓶の破片が、鈍く光っていた。アルコールのにおいは掻き消され、一息ごとに喉を焼く、おびただしい血肉のにおいが、溢れんばかりに充満していた。  血だまりに足を濡らし、男の死体を踏んでしまったが、気にならなかった。碧に導かれるまま、まだ温かい布団の上で、碧を抱いた。  碧のそこは、いつも通りに熱く濡れていて、迅を優しく包んでくれた。返り血を拭い、白い肌にキスをすると、碧は泣き出しそうに顔を歪ませ、迅を強く抱きしめた。   「なか…っ、なかに、だして」    切れ切れに喘ぎながら、碧は乞う。   「い、いいの」 「いいっ……! なかに……っ、なかにぜんぶ、だしてっ……!」 「っ……」    碧の足が絡み付き、抱きしめられる。迅も、碧を強く抱きしめる。返り血で滑る、肌と肌とが密着する。   「うっ……」 「ああ…っ、あっっ……!!」    碧の胎の奥深くに、迸る熱をありったけ注ぎ込んだ。碧は悦びの声を上げ、歓喜に身を震わせる。  初めて、真の意味で一つになれた気がした。心の臓に一番近い、体の奥の一番深く。普通には決して手の届かないところで、繋がっている。輪郭が溶けて、身も心も一つになる。それだけで、十分だった。他にはもう、何もいらない。  噴き出す汗が、血を滲ませる。キスは鉄の味がした。  疲れ果てて眠り、お湯を沸かしてインスタント麺を食べ、また抱き合って眠り、キスをして、抱き合って…………そうしているうちに、夜が明けた。  死体は、昨日と同じ場所に、昨日と同じように横たわっている。血は乾燥して固まっている。ハエがたかり始めていた。   「……鹿児島の海が見たい」    ふと、碧が言った。   「母親の故郷があって……海がきれいだって、よく……」    赤黒い部屋の中。目を瞑れば、海の青が見える気がした。   「行くか」    迅が言うと、碧は小さく頷いた。   「じゃあ、これ、片付けねぇと」 「……うん」    死体を布団に包み、固く縛って、押し入れに押し込んだ。バケツに水を汲んできて、床にこびり付いた血液を落とした。最後に冷たいシャワーを浴びて、体中に染み付いた死臭を洗い流した。  少ない荷物をカバンに詰めて、二人、自転車を漕ぎ出した。時刻は既に昼近く、太陽が真上に昇り、鋭い日差しが降り注いでいた。  ひとまずは、当初の計画通りに、湘南の海を目指すことにした。そこから、東海道を使って西へ進めば、いつかは鹿児島へ着くだろう。  紙の地図と道路標識を頼りに、ひたすら、自転車を漕ぐ。コンビニでおにぎりを買って食べ、公園で水を浴び、ついでに水筒も補充して、それでも喉が渇いて仕方ない時は、流れる汗を舐めたりして。野を越え、川を越え、街を越え、ビルとビルの間を抜けて、時には幹線道路を走ったりして。海が見えた頃には、日が傾き始めていた。    想像していた海とは違った。夕日を反射して、血のように赤い。それでも、初めて香る潮風は新鮮で、汗みずくの火照った体を癒してくれた。  それにしても、疲れた。体はくたくたで、足は棒のよう。お腹もぺこぺこだった。碧の提案で、ファミレスで休憩することにした。どこででも見かけるありきたりのファミレスだが、外観がやたらと洒落ていた。  席に案内され、メニューを開いて、迅は目を剥いた。財布の中身を思い浮かべてみるが、どう計算しても払えそうにない。ステーキだのハンバーグだのの匂いがぷんぷんしてくるのに、セルフサービスの水しか飲めないのは拷問だ。   「なに難しい顔してんだよ。注文決まったか?」    メニュー表と睨めっこする迅を訝しんで、碧が言う。   「おれはこのステーキにするけど」 「すっ、すてーき!?」 「なんだよ。悪いか」 「いやっ、その、なんつーか……お、俺はこの、ポテトにしよっかなぁ~……」 「……あとは?」 「じゃ、じゃなかったら、こっちのスープ、とか……?」 「……」    碧は、黙って迅の隣に移動して、そっとカバンの中身を見せた。懐中電灯や、折り畳みナイフ、財布、タオル、水筒。それから、分厚い茶封筒が一つ。中身は全て一万円札。ぎっしり詰まっているのだった。迅はぎょっとしたが、碧は平気な顔をして、微かな笑みまで浮かべている。   「だから、何でも好きなもん食えよ」 「い、いや、さすがに悪りぃって」 「いいんだって。その代わり、お前……」    碧は向かいの席に戻り、頬杖をついてにっこり笑った。   「心変わりなんかしたら、許さねぇからな」 「……当たり前のこと、聞いてんじゃねぇよ」    食べたいものを食べたいだけ注文した。こんな経験は初めてだった。お金があるというだけじゃない。心が自由になった気がした。  ハンバーグステーキに、サーロインステーキ。熱々の鉄板で焼けるソースの香りが堪らない。チーズたっぷりのピザやパスタ、山盛りポテトに揚げたての唐揚げ。ドリンクバーはお代わり自由で、フルーツジュースも炭酸ジュースも飲み放題だ。こんな天国が存在していいのだろうか。  もちろん、デザートもたらふく食べた。桃を丸ごと使った大きなパフェや、クリームたっぷりのパンケーキ、濃厚なカスタードプリンに、ひんやり冷たいアイスクリーム。一生分の甘いものに溺れた。お腹がいっぱいで、幸せで、このままここで眠りたい。   「君たち、中学生だよね?」    いきなり、店員に注意された。時刻は既に夜遅く、夕飯時は賑わっていた店内に、子供の姿は見当たらなかった。   「そろそろ出ていってもらわないと困るんだけど、大丈夫かな」    でも、と口答えしようとした迅を制して、碧は店員の言いつけに従った。すぐに席を立ち、会計を済ませ、家に帰るふりをして自転車を走らせた。   「よかったのかよ」    夜風を切って自転車を漕ぎながら、迅は言った。   「何が」 「何がって、さっきの。どうせ行くとこないんだし、朝まで店にいりゃよかったじゃん」 「そんなの、ムリに決まってるだろ」    夜風を切って、碧が答える。   「遅かれ早かれ、どうせ追い出されるんだ。下手にごねて、警察でも呼ばれちゃ困る」 「そういうもんなの?」 「こんな時間に外をうろうろしてるだけで、中学生ってだけで、目ェつけられるんだ。大人しくしてた方がいい。それに、あの店はそもそも、二十四時間営業じゃねぇよ」 「マジかよ。どっちにしろ朝まではムリじゃん」 「ああ。けど、どこか泊まれる場所を探さなきゃならねぇってのは、そうなんだが……」    緩いカーブを描く浜辺に沿って、街灯が光っていた。夕方、遊泳時間を過ぎても賑わっていたビーチは、今はどこもひっそりとして、真っ暗だった。風の音と、波の音だけが、暗闇に響いていた。   「その辺でいいんじゃね?」 「は?」 「だから、その辺!」    砂浜へ続く坂道を下った。碧もハンドルを切って、迅の後ろをついてくる。風を切って、車輪の回る音が心地よかった。  昼間は相当賑わっていたであろう、海水浴場。誰かが忘れて帰ったビーチボールやサングラス、日焼け止めが落ちている。遠くで花火でもしているのか、酔っ払ったような声が響いている。  運よく、公設の無料シャワーを見つけることができた。一応、衝立のようなものはあるが、ほとんど目隠しの役割は果たしておらず、しかし大して気にも留めずに、迅も碧も裸になって、シャワーを浴びた。汗と潮と砂とでベタベタになった体を、冷たい水でさっぱり流した。  せっかくシャワーを浴びたのに、裸足になって夜の砂浜を跳ねた。暗くてよく見えないが、柔らかい砂に足の沈み込む感覚が気持ちよかった。うっかり波打ち際を走り、寄せる白波を蹴飛ばして、弾けた飛沫が闇に光った。水の音が煌めいていた。  無人の海の家に忍び込み、ざらつく床で寄り添い、眠った。いつしか風はやみ、海は凪いで、寄せては返す波の音だけが、繰り返し、繰り返し、まるで地球の息吹のように、響いていた。

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