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第三章 ② 山越え

 目が覚めると、碧は先に起きていた。砂浜へ下りる階段へ腰掛けていた。ちょうど朝日の昇るタイミングだった。  寝起きの瞳に朝日は眩しく、迅は目を瞑った。そうしている間にも、どんどん日は昇ってくる。瞼の向こうが熱くなり、迅はまた、恐る恐る目を開けた。  朝日を浴びて、碧の輪郭が、金色に縁取られていた。潮風に靡く黒髪も、つんと澄ました鼻先も、全てが金色に塗り替えられ、朝の光に溶けていく。朝日を反射し、海も金色に映えている。世界の全てが、朝に呑まれる。  思わず、碧を抱きしめていた。小さな背中が、驚いたように震える。   「なんだよ」 「……何でも」 「暑いだろ」 「まだ涼しいし」 「……起きたなら、行くぞ。長居はしない方がいい」 「……うん」    外の水道で顔を洗って、再び自転車にまたがった。一晩休んだところで、足はまだ疲れているし、座りっぱなしの尻も痛い。しかし、泣き言も言っていられない。休憩を多めに挟みながら、ゆっくりと西進する。  潮風に吹かれながら、なだらかな海岸線に沿って、しばらく走った。しかし、長く続いた砂浜もそろそろ終わり、いよいよ山越えに突入する。  さっきまでの湘南の街並みが嘘みたいに、自然豊かだ。清流が流れ、青葉が眩しく、木陰が涼しい。どこからか硫黄のにおいがして、温泉が近いと分かる。しかし、これでもかと響く蝉の大合唱は暑苦しく、道はだんだん険しくなる。  緩やかな坂道から始まったが、傾斜はきつくなる一方で、しかも、立ち止まらずに上り続けなければならないとなると、心身に応える。  滝のように汗を流しながら、立ち漕ぎでがんばっていたが、曲がりくねった山道の、いくつめかのカーブで、碧の自転車が壊れた。元々錆び付いていたチェーンが切れたのだ。時を同じくして、迅の自転車も壊れた。タイヤがパンクしたらしく、いくらペダルを回しても、一向に前に進まない。それどころか、後ろに下がっているように感じた。  しばらくは自転車を押して歩いたが、それすらも容易ではない。足だけでなく、腕もくたくたで、その上、こんな重い荷物を持って山を登らなければならないなんて、アスリートのトレーニングよりもきつい。  結局、自転車を担いで山を越えるなどという、無謀なことは諦めた。こうなったら、どうせ徒歩で峠越えをしなければならないのだから、車道を逸れて山道に入った。  一応、看板を目印に歩いていたはずだった。それなのに、いつの間にか、草木が鬱蒼と生い茂る、森の中の獣道のようなところに出ていた。来た道を振り返っても同じような景色が続いているばかりだ。要するに、迷子である。  右往左往している間に日も暮れてきて──山中のため日暮れが早い──頼りになる明かりといえば、碧の持ってきた懐中電灯だけという状況に。いよいよ泣き出したくもなったが、そんなことで水分を消費するのももったいないような気がして、泣いてももう仕方がないので、適当な木の根元に場所を見つけ、朝まで休むことにした。   「これって、遭難ってやつ?」    迅が冗談めかして言うと、碧は重い溜め息を吐いた。   「悪い。おれが変な道を選んだせいで……」 「い、いや、別に責めてるわけじゃねぇって! お前のせいじゃねぇよ。俺も、地図見るのとか、全部お前に丸投げしてたし……」 「……」    昨晩の海よりも、ずっとずっと暗い。波の音はしないが、時折、梢を揺らして風が吹く。そして、鳥か獣か、何か動物の鳴き声のようなものが聞こえてきて、それが何とも不気味なのだった。ガサッ、と茂みの揺れる、ちょっとした挙動に、いちいちビクついてしまう。   「……にしても、腹減ったなぁ」    喋るのにもエネルギーを消費するが、何か喋っていないと闇に呑まれそうで恐ろしかった。懐中電灯を無駄に消費するわけにもいかず、真っ暗闇の中で碧の存在を確かめるには、話をするか肌を触れるかしかないのだ。  碧が、カバンから何か取り出した。麓の売店で買った塩羊羹だ。迅の手に一つ握らせた。   「……ありがと」 「たくさん買っといて正解だったな」    封を切ると、上品な香りが立ち上った。包み紙をぎゅっと押して、柔らかな中身を押し出し、一口齧る。つるりとした食感は、夏そのものといった涼やかさ。小豆餡の濃厚な甘さが、疲れた体に染み渡る。僅かな塩気が甘みを引き立て、ミネラル不足の体に嬉しい。  碧のくれた羊羹がおいしくて、また涙が零れそうになる。碧と二人、真夜中の山中で迷子になっているというのに、こんな状況でも、思い出すのは家族の顔だ。両親は、今頃どうしているだろう。  迅がいなくなったことに、さすがに気づいただろうか。気づいてほしいけど、気づかないでほしい。邪魔な息子のことなんか忘れて、離婚でも何でもして、それぞれ好きなように生きていけばいい。だけど、綺麗さっぱり忘れられてしまっても、それはそれで寂しいのだ。  気がかりなのは、ミーコのことだ。こんなことになると分かっていれば連れてきたのに、きっと今も、あの廃神社にひとりでいるのだろう。夏だから凍える心配はないし、それなりに餌も捕れるはずだが、迅も碧もいなくなって、寂しがってやしないだろうか。猫の友達でもできていればいいのだが。  家族のことなんか考えて、隣にいる碧に申し訳ないとも思う。碧にはもう、碧を思い出してくれる家族はいないのだ。母親が死に、それに……  くしゅん、と小さなくしゃみが響いた。碧がぶるりと震えたのが、寄り添った肌の感覚で伝わる。   「さみぃの」 「ん。まぁ、夏とはいえ、夜だしな。山の中だし」 「昼間は気になんなかったけど、ここ、標高結構高いんだっけ」 「確か、八百メートルとか、なんとか……」    肩を震わせ、碧はまたくしゃみをする。迅は、その細い肩にもたれ掛かるように、体重をかけた。   「じゃあさ、体温が上がること、する?」    いつかの碧のセリフだ。触れ合った肌が熱を帯びる。   「けど、さすがに……汚いだろ。一日中自転車漕いで、風呂も入らねぇで……昨日だって、軽く水浴びしただけだし……」 「あー、それもそうかぁ?」 「お前はいいかもしれねぇが、おれは一応、ケツ使うんだし……」    言葉では拒んでいるが、声は期待に上擦っている。暗闇だろうと、ちゃんと分かる。   「じゃあさ、手でするだけってのは?」 「て、手で?」 「それなら、汚いとかはあんま気にならねぇし、服もあんま脱がなくていいし。気も紛れるだろ」 「っあ、おい……」    手探りで、迅は碧の下着に手を突っ込んだ。初めはくたりとへばっていたが、二、三回擦ればすぐに元気になった。   「な、俺のもしてよ。一緒にあったかくなんなきゃ」 「っ、ん……っ」    碧も、迅の下腹部に手を伸ばす。触れられる前から、既に硬くなっていた。迅の肩にもたれ、快楽を堪えるように漏らした、碧の吐息が耳に触れる。その感覚だけで、昂っていた。   「腰、ちょっと浮かして? も少しズボン下ろすから」 「あっ、ん……そこ、もっと……」 「先っぽ? すげぇぬるぬる」 「い、言うなよ、ばかっ。だいたい、お前だって……」 「んっ、そこ好き。もっと強くてもいいかも」 「やっ、んう…っ、つよすぎ……」 「これくらいが好きじゃなかったっけ?」 「だ、って……イッちゃう、からぁ……っ」 「ん、俺もイきそーかも。先っぽぐりぐりして?」 「ひゃ、んんっ……あっ、やう、あっっ──!!」    碧が先に達し、手が止まってしまったので、あと一歩のところでイキ損ねた迅は、碧の腰を抱き寄せた。余韻に震える碧の中心に、期待に震える自身の中心を重ね合わせ、擦り合わせる。ビクビクッ、と碧は身悶え、声を掠れさせた。   「やっ、やっ! だめっ、だめぇっ!」 「も、出るから」 「やっ…あああっ、いくっ、いくうっ──!!」    びゅく、びゅくっ、と白濁した汁が噴き出した。迅の腕の中、碧は小刻みに体を震わせる。キスをすると、羊羹の味がした。二人分の精液でベタベタになった手を、せめて拭かなくてはと思い、その辺の葉っぱになすり付けたところで、急激な眠気に襲われた。

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