3 / 30
第一部 3章 看病させて
冷水のシャワーを浴びた陽汰はふらつきながらも自室へと戻った。
夏だからと言っても冷水を浴び続けた身体は芯まで冷え切ってしまっており、凍えるような寒さの中、布団へと潜り込む。
自身の落ち着く香りに包まれ、ようやく安心できる場所に戻ってこれたことに深く息を吐き出した。
この数時間で起こった出来事はあまりにも衝撃的すぎた。すでに心も身体も限界に達してしまっている。
じくじくと痛む身体を両手で抱きしめ、陽汰は現実から逃れるように意識を手放した。
「っ……」
どのくらい経ったかわからないが、目を覚ますと身体の異常な怠さと熱さが陽汰のことを襲った。頭がガンガンと痛み、視界も目眩を起こしているかのようにくらくらしている。
冷水を浴びたせいなのか、もしくは晴斗に犯されたせいなのか、原因はわからない。
身体は燃えるように熱いのに寒気を感じ、カタカタと震える両手で丸めた身体をぎゅっと抱き締めた。
トンッ、トンッ。聞こえてきた音にビクッと身体が跳ね、ゆっくりと視線を扉のほうへと向ける。この家にいるのは自分と晴斗の二人だけなのだからそのノックをしている相手は一人しかいない。
いつもならば陽汰の返事を待たずに入ってくることもある彼だったが、今日はその気配がなく、2回のノックの後はしんと静まり返っている。
あんなことがあったのだからそれは当たり前だろう。
陽汰はそのままにしておくのも気が引けたため、仕方なく扉の向こうへと声を掛けようとしたのだが。
「は……っ」
自分の口から出てきたのは空気が漏れるような掠れた音。
喉までやられてしまったのか、と溜め息を吐き、陽汰は仕方なくふらふらとおぼつかない足取りで扉のほうへと歩いて行く。
もしかしたら陽汰がなかなか出てこないことで諦めたかもしれない、そう思いながらも扉を開けるとそこには申し訳なさそうな表情をした晴斗が立っていた。
彼の姿に先ほどのことを思い出し、怒りをぶつけて逃げ出したい気持ちが湧き上がってくるが、生憎声がほとんど出ない。そのうえ無理に歩いたことによって視界の歪みもひどくなっていた。
「ひな兄…俺……」
晴斗の言葉と共にキーンという耳鳴りがした瞬間、ぐらっと世界が傾き、陽汰は自分の脚で立っていることができなくなってしまった。
「ひな兄っ!」
陽汰の身体が突然傾いたことに驚いた晴斗は咄嗟にその身体を支えた。陽汰の身体はTシャツ越しにもわかるほどに熱く、口から漏れる息遣いも異様に荒くなっている。
「どうしてこんな高熱…ッ」
晴斗はそう呟きながらもその高熱の原因に思い当たり、唇を強く噛みしめた。
自分が陽汰のことを無理矢理犯したせいだ。きっとそのせいで陽汰はこんな高熱を出してしまったんだ。
陽汰が冷水を浴びたことを知らない晴斗にはそれしか理由が思い浮かばなかった。
あんなことをしてしまっただけでなく高熱まで出させてしまったという後悔が重くのしかかってくる。だが、このままずっとこうしているわけにもいかない。とにかく彼をベッドに運んで休ませなければ。
陽汰の身体を抱き上げると密着度が上がり、彼の熱の高さをより一層感じた。
腕の中の陽汰は抵抗する力もないようにぐったりとし、伏せられた長い睫毛は僅かに湿り気を帯びている。
発熱によって全身に汗を掻いていたため本来なら着替えさせてあげたいところだった。だが、今の自分が陽汰の服を脱がせるという行為がどれほど陽汰に恐怖心を与えてしまうのかを考えると、行動に移せるわけがなかった。
ベッドへとそっと陽汰の身体を横たえ、布団をかける。すると、彼は閉じていた瞼を開け、焦点の定まらない瞳で晴斗のことを見上げた。
「……ひな兄…嫌かもしれないけど…看病、させて…」
「……俺は……だい、じょうぶ……」
耳を澄まさなければ聞こえないほど小さく掠れた声で呟いた陽汰の姿に晴斗はぎゅっと拳を握りしめる。
自分には陽汰のことを看病する資格なんてない。だけど、こんな弱りきった姿の陽汰を放っておくことなんてできるわけがない。
たとえ彼に嫌われたとしても、熱が下がるまでは見守らせてほしい。
晴斗は喉の奥から絞り出すように懇願した。
「…ひな兄、お願い……」
「……」
陽汰は良いとも悪いとも言わずにゆっくりと瞼を閉じた。
彼の赤くなった頬と汗で額に張り付いた髪を見つめ、晴斗は一度強く目を瞑ったあとタオルや薬などを取りに部屋を出た。
とにかく今は陽汰の熱を早急に下げて少しでも楽になってもらうしかない。
本当なら病院に連れていくのが一番良いのだろうが、こんな深夜では救急に行くしかないうえに理由が理由なだけに陽汰は病院に行くことを拒否するだろう。
幸い、と言ったらおかしいが、陽汰が高熱を出すことが多い体質のため解熱剤や看病に必要なものは家に一通り揃っていた。
晴斗が必要なものを揃えて部屋に戻ると陽汰は布団の中で横向きで丸まっていた。もしかして眠ってしまったのかと思ったが、晴斗が部屋に入ってくる気配に気づいた彼は顔だけを布団からちらりと出し、ぼんやりとした視線で晴斗のことを見つめてきた。
「ひな兄、解熱剤持ってきたけどちょっと起きれる…?」
「……ん」
もぞもぞと布団の中で動きながら陽汰は体勢を整えて起き上がろうとした。だが、身体を起こした瞬間、再びひどい目眩に襲われ、視界がぐらっと傾く。
「ひな兄っ…!」
晴斗は咄嗟に陽汰の背中に手を回して倒れそうになった身体を抱きとめた。だが、立っている状態から慌ててその身体を支えにいったのが悪かったのかもしれない。
「ひっ…!」
トンッと身体同士がぶつかる。それは普段だったら気にもならない程度だ。だが、その接触は陽汰の記憶を呼び起こした。
無理やり。痛い。怖い。やめて。
あのときの光景がフラッシュバックし、カタカタと身体が細かく震える。抑えようと思っても震えは止められず、それは晴斗にも伝わってしまった。
「……ごめん…ごめんね、ひな兄……」
悲痛な謝罪の声。
本当はこんな大袈裟なほどに拒否する姿を見せたりしたくなかった。だけど、身体が勝手に反応してしまった。そのうえ、言うことを聞かない身体は涙まで溢れさせようとしている。
陽汰はなんとかそれを誤魔化そうと震える息を吐き出した。先ほど頭の中に浮かんできてしまった記憶から意識を逸らすように、掛け布団をきゅっと握りしめて小さく呟く。
「……くすり…ちょうだい…」
「…うん」
自分で起き上がっていることが困難だったため晴斗に手伝ってもらいながら解熱剤を飲み、再びベッドへと横になる。
高熱で意識が朦朧としている中、陽汰の汗が浮かぶ額をタオルで拭ったりと晴斗は献身的に看病をしてくれた。だが、陽汰の身体は未だに犯された記憶から解放されていないかのように彼に触れられる度にビクッと震え、その度に晴斗は唇を噛み締めた。
ベッドの上で苦しそうにしている陽汰の姿に、数時間前の光景が頭を過る。
汚れたシーツといろいろな液体に塗れて気を失った細い肢体。その白くて綺麗だったはずの肌には晴斗の手によって付けられた赤や紫色の痕が残っていた。
「……っ」
晴斗はベッドの傍に置いていた椅子を持ち、扉のほうへと移動した。
ここが部屋の中で陽汰の様子を伺うことができる一番離れた場所。
本当はすぐ傍で片時も離れずに看病したかった。だが、自分が傍にいたら陽汰を怖がらせ、眠りを妨げてしまうかもしれない。
もし何かあったらすぐに動けるように陽汰から目を離すことはなかったが、晴斗は陽汰のためにも自分が今取れる一番遠い場所から彼を見守った。
◆
ふわっと森林と金木犀の香りが優しく広がる空間。
その中に陽汰は一人佇んでいた。
たった一人の空間。しかし、一人ではなかった。
自身の薄い腹の上に手を当てるとそこにはもう一人の、新たな命が宿っているのを感じる。
まだ膨らみのないその場所を撫でていると温かい気持ちが広がり、自然と笑みが浮かんだ。
「ひな兄?」
「あ…」
名前を呼ばれたことに顔を上げればそこには晴斗がいた。彼は優しい笑みを浮かべながら陽汰のことを見つめている。
彼の落ち着く香りが陽汰のことを包み込み、それはこの新たな命のことも包み込んだ。
「ねぇ、晴斗…俺、できたよ」
「え!?本当?」
「うん…喜んで、くれる?」
「当たり前じゃん!あー…やばい、嬉しすぎて泣きそう」
そう言った彼の瞳にはじわりと涙が浮かび上がっている。こんなにも喜んでくれる彼につられて陽汰の瞳にも涙が浮かび上がった。
「ばかだな…泣くことないだろ」
「そう言うひな兄だって泣いてるじゃん」
「…うるさい」
ふいっと横に顔を向けると晴斗の大きな身体が陽汰のことを優しく抱き締めた。安心感を与えてくれる彼の温もりに更に涙が浮かんできてしまう。
「ひな兄、俺すごい幸せだよ」
「うん…俺も…ねぇ、晴斗……」
「……は…ると…」
「ひな兄…?」
自分の掠れた声と近くから聞こえてきた晴斗の声にゆっくりと瞼を開ける。
霞んだ視界の中、傍には晴斗がいた。彼は、陽汰の流した涙を拭いてくれていたようで、その行動に一瞬これが夢なのか現実なのかわからなくなる。だが、涙が流れて鮮明になった視界の中に映った彼の表情は申し訳なさそうであり、怒られることを恐れているようにも見えた。
……夢、か…。
「ひな兄…大丈夫?」
「…うん」
まだ少し頭はぼんやりとしていたものの解熱剤のおかげで眠る前よりも身体は随分と楽になっていた。
寝ている間に相当な量の汗を掻いていたようで服はびっしょりと濡れてしまっており、その不快感に眉間に皺を寄せながらゆっくりと起き上がる。
「……着替える」
「うん…あ、じゃあ俺、出てるね…濡らしたタオルそこにあるから、使って」
その言葉にこくりと頷くと晴斗はすぐさま部屋から出て行った。
「……はぁ…」
今までこんなギスギスとした雰囲気になったことがないため、どう接するのが良いのかわからない。
気分が沈んだまま汗で濡れた服を脱ぐとそこには相変わらず赤紫の跡が所々に残っており、陽汰は極力それを見ないようにタオルで身体を拭った。
多少もたつきながらも服を着替え、再びベッドに戻ると晴斗も部屋へと戻ってきた。その手には湯気の立ったカップを持っており、少し遠慮がちに陽汰へと差し出してくる。
「生姜湯、作ったから…嫌じゃなかったら飲んで…」
「…ん」
彼の手から温かいカップを受け取り、ふーふーと息を吹き掛けてから喉へと流し込む。
少しピリッとした生姜の風味とほんのり甘い蜂蜜が枯れた喉にじんわりと沁み込んでいく。身体の内側から温められていく感覚は、張り詰めていた精神を落ち着けていくようだった。
「……おいしい」
「ッ……うん…良かった…」
晴斗のほうをちらりと見てからもう一口喉へと流し込む。
この生姜湯は陽汰が高熱を出した時に晴斗がいつも作ってくれるものだ。初めの方こそ甘すぎたり、辛すぎたりしたものだが、いつしか陽汰の好みに合うようになっていった。それは、これを飲んだ時の陽汰の些細な反応を晴斗が見逃さないでいてくれた結果だろう。
毎回文句一つ言わずに看病してくれていた優しい晴斗のことを思うと、やはり彼の身体に何があったのかはしっかり聞いておかなければいけないという気持ちが強くなっていく。
多少の怒りと恐怖はまだ心の中に残っていたが、陽汰は感情的にならないように声を抑えて晴斗に問いかけた。
「晴斗、さっきは何があったんだ?」
彼からは陽汰を襲った時のような獰猛さはすっかり消えている。
怒られた犬のように肩を落とし、眉尻を下げている彼は戸惑いながらもぽつぽつとあの時のことを話し始めた。
「ひな兄…本当にごめん……あの時、頭の中をぐちゃぐちゃにされている感じで、自分が何を考えているのかもわからないし、身体も制御できなかった…意識がはっきりした時には、その…ひな兄がベッドで気を失ってて…それで俺、また自分のこと抑えられなくなってひな兄のこと襲ったらどうしようって怖くなって…廊下で頭冷やしてた…謝って許されることじゃないってわかってる…けど、本当にごめん…」
話しながら自分のことを制御できなかった恐怖を思い出しているようで、彼の声には震えが混じっていた。
「……」
あんな風になってしまった晴斗を陽汰は一度も見たことがなかった。そして、晴斗自身も初めての経験だったのだ。自分自身が信じられなくなってしまうのも仕方のないことだろう。
「……いつから、身体がおかしくなった?」
「…最初に気付いたのは、この前ひな兄がアルファの後輩と飲んできた日…あの時ひな兄のフェロモンみたいな匂いと、それと…嫌な、匂いもした…」
その話に、そういえば今日の昼間もその時と同じ後輩と会っていたことを思い出す。
陽汰自身は大して気にもしていなかったが、晴斗は陽汰から香ってきたそのアルファフェロモンを敏感に感じ取ってしまったのかもしれない。そして、それが引き金となって身体の制御をすることができなくなってしまった。
「……」
風呂場でも考えていたが、晴斗がこうなってしまったのは彼だけのせいじゃない。
匂いを付けてきてしまった陽汰のせいでもある。もう少し自分が気をつけていれば晴斗にこんな後悔をさせることもなかったのに。
陽汰が罪悪感に駆られていると森林の香りがふわりと漂ってきた。その香りにピクッと身体が小さく跳ね、少しの警戒心を滲ませながら晴斗のほうへと視線を向ける。
彼は手をぎゅっと握りしめ、俯いていた。表情をはっきりと見ることはできなかったが、陽汰にはなんとなく晴斗が泣くのを堪えているように思えた。
晴斗のこの香りはきっとフェロモンだ。
本来、ベータではありえないはずのフェロモンが彼から出ている。
通常、晴斗の年齢ならとっくに分化する時期を過ぎているが、この歳になってから分化する例が今までなかったわけでもない。それに晴斗の父親はアルファだったはず。
晴斗がアルファになる遺伝子を元々持っていたと考えてもおかしくはないだろう。
「……晴斗、明日一緒にABOの病院に行こう」
「え……」
「一緒に行って、ちゃんと検査してもらおう」
陽汰の言葉に晴斗は驚きの表情を浮かべた。それは自分がこの年齢で分化したかもしれない、ということよりも陽汰のほうから一緒に行こうと言ったからだろう。
普通の人だったら一人で勝手に行ってこいと言い捨てていてもおかしくない。それなのに陽汰は…。
「どうして……一緒に行ってくれるの…?俺、あんなにひどいことしたのに…」
「……まぁ、俺もお前の身体が心配だし」
少し視線を逸らしながらもそう口にする彼の姿に涙が浮かびそうになる。
優しすぎる陽汰にこんなにも甘えてしまっているのが情けなくもあったが、今は彼の優しさに縋るしかなかった。
「……ごめん」
「もう謝らなくて良いって」
陽汰の中で完全にあの時の恐怖が消えたわけではない。だが、これ以上晴斗が落ち込んでいるところを見続けるのは陽汰としても辛かった。それに、もしも晴斗の暴走がアルファになったことによるものだったとしたならば、今こうして冷静になっている彼のことをこれ以上責めたくもなかった。
本来ならばフェロモンの放出はある程度制御できるはずだ。だが、分化したばかりの晴斗はそれができずにいる。
そんな彼から香る森林の香りは、今は襲ってきたときのような恐怖を与えるものではなく、陽汰のことを優しく包み込み、どことなく安心感を与えてきている。
陽汰は小さく息を吐き、晴斗のおかげで出るようになった声で彼の名前を呼んだ。
「晴斗」
「…うん」
「……生姜湯、ありがと」
それだけを伝えて布団へと潜り込み、陽汰は再び瞼を閉じた。
ともだちにシェアしよう!

