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第一部 4章 怖くない?

 薬と晴斗の看病のおかげで陽汰の体調は回復し、二人は予定通りABOの病院へ向かうことにした。  昨夜のことはやはりまだ完全には拭いきれておらず、朝、顔を合わせた時も家を出る時間だけを告げて陽汰は自室に籠った。そして、その約束の時間まであと少しなのだが、下着姿の自分が映る鏡の前で陽汰は数分間悩んでいた。 「どうすれば隠せるかな…」  そこに映る自分の身体にはそこかしこに痛々しい跡が残されている。  晴斗に掴まれてできた両手首の痣、首に付けられた鬱血痕、膝にはベッドから崩れ落ちたときにできた青紫の痣。そのうえ泣きすぎたせいで目元の赤みもまだ少し残ってしまっている。  それら全てを隠せる方法を考え、悩んだ末にクローゼットから服を取り出した。  真夏にこの恰好をするのは暑いかもしれないが、このくらいしなければきっと隠すことはできない。  陽汰は半袖Tシャツの上に薄手のカーディガンを羽織って手首を隠し、黒い細身のスキニーを穿いて膝の痣も隠した。首にはストールを巻き、目元を隠すために黒縁の伊達眼鏡をかける。 「変、じゃないよな…」  鏡の中の自分の姿に不自然なところがないか見ながらぽつりと呟く。  他人にこの痕を見られることももちろん危惧していたが、晴斗の目に触れるのも極力避けたかった。きっと彼の性格ではこの痕を目にする度に自責の念に駆られてしまうだろうから。  全ての痕をしっかりと隠せたことを確認し、部屋を出ると晴斗はすでにリビングのソファで待っていた。 「晴斗、お待たせ」 「いや、全然待ってな…」  言葉の途中で陽汰の姿を見た晴斗が固まった。  ソファから半分立ち上がった奇妙な姿勢で固まっているその姿に陽汰は首を傾げる。  まさかこの服装、そんなに変だったか? 「これ、似合わない?」  陽汰の言葉にハッと晴斗が反応し、彼は慌てて手も首もぶんぶんと横に振り、そういうことじゃないと全身で示しながら早口で弁明した。 「い、いやいや!すごい似合ってる!なんていうかひな兄のその恰好が新鮮だったからつい!」 「…ぷっ…お前慌てすぎだろ」 「だ、だって!あぁ、もう、ひな兄笑いすぎ!」  顔を赤くして焦る晴斗の姿にますます笑いが込み上げてきてしまう。  お腹を抱えながら笑っていると、晴斗は恥ずかしさを誤魔化すように頭を掻きながらもちらちらと陽汰のことを見てくる。その姿が更に面白く見えた。  こんな風に笑っていると昨日のことや朝の気まずさなんてまるでなかったように思えてくる。  それは晴斗も同じだったようで、けらけらと笑う陽汰を見ながら彼も自然と笑みを見せた。  ◆ 「検査の結果、高瀬さんはアルファに分化したということで間違いないです」  医師に告げられた言葉に医薬品の匂いが漂う診察室内が一瞬静まり返る。  陽汰が晴斗のほうをちらりと見ると彼は真剣な面持ちをして検査結果の用紙を見つめていた。その表情からは彼が何を考えているのかは読み取れない。  予想していたとはいえ、こうして明確に分化したと言われて衝撃がないわけがないだろう。  生まれながらにしてのオメガである陽汰はアルファやオメガといった第二の性が影響を与えてくるというのが当たり前であった。だが、晴斗は違う。彼はそんな第二の性によって左右されることのほぼない世界にいたのだ。  それが何の因果か、一般的な分化の時期を過ぎているうえに受験前のこのタイミングで、そんな世界に放り込まれることになってしまうなんて。 「高瀬さん、突然アルファになって混乱しているかもしれませんが…」 「…いえ、自分でも薄々は気付いていたので…理由がわかって良かったです」  そうは言ったものの晴斗の中には不安が広がっていた。  ベータからアルファになったことで生活が一変してしまうのではないか。また昨日みたいに自分を制御することができなくなってしまうんじゃないか。そして、オメガの陽汰との関係も変わってしまうのではないか…。  様々な不安が渦巻く中、医師からの説明が終わり、診察室を出ようとしたところで陽汰のみが呼び止められた。 「東条さん、少し残ってもらっても良いかな?」 「はい、大丈夫ですよ。晴斗、待合室で待ってて」 「……わかった」  晴斗が診察室を出て行ったのを確認し、陽汰は目の前の医師と向き合う。  実は陽汰は以前、この医師の世話になったことがあった。  それはまだ大学に入学したての頃、今まで使っていた抑制剤とは違うものを使ってみたところアレルギー反応を起こしてしまい、その時に診てくれたのがこの医師だった。  この病院の中ではかなり若手の医師で陽汰との年齢もそこまで離れておらず、気さくに話しかけてくれたので陽汰の記憶にも強く残っていた。  あれ以降アレルギー反応が出ていないか確認のために残るように言われたのかと思ったのだが、医師の言葉は陽汰の予想とはかけ離れたものだった。 「久しぶりだね、陽汰くん。単刀直入に聞くけど、彼は恋人?」 「えっ…いえ、そういう関係ではないのですが、一緒に暮らしてはいます。どうして恋人だと…?」 「…手首と首の痕、見えてるよ」  ドキッと心臓が大きく飛び跳ね、視線を下ろす。すると、しっかりと巻いていたはずのストールが少しずれて隙間ができてしまっていた。そのうえ、暑かったせいで無意識にカーディガンの裾を捲り上げてしまっていたのだ。  激しい情事を匂わせる痕跡を見られてしまったことにスッと血の気が引いていく。  アルファがオメガの同意なしに性交に及ぶことは重罪だ。それはオメガを守るために作られた法律であり、もしも医師が警察に通報したら晴斗は間違いなく逮捕されてしまう。 「あの…これは、そのっ…」  この痕はなんでもない、と口から出まかせでも良いから言えれば良かった。しかし、手首に残る痣を見た瞬間、昨日の行為を思い出してしまい、言葉を続けることができなかった。  顔を青ざめさせ、膝の上で両手をぎゅっと握りしめた陽汰の様子に医師は小さく息を吐き出す。そして、晴斗の診断結果にちらりと目をやってから口を開いた。 「こういう込み入ったことは言わないほうが良いんだろうけど、恋人でないうえに一緒に暮らしているってなると、医師として一つ忠告しておいたほうが良いかと思って」 「はい…」 「君はオメガだからアルファについての知識もそれなりにあると思うんだけど、恋人ではないオメガとアルファが一緒に暮らすことの危険性はわかるよね」 「はい…」  その危険性についてはもうすでに嫌というほど味わった。  あんなことがなかったら、晴斗は大丈夫、そんなことにはならない、とまだ言えたかもしれない。だが、晴斗自身が制御することも、陽汰が止めることも一切できなかったのが現実だ。  医師がこうして忠告してくるのは当たり前のことであり、第二の性に左右される世界ではこのリスクから逃れることはできないのだ。 「陽汰くん、二人が一緒に暮らしているのには理由があると思うけど、できることなら別々に暮らすことを勧めるよ」 「……はい、考えてみます」  小さく頷いたあと、陽汰はこの際だからと心の中に引っかかっていたことを聞いてみることにした。すでに首などについた痕を見られてしまったのだからこの医師は何があったのか察しているだろう。 「あの、妊娠検査っていつぐらいからできるものでしょうか?」 「だいたい一か月くらいかな。予約取っていく?」 「いえ、検査薬使おうかと」 「検査薬の精度は高いけど、100%ではない。病院で診るほうが確実だよ。今なら予約も取れるし、君は前にアレルギー反応を起こしたこともあるからこの機会にしっかり検査しておくのもありだと思うな」  医師の言っていることはもっともだ。もし本当に昨日の件で妊娠していたら結局は病院に来ることになる。それならば最初から病院で診てもらったほうが良いのかもしれない。  このお腹の中に晴斗との子ども、か…。  その時、ふと夢の中で見た幸せな光景が頭を過った。二人で陽汰の妊娠を喜び合ったあの光景。  もし、本当に妊娠していたら晴斗は夢の中みたいに泣いて喜んでくれるのかな?  そんな考えが一瞬浮かんだが、すぐに気がついた。  もし、すでに晴斗には好きな人がいるとしたら?  今はいないとしても今後好きな人ができたら…?  昨日のことはフェロモンの影響で起こってしまった事故だ。晴斗も望んで陽汰を襲ったわけじゃない。本能に抗えなかっただけだ。  それなのに夢の中で幸せな光景を見たことで、晴斗が喜んでくれることを勝手に期待してしまった。  晴斗が喜んでくれたら嬉しいな、と…ほんの僅かに思ってしまった…。  現実的に考えたら、好きでもない相手との子どもによって晴斗の人生を縛り付けてしまうことになる。  アルファになったばかりなうえに受験も控えている彼に「妊娠した」なんて話……言えるわけがない。  陽汰はそっと自身のお腹の上に手を当てた。するとズキッと奥の方に痛みが走り、思わず眉間に皺を寄せてしまう。  陽汰のその様子に気付いた医師は軽く息を吐きながら同情するような表情を浮かべた。 「陽汰くん、今は君たちに何があったのか詳しくは聞かないけど、もし必要だったらカウンセリングも紹介できるからね。アルファとオメガのこういうこと、僕たちはたくさん見てきたから…だから、怖いかもしれないけど検査だけはしっかり受けてほしい」 「……はい…わかりました。お願いします」  一か月後の検査予約をし、医師に礼を言ってから診察室を出ると待合室では晴斗が不安気な顔で待っていた。  扉はしっかりと閉まっていたし、中の会話が聞こえていた、なんてことはないと思うが、僅かながらに緊張してしまう。 「何の話だったの…?」 「いや、大したことじゃない。俺が前に抑制剤でアレルギー反応起こしたことあったから、その後大丈夫だったかって話。気にすることないよ」 「そう…」  陽汰の言葉を聞いてもまだ不安さを滲ませる晴斗にこれ以上余計な心配をかけさせるのはやはり憚られた。  晴斗は自分のことで大変なのだから、そんな中で陽汰の妊娠の話で更に悩ませるわけにはいかない。しかし、二人の問題である『一緒に暮らすことのリスク』については話しておかなければならないだろう。  少し気が重いが、陽汰は家に帰ったらそのことについて相談しようと両手をぎゅっと握りしめた。  ◆ 「晴斗、ちょっと話があるんだけど、いい?」 「うん…」  リビングで向かい合い、真正面から晴斗の顔を見つめる。その表情には不安と緊張が滲んでおり、これから陽汰に言われることを恐れているようにも見えた。  その不安からなのか、晴斗からは僅かにフェロモンが滲み出している。  森林の香りがリビングに漂い、冷房の効いた室内はまるでひんやりとした早朝の森の中にいるようだ。 「実はさっき、医者に恋人同士でもないアルファとオメガが一緒に住み続けるのは危ないって言われた」  静かに告げられたその言葉。  晴斗は心のどこかではそう言われることを覚悟していた。  本当は、危険なんてない、大丈夫だからこのまま一緒にいてほしい、そう言いたかった。だけど、昨日陽汰のことを襲ってしまったのは紛れもない晴斗自身だ。そんな都合の良いこと、言えるわけがなかった。 「……」  晴斗の沈黙に陽汰の心もズキッと痛んだ。  無理矢理ヤられたとしても、小さい頃からずっと一緒だったんだ。晴斗の気持ちを無視して強引に話を進める気持ちにはどうしてもなれない。それに、高校三年生のこの大事な時期に突然一人暮らしをさせることにも不安があった。  彼の生活面の心配ももちろんあるが、一番の心配は彼がアルファになってしまったこと。  もしも昨日みたいな状態になって見ず知らずのオメガを襲ってしまったら…?それで警察沙汰にでもなってしまったら…?  そんなこと、考えるだけでも恐ろしかった。  やはりそんな不安定な状態の晴斗に一人暮らしさせることなんてできるわけがない。せめて彼がアルファとして安定するまでは傍にいないと。  陽汰はテーブルの上に置いた両手をぎゅっと握りしめ、晴斗の顔をしっかりと見据えた。 「晴斗、今すぐにとは言わない。高校卒業まではこのままでいよう」  陽汰の提案に晴斗はパッと顔を上げて驚きの表情を浮かべた。きっと陽汰が話を持ち出した時から今すぐにでも別々に暮らすことになると思っていたのだろう。  彼は視線を泳がせながら恐る恐る口を開いた。 「ひな兄…ひな兄はそれで本当に良いの…?」 「あぁ」  迷いなく答える陽汰に晴斗は僅かに視線を下げ、二人の間に沈黙が落ちる。  窓の外から遠く聞こえるセミの鳴き声と冷房の稼働音のみが室内に響く中、陽汰は晴斗の言葉を待った。そして、グラスの中の氷がカランと音を立てたのと同時に晴斗の震え混じりの声が零れた。 「ひな兄は…俺のこと…怖くないの…?」  ……怖くない、と言ったらそれは嘘になる。  また昨日みたいなことになったら陽汰は晴斗に勝てない。今回よりももっと酷い目に会う可能性だって十分にある。だけど、このまま晴斗を放り出すことなんてできるわけがない。本来の彼は優しい心を持った大切な幼馴染なんだから。  陽汰は自分の中の恐怖心を押し込み、晴斗の瞳を真っ直ぐに見つめた。 「俺は大丈夫だよ」 「…ッ…ひな兄はどうして…っ」  そんなに自分を犠牲にするの…?  そう続けようとしたが、突然、陽汰が晴斗のおでこにデコピンをくらわせて言葉の続きを遮った。  まさかデコピンをされるなんて思わず、突然の痛みに晴斗は驚いて叩かれた額を両手で押さえつける。  陽汰は小さく溜め息を吐きながら指をテーブルの上に戻し、いつもの調子を取り戻すように口を開いた。 「俺が怖いのはお前が大学受験に失敗すること。こんなことで人生棒に振った、なんてことになったら洒落にならないからな。それに昨日は分化したばかりで制御できなかっただけだろ?晴斗、お前は優秀なんだ。だから、これからは制御できるって俺は信じてるよ」  その言葉は晴斗に言っているようでありながら陽汰自身にも言い聞かせるようにして出た言葉だった。  自分は晴斗のことを信じている。そう思うことで恐怖心を押し殺せるような気がしたから。  陽汰の言葉に晴斗はまだ少し不安さを滲ませながらもこくりと頷いた。 「……うん…ひな兄、ごめん…ありがとう」 「よろしい。まぁ、また昨日みたいなことになりそうになったら…その時は隠れるなり何なりするから安心しろ。俺がかくれんぼ上手かったの知ってるだろ?」  その言葉に昔はよく二人で隠れんぼをしていたことを思い出した。  ゲーセンなんてない田舎に住んでいた二人は森や川が遊び場だった。自然の中でやる隠れんぼに親には何度も怒られたが、その時の楽しかった記憶は今でも鮮明に覚えている。  懐かしい記憶に晴斗の強ばっていた表情も次第に和らいでいき、その顔には微笑みが浮かんだ。 「そうだったね。いつもひな兄のこと見つけられなくて俺泣いてたっけ」 「そうそう。ほら、この話はおしまい!夕飯にしよう」  晴斗の元気が戻ってきたことに陽汰は満足気な表情を浮かべた。  一緒に過ごせるのはあと数か月。  この数か月を乗り切ることができればお互い平穏に暮らせるようになるはず。  気まずいまま過ごすなんて俺たちの関係には似合わないんだから、こうするのが一番なんだ。

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