8 / 30
第一部 8章 離れたくない
「晴斗ー、飯できたぞ」
「あ…うん…」
「……」
晴斗の気まずげな態度に陽汰は小さく溜め息を吐く。
彼がこんなに気まずそうにしているのも無理はない。
先日の晴斗の発情期中に彼は陽汰に好きだと告白してきた。だが、陽汰はその言葉を受け入れることはできなかったし、それは今になっても変わらない。
陽汰の予想通り、オメガのフェロモンによって晴斗の症状はすぐに収まったのだが、その後に残ったのはこの気まずい雰囲気だ。
陽汰としては告白を受けることはできないが、今まで通り普通に接しようと思っている。だが、晴斗はそうもいかないようだった。
「晴斗、ちょっとこっち来い」
「なに…痛ッ!?」
部屋から出てきた晴斗に陽汰は思いっきりデコピンを食らわせた。それは以前、自分のことが怖くないのかと聞いてきた晴斗に食らわせたもの、よりも更に強い力でだ。
陽汰の元々の力自体がそこまで強くないため、怪我するなんてことにはならないが、その痛みはしっかりと晴斗に効いた。
「ひな兄、突然なに…」
「晴斗、お前が今、最優先しないといけないことはなんだ?」
「……勉強」
「わかってるじゃん。お前が行こうとしてる大学は生半可な気持ちで行けるところじゃないってわかってるよな?」
「うん…」
ジンジンする額を片手で押さえながら晴斗はこくりと頷いた。だが、その表情にはまだ迷いの色も見える。
陽汰はそんな彼の手首を掴んでリビングへと引っ張り、夕食の並んだテーブルに座らせた。そこにあるのは晴斗の好物ばかりだ。
「ひな兄、これ…」
「お前の好物。晴斗、今の時期はアルファとかオメガとか関係なく、恋愛にかまけてる場合じゃない。俺だって高3のこの時期は朝から晩まで勉強したからこそ、今の大学に入れたんだ。晴斗だってやればできる。俺がお前の受験を応援しないなんて言ってないだろ?だから、これ食べて頑張れよ」
晴斗は陽汰の顔を一度見たあと、再度テーブルの上へと目を向けた。美味しそうな見た目と作りたての料理の良い匂いが鼻腔をくすぐり、晴斗の食欲を刺激していく。その中にはもちろん一番の好物である唐揚げも並べられていた。
これを作っている時の陽汰は以前のようにビール片手に料理をしていたのかもしれない。その姿を想像すると晴斗の沈んでいた表情の中に小さく笑みが浮かんだ。
「…うん。ひな兄、ありがとう」
「よろしい。あ……ぷっ、あははっ、ごめん晴斗、さっき強くやりすぎた」
「え?」
突然笑い出した陽汰に晴斗が疑問の表情を浮かべていると、陽汰の手が晴斗の額へと触れた。優しく撫でる指先が、先ほどデコピンをした場所を撫でていく。
「赤くなっちゃった」
わざと子どもっぽく言う陽汰の姿に晴斗もついプッと吹き出してしまう。
こうして気まずい雰囲気を消し、晴斗を励ましてくれるのが陽汰の優しさだ。彼への恋心が消えることはないが、今は何よりも受験を成功させることが最優先。ここで失敗したら、それこそ陽汰に見向きもされなくなってしまう。
「ひな兄、俺、頑張るよ」
「うん、お前なら大丈夫だよ。ほら、冷めちゃう前に食べよう」
テーブルいっぱいに広げられたスタミナの付く料理を晴斗は美味しそうに頬張った。
陽汰はビールを飲みながらその姿を見つめ、その光景は昔から変わらない二人を表しているようだった。
その後、晴斗は陽汰に言われた通り全力で勉強に打ち込むようになった。
朝早くから夜遅くまで自室で勉強をする晴斗に陽汰が夜食を持って行くと、晴斗の目元には薄らと隈ができていた。
陽汰は机に夜食を置いたあと彼の髪をくしゃくしゃと荒く撫でていく。
「晴斗、キリ良いところまでやったら今日はもう休めよ。目の下に隈できてる」
「うん、わかった。あれ、今日はお雑炊作ってくれたの?」
「そう、たまごと鶏肉の雑炊。最近寒くなってきたしな。風邪予防に生姜もちょっと入れてみたんだけど…」
陽汰の言葉を聞きながら晴斗はレンゲで雑炊をすくって口へと運んだ。中華風の味付けの中に少しピリッとした生姜の風味があり、内側からじんわりと温まっていく感覚に晴斗はすぐさまもう一口ぱくりと口に含んだ。
疲れた表情を浮かべていた晴斗の顔がパッと明るくなり、それを見た陽汰は顔には出さずに心の中で安堵する。
「ひな兄これめちゃくちゃ美味い!」
「ん、良かった。お前生姜効かせた料理好きだから、ちょっと多めに入れて正解だったな」
「さすがひな兄!これ食べたら絶対風邪引かないよ」
「ゆっくり食べろよ……ッ」
突然、視界の端が歪んだ。その歪みはすぐさま視界全体に広がっていき、サァッと血の気が引いていく。
ぐらぐらと揺れる視界が平衡感覚を失わせ、脚の力が抜けて倒れそうになる。だが、陽汰はここで倒れるわけにはいかないと咄嗟に机の端をぎゅっと掴んだ。
少しの間その目眩は続いていたが、幸いにもそう長く続くことはなく、正常に戻っていく視界に心の中でホッと息をつく。
晴斗のことをチラリと見ると、彼は相変わらず美味しそうにレンゲを口に運んでいた。どうやら雑炊に夢中で陽汰の異変には気付かなかったようだ。
「……じゃあ、俺は戻るから。食べ終わったらそれキッチンに置いといて。無理しすぎないようにな。おやすみ」
「うん、ありがとう。おやすみ」
晴斗の部屋の扉を閉めて一息ついた瞬間、陽汰は片手で素早く口元を押さえた。込み上げてくる吐き気を堪えながらトイレへと向かい、胃の中の物を全て吐き出そうとする。だが、すでに胃の中には何も入っていなかった。
「…っ、うっ…げほっ…は、ぁっ…はぁっ…」
吐き出す物がないのにまだ込み上げてくる吐き気にじわりと涙が浮かび上がる。
暫くの間トイレから動けず、何度もえずいて喉の奥から血の味が滲んできた頃、ようやく少しだけマシになってきた。
「はぁ…っ…はぁ…うー…」
両手で両目を押さえると手のひらには濡れた感触と瞼の熱が広がっていく。
立ち上がるのも億劫だったが、ふらつきながらも洗面所に向かって顔を洗い、鏡に映る青白い顔に思わず深い溜め息が零れてしまう。
12月に入り、本来なら陽汰の発情期が来る頃だった。だが、前回の発情期の時のように晴斗の時間を奪う訳にはいかないと考え、陽汰は病院で強めの抑制剤を処方してもらったのだ。
効き目はしっかりとあり、発情期の症状は抑えられたものの、副作用があまりにもひどい。陽汰の体質のせいもあるかもしれないが、吐き気、頭痛、目眩に度々襲われ、本当なら寝込みたいくらいだった。だが、晴斗に心配をかけたくないという一心でなんとか持ちこたえていたのだ。
幸い、晴斗が自室で勉強している時間が長いため、陽汰の不調は隠し通せている…はずだ。あと数日乗り切れば発情期の期間も終わってこの副作用に苦しめられることもなくなるだろう。
「…頑張れよ、俺…」
自分を鼓舞するように両手で両頬をパンッと叩き、廊下に人の気配がないことを確認してから自室へと向かった。
長い時間吐き気と戦っていたためかなりの体力を消耗している。だが、この厄介な副作用はなかなか完全な眠りには落としてくれず、自分でも起きているのか寝ているのかわからない状態がしばらく続いた。
そんな中、落ち着く森林の香りが陽汰を包み込んだ。その香りはツラい副作用の症状を緩和させ、苦しげな息遣いは安心しきった寝息に変わり、眉間に浮かんでいた皺も緩んでいく。
冷や汗が浮かんだ額を温かく大きな手がそっと撫でると陽汰は無意識にその手に額を擦り寄せた。
「……ひな兄、また無理して…」
涙で濡れた長い睫毛を指先で拭い、晴斗は小さく溜め息をついた。
陽汰は上手く隠しているつもりだろうが、晴斗はもちろん陽汰の不調に気付いていた。
ここ最近、陽汰がよく吐いていることも、リビングのテーブルに突っ伏して頭痛に耐えていたのも気が付かないわけがない。
昔から陽汰は体調が悪い時にはそれを隠すようにわざと明るく振舞おうとする。しかし、顔色の悪さはそう簡単に隠せるものではない。
さっきも机の端を掴んだ彼のことを盗み見ると顔が白くなり、眉間には微かに皺が寄っていた。倒れてしまわないか内心ハラハラしていたが、彼は自力でその場に立ち続けた。
本当なら陽汰を部屋で寝かせ、全ての世話を自分に任せてほしいところだ。
だが、晴斗は陽汰にそれを言うことはなかった。きっと陽汰に言ったところで「平気だ」と返されるだろう。それに、この不調を引き起こしている強い抑制剤を止めてほしいと、もしも言ったら、彼は傷を隠す猫のように晴斗の前から姿を隠してしまうかもしれない。
目の前からいなくなってしまうくらいなら、こうしてこっそりとでも良いから傍にいさせてほしかった。
「…ごめんね、ひな兄…俺のためにこんなツラい思いさせちゃって…」
その小さな呟きに陽汰の身体が一瞬ピクッと反応したが、彼は起きることなくすやすやと気持ちよさそうな寝息を続けた。
「…おやすみ、ひな兄」
翌朝、目を覚ました陽汰は椅子にかけてあったもこもこの部屋着を羽織り、ぼーっとした状態のままリビングへと向かった。
昨日のようなひどい吐き気は治まっていたが、喉がカラカラに乾いてしまっている。少し脱水気味なのか、スポーツドリンクのようなものを身体が欲していた。
フラフラとしながらキッチンを覗くと、そこにはまだ起きていないと思っていた晴斗が立っていた。
「ひな兄、おはよ。寝癖すごいよ?」
「……はよ」
「わっ、声ガラガラ。ちょっとそっち座って待ってて」
晴斗に言われるがままソファへと腰掛け、ぼんやりと待っていると目の前にペットボトルが差し出された。それはまさしく陽汰が今一番欲していたスポーツドリンクだ。
「……これ」
「朝、気分転換にランニングしてきたんだけど、これ新商品として売ってたから買ってみたんだ。飲んでみて?」
「…ん」
ごくっと一口飲むとちょうど良い塩気と甘味が口に広がり、乾いていた喉に水分がじんわりと染み込んでいく。
一気に半分ほど飲んでから唇を離すと、先程よりも大分喉の違和感が薄れ、脱水気味でぼんやりとしていた頭もスッキリとしてきた。
「あ、あとこれも」
「ん?」
「リンゴのすりおろし。ちょっと食べたい気分だったからやってみたんだけど、やり過ぎちゃって」
手渡された器の中には晴斗の言うようにすりおろされたリンゴが入っており、そこからは微かに蜂蜜の甘い香りも漂っていた。
スプーンでひとすくいして口に入れると、少し冷たかったが、その冷たさが寧ろちょうど良かった。舌の上に広がるシャリシャリとした食感と酸味と甘みが昨夜のツラさを忘れさせてくれるようで、陽汰は小さく笑みを浮かべた。
「晴斗、ありがと。美味しい」
「良かった。声も大分良くなって安心したし、勉強頑張ってくるね」
「ん、頑張れ」
晴斗が部屋に戻っていくのを見ながら陽汰はもう一口リンゴを口へと運んだ。
空っぽだった胃に広がる優しさは、陽汰の心をじんわりと温めていった。
ツラかった副作用を乗り切り、慌ただしく年末年始が過ぎた。
1月の共通テストでは晴斗も落ち着いて臨むことができ、自己採点でもなかなかの点数が取れたようだ。
そして、迎えた2月下旬の前期試験当日。
「晴斗、忘れ物ないか?」
「うん、大丈夫」
「よし、頑張れよ」
こくりと頷いた晴斗は腕時計に目を向けた。その様子に、すぐにでも出発するのかと思ったが、彼は少し視線を彷徨わせたあと陽汰の顔をじっと見つめ、少し控えめに尋ねてきた。
「…ねぇ、ひな兄、今日の試験が終わったら海にドライブに連れて行ってくれない?」
「ドライブ?」
「うん、ダメ…かな?」
晴斗がドライブに行きたいと言ってくるのは久しぶりだった。
陽汰が運転免許を取ってすぐの頃から昨年くらいまではよく二人で遠出をしたりもしていたものだが、高校三年になってからは勉強に力を入れていたため自然と遠出をすることも減っていた。
それくらい今日じゃなくてもいつでも連れて行ってやると思いながらも、これが試験へのやる気に繋がってくれるなら、とこくりと頷く。
「うん、良いよ」
「やった、ありがと」
晴斗は子供っぽさも感じられる嬉しそうな笑顔を浮かべた。
そういえばこんな風に笑うのを見たのは久しぶりだったかもしれない。
最近の晴斗はますます大人っぽさが増しており、下手したら陽汰のほうが年下に見られてもおかしくないくらいだ。
それが少し悔しくて、陽汰は手を伸ばして昔のように晴斗の髪をくしゃくしゃと撫でた。すると、晴斗も手を伸ばし、同じように陽汰の髪をくしゃくしゃと撫で返してくる。その大きな手は陽汰の頭をすっぽり覆い、余計悔しくなってしまう。
昔は自分のほうが大きかったし、晴斗はいつまでも年下で可愛い弟みたいな存在だと思っていたのに。それがいつの間にかこんなにも大きく成長していたなんて。
「ほら、もう遊んでないでそろそろ行かないと遅刻するぞ」
「うん」
「晴斗、緊張してる?」
「ちょっとだけ」
照れ笑いをしながら正直に答えた晴斗の腕を陽汰は気合い入れのようにパンパンと叩いた。
「お前なら大丈夫だって。終わったら車借りて迎え行くから、頑張ってこいよ」
「うん、ありがとう。いってきます」
「いってらっしゃい」
晴斗を送り出し、陽汰は自室へと戻った。
勉強でもしようかと思ったのだが、晴斗の試験時間が近づくにつれてついそわそわしてきてしまう。カチカチと鳴る時計の音さえも気になり、陽汰は握っていたペンを机の上へと放り投げた。
「だめだぁ…集中できない……掃除でもするか…」
こんな時は身体を動かしていたほうが気が紛れるはずだ。
陽汰は思い立ったらすぐ行動だと、家中の掃除をし始めた。
普段から掃除機をかける時は晴斗の部屋も一緒にかけていたため、今回もいつもと同じように晴斗の部屋へと足を踏み入れる。
たまに服を脱ぎっぱなしにしていることもある晴斗だったが、今日は綺麗に片付けられていた。整理整頓もしっかりされていることに感心していると、ふと机の上に広げられていた紙が目に入る。掃除機をカチッと止め、よく見てみると、そこには賃貸情報がプリントされていた。
そういえば、卒業したら晴斗とは別々に暮らすんだった。あと少ししたら晴斗は出て行くんだ。
数か月前に自分が言った期限まで残り日数が少ないことを感じながらなんとなくその賃貸情報を捲っていく。
紙には所々にメモ書きがされていた。最初のほうに書かれていたのは今の家からの距離や部屋の大きさの違いなど。数枚捲っていくとペット可のアパート情報も入っており、その中に書かれた「猫OK」の文字に昔近所にいた猫のことを思い出す。
陽汰も晴斗も猫好きで、よく近所に住むおばあさんの所の飼い猫と遊んでいた。当時の晴斗はその猫のことがあまりにも好きすぎて、毎回帰る度に渋るのを陽汰がなんとか説得していたものだ。
いやだ、帰りたくない、離れたくない、と泣いていた幼い晴斗のことを思い出して思わず笑みが浮かび上がる。
パラっと紙を捲ると最後の一枚には賃貸情報は載っていなかった。代わりにその白い紙の中央には晴斗の文字があった。
『猫がいたら陽汰も頻繁に遊びに来てくれる?』
『陽汰と離れたくない』
その文字はいつもの晴斗の力強い文字とは違い、少し震えが混じり、弱々しく見える。そして、文字のすぐ傍には小さな雫が落ちて乾いた跡があった。
その文字と涙の跡にそっと指を滑らせていくと、これを書いた時の晴斗の姿、晴斗のいなくなった空っぽの部屋が脳裏に浮かんだ。
彼を呼びに部屋を開けると真っ先に見える後ろ姿、振り向いた時の嬉しそうな笑顔、「ひな兄」と呼ぶ優しい声、陽汰のことを包み込む温かな身体、そして、胸いっぱいに広がる彼の落ち着く匂い。
それら全てがこの場所からいなくなろうとしている。
「……っ」
胸がぎゅっと締め付けられ、目頭が熱くなっていく。
ここ最近、晴斗のことを意識的に考えないようにしていた。しかし、考えないようにしようと思えば思うほど無意識に彼のことを目で追い、家にいない時は彼のことを考えてしまっていた。
隠していた感情がついに抑えきれなくなり、その紙に答えるようにぽつりと本音が零れ落ちる。
「…晴斗…俺も…離れたく、ないよ…」
瞳に涙の膜が張り、紙に書かれた文字が歪んでいく。
自分と一緒にいても晴斗は幸せになれない。自分は妊娠できない出来損ないのオメガだし、彼にはもっと合う人が現れるはず。
そう思い続けることで晴斗と真正面から向き合うことを避けていた。
ずっと晴斗の幸せのためだと、そう言い続けることで自分を正当化しようとしていた。だが、それは彼を思っているようでありながら、本当は違ったんだ。
「…っ…晴斗…俺、お前を幸せにする自信がないんだ…」
誰よりも愛していて、誰よりも彼の幸せを願っているからこそ、彼の一番近くにいることが怖くなってしまった。だから、卒業するまでと無理やりにでも期間を決め、彼から離れようとした。
それが、晴斗を傷付けることになるのはわかっていたのに。
透明な雫が「離れたくない」という文字の上にぽたりと落ちた。紙に広がる涙が、まるで陽汰の心情を表しているかのように文字を滲ませていく。
「……晴斗…」
紙の上に置いた手を握り締めながら呼んだ彼の名は、微かに震えていた。
ともだちにシェアしよう!

